本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

「諸系図から明智光秀の出自を探る」講座のご案内

2013年03月12日 | 427年目からの挑戦
【2013年3月12日追記】
 いよいよ講座は今週末です。
 受講された方は土岐明智氏の系図の整理された知識と今後の光秀出自研究の着眼点を得ることができると思います。どなたでも受講可能ですので、下記の2月9日記事記載の申込み先へご連絡ください。

【2013年2月9日記事】
 通説では、明智光秀は美濃明智城の城主の子として育ち、斎藤道三が討たれた際に道三側だったため攻められて明智城は落ち、光秀は脱出して越前へ落ち延びたことになっています。この話は悪書として名高い『明智軍記』が創作した話に過ぎないのですが、これに沿って作られたとみられる系図も存在し、通説として固まってしまっています。私はこれを「明智城落城・脱出説」と名付けています。
 この通説があたかも史実の如くに流布されているため、「光秀は美濃の明智城に居た」ことを前提として、光秀の出自の研究や光秀生誕地(明智城)探しが行われてきました。
 ところが、「明智城落城・脱出説」が嘘だったらどうでしょうか? これまでの出自研究や生誕地探しの努力は全て無駄で虚しいものだったことになります。
 そんな話を探る講座を美濃源氏フォーラムの東京西新宿講座でさせていただくことになりました。土岐明智氏の諸系図をご紹介して、ご一緒に分析して考えてみたいと思います。詳細は下記の通りです。受講ご希望の方は美濃源氏フォーラム事務局本部(電話0572-68-3143)、もしくは事務局長の山口さんまでご連絡ください
 
講座名  :美濃源氏フォーラム西新宿講座
 事務局長:山口純男 電話090-4920-4829
 会場  :KTC中央高等学院
      東京都新宿区西新宿8-11-10星野ビル1F
      電話03-3367-5720
 開催日時:2013年3月16日(土) 12:30~15:45
 講座構成:
  1.中世歴史回廊講座 12:30~14:00
    歴史工房 明智憲三郎 「諸系図から明智光秀の出自を探る」
  2.歴史講座:信長と光秀、そしてその時代 14:15~15:45
    法政大学講師 谷口研語 「信長の上洛と光秀の立場」
 受講料 :2,000円(美濃源氏フォーラム会員は無料)

 ★ 美濃源氏フォーラムのホームページ
 ★ 3月3日名古屋駅前講座「愛宕百韻解読講座」のご案内
 ★ 各種の講演・講座をお引き受けします。ご案内はこちら
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 ★ 本能寺の変の通説に欠落しているもの

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 『本能寺の変 四二七年目の真実』のあらすじはこちらをご覧ください。
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本能寺の変 四二七年目の真実
明智 憲三郎
プレジデント社

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10 コメント

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参加予定 (法丸)
2013-02-16 18:33:19
明智さんと谷口先生のコラボは必聴ですね
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谷口研語先生と土岐氏研究 (明智憲三郎)
2013-02-18 21:11:14
 谷口先生は土岐氏研究の第一人者というか、唯一の研究者というか、とにかく土岐氏を語るなら先生の『美濃・土岐一族』を読まねばなりません。
 残念ながら絶版で中古市場に時々出ますが1万円ぐらいしています。今、amazonを見たら6000円で出ていますので、お買い得かもしれません。http://www.amazon.co.jp/%E7%BE%8E%E6%BF%83%E3%83%BB%E5%9C%9F%E5%B2%90%E4%B8%80%E6%97%8F-%E8%B0%B7%E5%8F%A3-%E7%A0%94%E8%AA%9E/dp/4404024983/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1361189210&sr=1-1
返信する
Unknown (Tm.)
2013-03-20 14:13:22
 はじめまして明智さま、講義お疲れ様でした。示唆に富んだお話、大変勉強になりました。それを踏まえ従来の説を検討するに、いくつか思う点がありましたので述べさせていただくと共に、ご意見を伺えれば幸いに存じます。

 まず、諸系図を検討し復元される系図は、津田氏のそれがほぼ妥当であると考えます。
 その上で、光秀へと繋がる系統は(頼基-)頼重-頼秀・系、対する沼田藩土岐家のそれは(頼基-)頼重-頼(国)篤・系であり、それぞれ頼秀流、頼(国)篤流と呼びたいと思います。

 そこでまず疑問に思うのが、玄琳が光秀の子であれば作成される系図は頼秀流であるべき処、実際には頼(国)篤流となっていることです。
 その理由として考えられるのは、光秀が本当に頼(国)篤流に繋がる血筋であったか、玄琳がそれを知らず、一方で自身が頼(国)篤流に繋がる血筋であったからではないでしょうか。

 また、沼田藩土岐家にも疑問があります。
 即ち、沼田藩土岐家は頼(国)篤流ではあったが嫡流ではなく、定政の代で土岐氏に復する(称する?)にあたり、頼明に繋がる系図を作り上げたのではないかということです。

 何れにせよネックとなるのは、比較的信頼の置ける史料に依って確認できるのが、頼秀流が光秀の祖父に比定される光兼(継)まで(『尊卑分脈』)、頼(国)篤流が定政の祖父の代に比定される頼典・頼明兄弟まで(「土岐家文書」)ということであり、それ以降は個々の家の事情により操作、改竄されている可能性も考慮すべきだと思います。
 その上でなにより、家名の継承が必ずしも直接的な血筋を条件としていなかったことも重要だと思います。

 そこで改めて『続群書類従』の「明智系図」成立の背景を考えるに、玄琳が沼田藩土岐家の全面的史料の協力を受けたと考えるのにはやや躊躇を覚えます。むしろ逆ではないでしょうか。
 よしんばそうであったとすると、沼田藩土岐家は積極的に光秀との縁戚を宣伝していたことになりますが、むしろそれを避けていたとみるべきで、まさに『明智軍記』もその点を配慮したといえるでしよう。
 実際には、沼田藩土岐家が玄琳より関係文書等を譲り受けるなどして頼(国)篤流を称したのではないでしょうか。

 光秀についていえば、「光」を通字とする点からは頼秀流を継いで(称して)いたと考えられますが、血筋としては断絶していたのかも知れませんし、今となってはそれを明らかにすることも難しいのかも知れません。

以上、長々と述べさせていただきました。
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ご意見ありがとうございます (明智憲三郎)
2013-03-20 15:16:08
 ご聴講及びご意見ありがとうございます。私は以下のように考えています。
1.頼秀系と決定することには躊躇があり、頼篤系の可能性も残して、並行して研究すべきと思います。なぜならば、頼秀系とした津田氏の根拠がいずれも決定的とはいえないものだからです。
2.沼田藩土岐家が玄琳より土岐文書を譲り受けるなどして頼篤系を称したというご指摘については、私もその可能性を念頭において研究すべきと考えます。従来の研究からすると天と地をひっくりかえすようなものですし、ひとつの藩の歴史もひっくりかえすことになりかねませんが。
3.「頼秀系が明智氏本流で明智荘を領有していた」ことを前提にして研究すべきではないと考えます。明智荘は斎藤妙椿などに奪われていた可能性がありますし、尊卑文脈に頼秀系が書かれたのは頼秀系が在京し知名度(奉公衆、連歌)が高かっただけとも考えられます。
 いずれにせよ、従来の明智系図研究との隔たりの大きさから比べれば同方向ともいえるお考えですので、今後とも情報交換のほどよろしくお願いいたします。
返信する
頼秀のつなぎ所 (明智憲三郎)
2013-03-20 18:42:03
 一点書き忘れがありましたので追記します。
4.頼秀系のつなぎ所は津田説にある頼重の子としてではなく、頼篤系の頼秋の子の頼秀とする説も研究すべきと思われます。すなわち、頼秋-頼秀の次から枝分かれし、頼秀系は頼高(尊卑文脈)、頼篤系は頼弘(続群書類従明智系図)となります。したがって、頼秀系・頼篤系ではなく、頼高系・頼弘系と呼ぶのが正しいことになります。
 その理由は、下記の通りです。
(1)尊卑文脈には「頼秀以下は前本附載に據る」旨の記載があり、頼重から直接頼秀につながるのかの確かさには留保がつけられている。
(2)各系図を研究して作られたとみられる続群書類従土岐系図には異本として尊卑文脈類似の記述があるが、頼弘以下を頼高系(頼秀の子から枝分かれ)としている。
返信する
早速のお返事ありがとうございます。 (Tm.)
2013-03-23 23:54:36
確かに、津田さんの考察にも『英俊』のそれだけでは疑問に思う点はありますね。
通字からいえば光秀は頼秀系と考えられますが、ご指摘のように頼秀系を在京、頼(国)篤系を在国とみれば、光秀の経歴を考慮するに後者の可能性が高く、義昭に供奉するうえで頼秀系を継いだ形になったということではないでしょうか。
もし光秀が謀反を起こさず明智家が存続していれば、光兼に続く系図も公式に作成されていたかも知れませんね。

その意味では頼篤系の頼典に繋がるとした玄琳のそれが実態に近いものの、光秀の父親にも多くの異説がみられることからそれすら疑わしく、光秀自身が頼典の血筋に婿入りした可能性もあるのではないでしょうか。それは以前、某氏から示唆されたものなのですが、その方自身はその後その考えを進めてはおられないようです。

一方、沼田藩土岐家の問題は、それを提起すること事態いろいろと差し障りがあるかも知れませんね。

それと、『尊卑文脈』の問題ですが、ご指摘の「前本附載に據る」については、宝賀さんのWebなどからすると「前田家所蔵本」ということではと思うのですがいかがでしょう?確かに公定死後の追加には問題があるようで、政宣の父の頼宣・玄宣・の名が見られないという疑問があります。
また『続群書類従』異本の土岐系図の類似は、異本が『尊卑文脈』を参考に十郎・頼秀を彦六・頼秀に置き換えることで、光秀と沼田藩土岐家との血縁を遠ざける意図があったのではないかと考えます。

その上で注目されるのは、『寛永諸家譜』・土岐系図の頼重の説明に弟の頼高が一旦後を継いだとある点で、もしそうなら『尊卑文脈』にも頼基の子として頼高の存在が記されていてもよさそうなので、むしろ頼高と頼篤が兄弟で、彦六・頼秀は誤伝なのではないでしょうか。
つまり、津田氏の系図でいう頼高は世代一つ上がり、その頼高の位置に津田氏が十郎・頼秀の兄弟とした頼秋を置くことで、彼を兵庫頭入道常秋に比定できるのではないかと思います。
頼秋が頼篤の子、頼秀の父とされた背景には文安四年の救援奉書があり、頼高の父に彦六・頼秀が記されるなどの混乱を呼んだのではないかと考えます。
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答を急がずに (明智憲三郎)
2013-03-26 21:47:37
 『尊卑文脈』には「前本」「前田本」の両方が頻繁に書かれており、どちらが正しいのか不明です。活字化する際に混乱したのかもしれません。
 御推測のいくつかの点について、系図を書き換える必要性や推論の必然性において私には結論付けるまで踏み込めていません。続群書類従明智系図に書かれた各人物とその人物に関連する奉書の年を年表に整理して考えてみたいと思います。
 なお、頼秋と常秋を同じ「秋」の字を理由に同一人物とみるのは危険なように思います。俗世と僧籍の名前に同一文字のある人物の事例を知りませんし、僧籍に入る際には俗世との縁を切ることになっているので、同じ字は使わないのではないでしょうか?(専門知識があるわけではないので間違っているかもしれませんが)
 この推理をしたことによって思いついたことがあります。玄宣は僧籍の名前で連歌では1489年に最初の記録があります。俗世では初め頼宣と名乗っていましたが1486年に頼連と名を変えています。なぜ、コロコロと名前を変えたのか謎で、誰かの偏諱かと思ったのですが、連の付くそれなりの人物が思い当たりませんでした。ひょっとして、僧籍で宣の字を使いたかったので、僧籍に入る直前は宣の字を使わないようにしたのではないでしょうか。
 これも推測ですが政宣は「まさのぶ」と読まれているようですが、僧籍の名前で「せいせん」だったのではないでしょうか。俗世の名前とすると通字の頼の字が付いていないのが不思議です。頼宣は息子(もしくは弟)の政宣と同じ宣の字を付けたくて一旦頼連に改名したという話につながります。政宣が僧籍の名前とすると、頼秀系の本家ではなく、兄弟の誰か(光重?)が本家となります。
 御推測の話と離れてしまいましたが、答を急ぐ前にまだ整理すべきことがあると思っています。
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尊卑文脈の注記についての訂正 (明智憲三郎)
2013-03-27 14:12:50
 尊卑文脈の「前本」「前田本」などの注記は原本に書かれているものではなく、『国史大系』に活字化して収録した際の編輯時に追記した注記でした。「前本」「前田本」の意味を調べてみます。
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尊卑「分」脈の誤記でした (明智憲三郎)
2013-03-27 14:29:40
 先ほどから「尊卑文脈」と書きましたが「尊卑分脈」の誤りでした。訂正します。
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尊卑分脈の前本について (明智憲三郎)
2013-04-04 21:00:00
 尊卑分脈を収録している『国史大系』58巻・尊卑分脈第一篇の凡例を読むと、諸本で記載の差異があり、「前田家所蔵訂正本」なるものを底本として、欠けるところは諸本から補ったとのことです。その中に「前田家所蔵の一本」というのがあり、これが「前田家本」とか「前本」とか注記されたもののようです。
 したがって、頼秀以下は底本とした「前田家所蔵訂正本」には記載がなく、「前田家所蔵の一本」の附載に書かれている、ということになります。「前田家所蔵訂正本」「前田家所蔵の一本」について解説があり、それによると「前本附載」は後に書き加えられたもののようです。信憑性を判断する材料は残念ながら見出せませんでした。
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