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<自己愛>過剰社会とは、他者を失い、市場舞台での自己分裂時代

2012-09-06 04:41:06 | 基本的なコト

<自己愛>の構造 和田秀樹著 講談社を読んだ。 

副題は、「他者」を失った若者たち。

「他者」とは、神、自然、真理、社会・・・・
神とは西欧では真理の言葉、日本では、畏れ。
’罪責人間’とは、あるべき自身に至らない自省的人間。
’悲劇人間’とは、他者の欲望を得られきらない間主観的人間。

引き継がれる土地も生業も、利権となり市場社会で流動化し、
住み暮らす場も学校・職場として変わりつづけ、親類縁者との持続的な関係も相対化した。
世帯・職場・国家という明治以降の社会の家族化は、敗戦後、土地・財閥とともに解放され、国を守り自身を守るプライドも放棄して、モダンライフの消費者として市場社会に生きる。

すでに、「他者」とは、’市場’なのだ。
資源・商品市場は、交通・運輸によりグローバルな流動性を高め、
通信・情報技術・ネットワークの普及により、
世界の金融資本市場は希望と不安の欲望の舞台となってきた。

「他者」を得るとは、家族を増やし・縁者を増やし・地域を拡げて、統制する領域を拡げて、「自己」を守り・持続・展開することでは、もはや無い。言説の中心となって統治して安定化することでも無い。

市場とネットワークで、相対的な能力・可能性を示すことであり、資産とアクセス数を増やすことになってきた。

???アクセス数とは何?
「自己」でないところからの関心の集積。
それは、量と質を相乗させ、差異の集積へと転換できれば、「自己」外は無限。

「自己愛」同士が互いの欲望を欲望するウロボロス。

だから「自己対象転移」の世界は、無限なのだ。


では、希少価値の交換市場では、この無限を均質化しないで、偏在させ、尚かつ世界化する必要がある。
今、「他者」を代弁するはずだった祭司・政治家は「他者」をとらえきれない。

「他者」を模作するはずだったマスメディアは、異端のスキャンダルを追う。
科学者・専門家も分野を細分化し、自己を断片化して、「他者」を分解してしまった。

宗教・貨幣経済・科学・芸術・親密関係・政治などの緒システムの機能と作動様式は異なっている。(N.ルーマン)

しかし、緒システムを自己組織化し相互干渉させてゆくコミュニケーション手段が、図象・記号・言語に加え音声・画像・映像などの転写量が増え、二次刺激から一次刺激の量が増える。

直感的な差異は、より動物化・スキャンダル化が顕著になる。

他方に極端な抽象化=数値化がすすむこの世界にでは、差異は金融市場も文化市場も金額化・数値化され、

身体能力も世界競技市場化し、参加と対話は集客数とアクセス数に還元される。「他者」とは、数値でも順位でもない。

ここで、「自己」に対峙する「他者」は消失しているのだ。

だから、身近な人・身近な場所が求められている。
そこは、「自己」が「他者」’と逢瀬’を重ねるところ。


「他者」とは、かって、神や言葉や風土を共有した社会ではない。
当時の倫理や道徳を持ち出しても、その矛盾は自らを刺す。

生活の場に、他者がいなくなれば、精神医療の場がより求められる。
フロイトからコフートへ。
「自己愛」が求められすぎる時代とは、近代的個人像が崩壊し、自己がまとまり切れない時代。
心の問題は、言葉の問題と同じように、当事者の場で、共感でしか語れない多様な時代。

’逢瀬’とは、心情をともなった共感の繰り返しなのだ。

参考:「自己愛過剰社会」ジーン・M・ツウェンギ/W・キース・キャンベル 著 
   「自己愛型社会」ナルシスの時代の終焉 岡田尊司 著

次は:社会のゲーム化の両極を考えようか?

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