-表象の森- 「即く」と「離れる」、クセナキスの音
一昨日2日の土曜日は、午前から市岡同窓会館にて15期会の幹事会。
5月27日だったか、本年1回目の会合から、7月1日とこの日の、合わせて三度目の正直で、ようやく懸案の収拾もつき、例会企画のアウトラインが定まった。
それにしても今回の企画づくりには、3年前の本会企画以来の苦労をさせられ、些か消耗気味。
別に船頭多くして収拾がつかないのではない。ただ一人、無邪気このうえない天動説的御仁、ジコチュウ夫人が議論をとかく誘導・占拠したがるから始末が悪いだけ。
2日の日曜日はいつものように朝から稽古。
これに間に合うように、早朝から9.28開催予定の「ダンスカフェ」のプランを練る。
お蔭で先夜から一睡もできず、心身へろへろとやや朦朧状態。
稽古場には、ピアノの杉谷君が久しぶりに参加した。
参考までに、クセナキスの、これは打楽器による曲ばかりだったが、その音楽で即興して見せた。
Improvisationの動きが、微細に音に即きもせず、おのおのその表出を展開させつつ、もっと大きいところで関わり合いを見せる。そんな音と動きの関わり方を、彼にも是非とも探って欲しいと思うからだ。
クセナキスの曲を懐かしそうに聴きながら、ダンサーたちの動きを追っていた彼は、なにか想うことがあったのだろう。
その後の、彼の即興演奏は、これまでとはちょっと異なる即き方があった。正確にいえば、ダンサーたちの繰り出す動きから、ときによく離れていた。
そう、いかによく離れるか、離れうるか、が肝要なのだ。
現代音楽の作曲家、Iannis Xenakis-ヤニス・クセナキス(1922年-2001年)は、意外に日本には馴染みが深いのだろう。音楽事情には疎い私でも、ずいぶん以前からその名を知っているほどだから。
初め、彼は建築と数学を学んだという。建築家として彼のル・コルビュジェの下で働き、58年のブリュッセル万国博でフィリップス館を建設しているというから本格的だ。
作曲については、オリヴィエ・メシアンらに師事、そのメシアンから「君は数学を知っている。なぜそれを作曲に応用しないのか」と諭され、その慧眼に強い霊感を受けたらしい。
54年発表の「メタスタシス」で注目を集め、60年代から80年代は多作をきわめ、世界的な現代作曲家として活躍。
70年の大阪万博では、「ヒビキ・ハナ・マ-響き・花・間」という多チャンネル360度の再生装置を駆使した電子音楽を発表し、日本でもよく知られるようになった。
現在の日本の第一人者高橋悠治とは生涯を通じて協同作業も多く、その音楽的交流は深いようだ。
<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>
<秋-52>
秋風やさてもとはまし草の原露の旅寝に思ひ消えなば 後崇光院
沙玉和歌集、応永16(1409)年の八月十五夜、菊第にて歌合侍りしに、秋旅。
応安5(1372)年-康正2(1456)年、崇光院の孫、後花園天皇や貞常親王の父。新続古今集撰進にあたり永享百首を詠進、また、仙洞歌合を開催。
邦雄曰く、源氏物語「花宴」の、朧月夜内侍の歌「草の原をば問はじやと思ふ」を写した。六百番歌合「枯野」では、俊成が「源氏見ざる歌よみは」と一喝した「草の原」で、墓場を意味するのが通例。旅の空で気が滅入った時は、秋風が訪れてくれようと歌う。同月二十五日の庚申会の歌は、「おく露もあるかなきかにかげろふの小野の浅茅に秋風ぞ吹く」、と。
たまゆらの露も涙もとどまらず亡き人恋ふる宿の秋風 藤原定家
新古今集、哀傷。
邦雄曰く、「母、身まかりにける秋、野分しける日、もと住み侍りける所に罷りて」の詞書あり、白銀の直線を斜めに一息に描いたような、悲痛な調べは心を刺す。テンポの速さまた無類。定家の母は建久4(1193)年2月13日の歿、作者31歳であった。「玉響(たまゆら)」は暫くの間の意ながら、原義は玉の触れあう声、すなわち涙の珠散る悲しみの音をも伝えている、と。
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