証拠の無い推測こそ妄想という。私の推測はすべて証拠に基づくので推理と言う。その差を理解できていない人が実に多い。歴史学者にも。
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>>> 秀吉に騙され続ける歴史学界
呉座勇一氏が謀略説は「フェイクだ、フェイクだ」と騒いでいるが、トランプ大統領の言動を見ると、「フェイクだ!」と騒ぐ人自身がフェイクを垂れ流すものだ。長文になるが、以下の説明をお読みいただければ、怨恨説・野望説・偶発説はいずれもフェイクであることが、ご理解いただけるであろう。フェイクを垂れ流したのは羽柴秀吉であり、それを定説としてひたすら護持しているのがフェイクだと騒いでいる学者という構図である。
>>> 呉座勇一氏の本
読者は明智光秀や本能寺の変について、次のような基本ストーリーのもとに様々なエピソードをご存じだろう。
明智光秀の前半生については、美濃明智城落城の際に脱出して越前に逃れ、諸国放浪の後に朝倉義景に仕官し、その後、織田信長に仕えて足利義昭の上洛を信長に斡旋し、上洛後は信長と義昭の両方に仕えた。義昭の追放後は信長のもとで粉骨砕身働いたが、織田信長を怨むようになり、天下を取りたい野望も抱いて謀反を企てた。
光秀は前夜になるまで重臣にも打ち明けずに一人で謀反を計画した。謀反は信長の油断から生じた軍事空白によって偶発的に引き起こされたものだった。
本能寺の変の勃発を知って徳川家康は命からがら三河に逃げ帰り光秀討伐の軍を起こしたが出遅れた、羽柴秀吉は本能寺の変の勃発を知ると毛利氏との和睦をまとめて台風の中を驚異的なスピードで引き返して光秀を討った。
以上の基本ストーリーは歴史学界でもおおむね公認されている定説といえる。怨恨説を除いては中世史学の権威者である高柳光寿氏の昭和三十三年(一九五八)出版の『明智光秀』に書かれて定説として広まったものだ。この本は光秀謀反の動機として通説となっている怨恨説を否定して野望説を打ち出した本で、これを受けて歴史学界ではしばらく「怨恨説か野望説か」の論争が続いた。動機以外については議論にはならず「定説」として固まったわけだ。
その後、黒幕説も含めて様々な動機論が飛び出したが、二○○六年に高柳説の継承者とされる藤本正行・鈴木眞哉両氏が『信長は謀略で殺されたのか』で怨恨説と野望説を両立させることによって動機論にも決着を付けて定説を再確定した形になっている。
しかし、この定説の根拠がどれも極めて薄弱だ。歴史学界は信憑性ある史料の記事に基づいて史実を復元する実証主義史学を標榜しているが、本能寺の変については実証主義史学の基本が正しく実践されていない。「歴史裁判所」のようなものがあって、定説を審判したら間違いなく証拠不十分と判定される。それでは定説の根拠のどこに問題があるのかを見てみよう。
【明智城落城説+朝倉仕官説】
この話は本能寺の変から百年以上もたって出版された軍記物、つまり物語である『明智軍記』が創作した話に過ぎない。ところが、高柳光寿氏が朝倉仕官説を肯定したような記述をしたために定説として固まってしまったものだ。高柳氏は熊本藩細川家が正史として編纂した『綿考輯録』(細川家記)の記述を根拠としているが、この記事は『明智軍記』を参考にして書かれている。高柳氏は『明智軍記』は「誤謬充満の悪書であるから光秀の経歴を述べるところでは引用しない」とわざわざ宣言しながら、『綿考輯録』の記事を肯定することによって、皮肉にも『明智軍記』を引用してしまった。
【信長・義昭両属説】
高柳氏が『明智光秀』の中で義昭の上洛時点で「光秀はすでに信長の部下になっていたことは事実と見てよい」と書き、さらに「義昭にも仕えていた」と書いたことによって光秀が同時に信長と義昭の二人に仕えていたことが確固たる定説になってしまった。
しかし、高柳氏が根拠とした史料はやはり『綿考輯録』だ。『綿考輯録』が『明智軍記』の記事を参考にして義昭上洛前に光秀は信長に仕えたと書いているのを証拠採用したのだ。ここでも『明智軍記』の記事を引用してしまった。
このように高柳氏が採用した証拠に信憑性がないにもかかわらず、歴史学界は六十年間も訂正することなく高柳説を定説として守っている。実証主義史学を守ることが権威者の唱えた説を守ることにすりかわっているようだ。
【怨恨説+野望説】
本能寺の変から四ヵ月後に羽柴秀吉が自分の家臣に本能寺の変の顛末書『惟任退治記』を書かせた。その中に「光秀が自分を怨んで殺す」と信長が言ったことや「時は今あめが下しる五月かな」と天下取りの野望を愛宕百韻と呼ばれる連歌に詠んだと書かれている。これが怨恨説、野望説のもとであり、後世の軍記物がこれをもとにあれこれエピソードを創作して話を膨らませたのだ。
怨恨説を否定して野望説を打ち出した高柳光寿著『明智光秀』によって歴史学界に論争が起き、それが両説併記の定説に落ち着いたことは前述のとおりだが、新聞の三面記事に載るような事件ならいざ知らず、天下統一を進める信長を支えてきた重臣光秀が怨みで殺人事件を起こすだろうか。失敗したら一族滅亡である。また、「信長は天下が欲しかった。秀吉も天下が欲しかった。光秀も天下が欲しかったのである」という高柳氏の野望説の根拠に説得力があるだろうか。どうみても高柳氏の主観に過ぎない。
四百年以上に渡って言われ続けてきたのでそう思い込んでしまっているが、随分子供じみた幼稚な動機だ。
怨恨説も野望説もその根拠は「あの羽柴秀吉が書かせた」ということに尽きる。「あの羽柴秀吉が書かせた」が故に鵜呑みにはできない。勝者である秀吉が自分に都合のよい話を作ったと考えるべきだ。現に、秀吉はこの本を公家達に朗読して聴かせて宣伝に努める一方で、織田信孝・柴田勝家を倒し、織田信雄・徳川家康を屈服して織田家から政権を簒奪している。そのための輿論作りをこの本で行ったのである。
【単独犯行説+謀反秘匿説】
『惟任退治記』に「光秀は密かに謀反をたくらむ」と書かれたことが始まりだ。これをもとに軍記物が「重臣に謀反の決意を初めて明かしたのは前日の夜」といかにもそれらしく話を作り、それを『明智光秀』で高柳氏が肯定したことにより定説として固まった。謀反の秘密の漏えい防止のため、誰にも事前に相談するわけがないとしたのだ。これも、「あの羽柴秀吉が書かせた」が故にそのまま信ずるわけにはいかない。
光秀にとって目的は謀反の成功だ。秘匿は成功のための一手段に過ぎない。謀反成功のために協力者が必要ならば秘密が漏れないようにして何としても協力者を確保する。実業界における目的と手段の関係論はこのようなものであり、戦国に生き残りをかけて、常に難しい決断に迫られていた武将たちにも当たり前の論理であろう。
【油断説+偶発説】
信長が油断して生じた偶然のチャンスに光秀は謀反を起こしたことが定説となっている。現に本能寺の変は成功し、誰も「どのようにして成功したか」を問うこともなかったので具体的にどのように実行されたのか解析されていない。
たとえば、本能寺の変の当日、徳川家康は信長に会うために本能寺へ向かっていた。信長は家康を本能寺へ呼び出して何かするつもりだったのだ。一体何をするつもりだったのか。
また、光秀は信長を本能寺で討ったあと、信長嫡男の信忠が二条御所に立て籠もったのを知って信忠を討ちに向かった。光秀はなぜ信長と信忠を同時に襲撃しなかったのか。本能寺の変の勃発を知って信忠が京都を脱出していたら謀反は失敗していたはずだ。
誰も失敗してよいと思って謀反を起こすわけがない。謀反を行なうのであれば万全の準備をするのが当たり前だ。その前提で本能寺の変の当日に起きたことの説明が付かなければならない。油断説+偶発説はこの説明の努力を逃れるためのものといえる。
【家康の伊賀越え危機説】
東京大学史料編纂所が編纂した『大日本史料』という膨大な資料がある。これは年月日順に出来事に関連した諸史料の記事を集めたダイジェスト資料で研究者の誰もがまず初めに参考にするものだ。その天正十年六月四日の項には百頁以上に渡って徳川家康の伊賀越えにかかわる六十件ほどの記事がダイジェストされている。
ダイジェストした記事の多くが一揆に襲われて命からがら三河に逃げ帰った話を書いており、同行していた穴山梅雪は一揆に襲われて殺されたと書かれている。
それだけ多くの史料が書いていることだからという理由で動かしがたい定説となっているが、ダイジェストされている史料の信憑性の評価は書かれていない。ほとんどの史料が軍記物など後世の人の書いた記事だ。
ところが一人だけ三河の岡崎に逃げ帰ってきたばかりの家康一行に会った人物がいた。彼は会ったその当日の日記に「梅雪は切腹なり」と書いている。一揆に殺されたのではないのだ。状況からみれば家康に切腹させられたということだ。しかし、この証言は無視されてきた。証言の信憑性では「勝ち」にもかかわらず多数決で「負け」だからだ。
高柳氏は『明智光秀』に「梅雪はたびたび一揆に襲われて殺された。これは恐らく事実であったろう。家康は岡崎に帰ると翌五日すぐに光秀に対して敵対行動に出た」と書き、その裏付け史料のひとつとしてこの人物の書いた日記『家忠日記』を挙げている。
ところが、この日記には梅雪が一揆に殺されたことも翌五日に光秀に対して敵対行動に出たことも書かれていない。むしろ逆のことが書かれているのだ。家康が光秀討ちではなく、真っ先に甲斐の織田軍攻めに動いた史実も、すっかり見落とされたままだ。
【秀吉の中国大返し神業説】
本能寺の変の翌日の六月三日夜、信長・信忠の死の知らせを受けた秀吉は翌四日に毛利氏と緊急に和睦し、定説では六日に備中高松の陣を引き払い、台風の中を一日で八十キロ進む強行軍で七日に姫路城にたどりついたことになっている。高柳氏の『明智光秀』にもこの行程がそのまま書かれている。
実は、この行程を最初に書いたのも『惟任退治記』だ。秀吉が都合よく書かせた記事を無条件に正しいと信じ込んでしまっているに過ぎない。
定説の根拠は確かに怪しくて、いろいろな疑問もあろうが、歴史の真実はタイムマシンでもなければわからない、という人もいる。現実世界の真実は四百年前に起きたことも今日起きたことと同じように捉えることができる。それが蓋然性(確からしさの度合)だ。
たとえば、一九九八年に起きた和歌山毒入りカレー事件。町内会の夏祭りで販売されたカレーライスに砒素が混入されていて死者が出た事件だ。容疑者の主婦がカレー鍋に砒素を投入する決定的瞬間を見た証言はない。決定的な目撃証言がなくても容疑者に有罪判決が下されたのは蓋然性だ。様々な証拠から容疑者が砒素を投入した蓋然性が高いと判断されたのだ。
歴史の真実も全く同様だ。直接そのことを書き残した史料がなくても犯罪捜査と同様に様々な証拠から蓋然性の高い真実を復元することができる。大事なことは答に到るこの手順だ。思い込みの前提条件から答を先に作って、それに合いそうな証拠を探すというのは本末転倒であり、犯罪捜査であれば見込み捜査による冤罪作りだ。
私は信憑性ある当時の史料から徹底して証拠を洗い直し、根底から本能寺の変研究をやり直した。洗い出された証拠の全ての辻褄の合う真実を復元したところ、ことごとく定説とは異なる答が出た。その答には私自身も驚いた。そこで、私の採用した証拠と推理を全て見直して誤りのないことを確認し、さらに、別の答の可能性がないかを様々な観点で検証して、ようやく納得できた。この手法は経営学などで仮説検証法といわれる手法だ。最高裁は確定的な証拠がなく、状況証拠のみで有罪と判断する基準を「被告人を犯人とすると(すべての証拠が)矛盾なく説明でき、かつ被告人を犯人としないと矛盾なく説明できない」としている。これと同じことだ。私は自分のこのやり方を「歴史捜査」と名付けた。一般的な歴史研究とは明らかに次元が異なるからだ。
私の復元した答だけを聞いた人は間違いなく「あり得ない!」、「奇説!」と叫ぶ。なぜならば、四百年以上にわたって誰からも聞いたことがない答だからだ。捜査内容(証拠と推理)の妥当性を虚心坦懐に評価すれば「あり得る!」「正論!」とご理解いただけるはずだ。
史料が存在せず不明とされてきた明智光秀の前半生と系譜についても歴史捜査結果を『光秀からの遺言』にまとめて出版した。出版社(河出書房新社)のホームページの特設サイトに「明智光秀全史料年表」としてすべての証拠を掲載したので、併せてご覧いただければ幸いである。
>>> 明智光秀全史料年表へのリンクページ
>>> 隠蔽された謀反の動機
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呉座勇一氏が謀略説は「フェイクだ、フェイクだ」と騒いでいるが、トランプ大統領の言動を見ると、「フェイクだ!」と騒ぐ人自身がフェイクを垂れ流すものだ。長文になるが、以下の説明をお読みいただければ、怨恨説・野望説・偶発説はいずれもフェイクであることが、ご理解いただけるであろう。フェイクを垂れ流したのは羽柴秀吉であり、それを定説としてひたすら護持しているのがフェイクだと騒いでいる学者という構図である。
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読者は明智光秀や本能寺の変について、次のような基本ストーリーのもとに様々なエピソードをご存じだろう。
明智光秀の前半生については、美濃明智城落城の際に脱出して越前に逃れ、諸国放浪の後に朝倉義景に仕官し、その後、織田信長に仕えて足利義昭の上洛を信長に斡旋し、上洛後は信長と義昭の両方に仕えた。義昭の追放後は信長のもとで粉骨砕身働いたが、織田信長を怨むようになり、天下を取りたい野望も抱いて謀反を企てた。
光秀は前夜になるまで重臣にも打ち明けずに一人で謀反を計画した。謀反は信長の油断から生じた軍事空白によって偶発的に引き起こされたものだった。
本能寺の変の勃発を知って徳川家康は命からがら三河に逃げ帰り光秀討伐の軍を起こしたが出遅れた、羽柴秀吉は本能寺の変の勃発を知ると毛利氏との和睦をまとめて台風の中を驚異的なスピードで引き返して光秀を討った。
以上の基本ストーリーは歴史学界でもおおむね公認されている定説といえる。怨恨説を除いては中世史学の権威者である高柳光寿氏の昭和三十三年(一九五八)出版の『明智光秀』に書かれて定説として広まったものだ。この本は光秀謀反の動機として通説となっている怨恨説を否定して野望説を打ち出した本で、これを受けて歴史学界ではしばらく「怨恨説か野望説か」の論争が続いた。動機以外については議論にはならず「定説」として固まったわけだ。
その後、黒幕説も含めて様々な動機論が飛び出したが、二○○六年に高柳説の継承者とされる藤本正行・鈴木眞哉両氏が『信長は謀略で殺されたのか』で怨恨説と野望説を両立させることによって動機論にも決着を付けて定説を再確定した形になっている。
しかし、この定説の根拠がどれも極めて薄弱だ。歴史学界は信憑性ある史料の記事に基づいて史実を復元する実証主義史学を標榜しているが、本能寺の変については実証主義史学の基本が正しく実践されていない。「歴史裁判所」のようなものがあって、定説を審判したら間違いなく証拠不十分と判定される。それでは定説の根拠のどこに問題があるのかを見てみよう。
【明智城落城説+朝倉仕官説】
この話は本能寺の変から百年以上もたって出版された軍記物、つまり物語である『明智軍記』が創作した話に過ぎない。ところが、高柳光寿氏が朝倉仕官説を肯定したような記述をしたために定説として固まってしまったものだ。高柳氏は熊本藩細川家が正史として編纂した『綿考輯録』(細川家記)の記述を根拠としているが、この記事は『明智軍記』を参考にして書かれている。高柳氏は『明智軍記』は「誤謬充満の悪書であるから光秀の経歴を述べるところでは引用しない」とわざわざ宣言しながら、『綿考輯録』の記事を肯定することによって、皮肉にも『明智軍記』を引用してしまった。
【信長・義昭両属説】
高柳氏が『明智光秀』の中で義昭の上洛時点で「光秀はすでに信長の部下になっていたことは事実と見てよい」と書き、さらに「義昭にも仕えていた」と書いたことによって光秀が同時に信長と義昭の二人に仕えていたことが確固たる定説になってしまった。
しかし、高柳氏が根拠とした史料はやはり『綿考輯録』だ。『綿考輯録』が『明智軍記』の記事を参考にして義昭上洛前に光秀は信長に仕えたと書いているのを証拠採用したのだ。ここでも『明智軍記』の記事を引用してしまった。
このように高柳氏が採用した証拠に信憑性がないにもかかわらず、歴史学界は六十年間も訂正することなく高柳説を定説として守っている。実証主義史学を守ることが権威者の唱えた説を守ることにすりかわっているようだ。
【怨恨説+野望説】
本能寺の変から四ヵ月後に羽柴秀吉が自分の家臣に本能寺の変の顛末書『惟任退治記』を書かせた。その中に「光秀が自分を怨んで殺す」と信長が言ったことや「時は今あめが下しる五月かな」と天下取りの野望を愛宕百韻と呼ばれる連歌に詠んだと書かれている。これが怨恨説、野望説のもとであり、後世の軍記物がこれをもとにあれこれエピソードを創作して話を膨らませたのだ。
怨恨説を否定して野望説を打ち出した高柳光寿著『明智光秀』によって歴史学界に論争が起き、それが両説併記の定説に落ち着いたことは前述のとおりだが、新聞の三面記事に載るような事件ならいざ知らず、天下統一を進める信長を支えてきた重臣光秀が怨みで殺人事件を起こすだろうか。失敗したら一族滅亡である。また、「信長は天下が欲しかった。秀吉も天下が欲しかった。光秀も天下が欲しかったのである」という高柳氏の野望説の根拠に説得力があるだろうか。どうみても高柳氏の主観に過ぎない。
四百年以上に渡って言われ続けてきたのでそう思い込んでしまっているが、随分子供じみた幼稚な動機だ。
怨恨説も野望説もその根拠は「あの羽柴秀吉が書かせた」ということに尽きる。「あの羽柴秀吉が書かせた」が故に鵜呑みにはできない。勝者である秀吉が自分に都合のよい話を作ったと考えるべきだ。現に、秀吉はこの本を公家達に朗読して聴かせて宣伝に努める一方で、織田信孝・柴田勝家を倒し、織田信雄・徳川家康を屈服して織田家から政権を簒奪している。そのための輿論作りをこの本で行ったのである。
【単独犯行説+謀反秘匿説】
『惟任退治記』に「光秀は密かに謀反をたくらむ」と書かれたことが始まりだ。これをもとに軍記物が「重臣に謀反の決意を初めて明かしたのは前日の夜」といかにもそれらしく話を作り、それを『明智光秀』で高柳氏が肯定したことにより定説として固まった。謀反の秘密の漏えい防止のため、誰にも事前に相談するわけがないとしたのだ。これも、「あの羽柴秀吉が書かせた」が故にそのまま信ずるわけにはいかない。
光秀にとって目的は謀反の成功だ。秘匿は成功のための一手段に過ぎない。謀反成功のために協力者が必要ならば秘密が漏れないようにして何としても協力者を確保する。実業界における目的と手段の関係論はこのようなものであり、戦国に生き残りをかけて、常に難しい決断に迫られていた武将たちにも当たり前の論理であろう。
【油断説+偶発説】
信長が油断して生じた偶然のチャンスに光秀は謀反を起こしたことが定説となっている。現に本能寺の変は成功し、誰も「どのようにして成功したか」を問うこともなかったので具体的にどのように実行されたのか解析されていない。
たとえば、本能寺の変の当日、徳川家康は信長に会うために本能寺へ向かっていた。信長は家康を本能寺へ呼び出して何かするつもりだったのだ。一体何をするつもりだったのか。
また、光秀は信長を本能寺で討ったあと、信長嫡男の信忠が二条御所に立て籠もったのを知って信忠を討ちに向かった。光秀はなぜ信長と信忠を同時に襲撃しなかったのか。本能寺の変の勃発を知って信忠が京都を脱出していたら謀反は失敗していたはずだ。
誰も失敗してよいと思って謀反を起こすわけがない。謀反を行なうのであれば万全の準備をするのが当たり前だ。その前提で本能寺の変の当日に起きたことの説明が付かなければならない。油断説+偶発説はこの説明の努力を逃れるためのものといえる。
【家康の伊賀越え危機説】
東京大学史料編纂所が編纂した『大日本史料』という膨大な資料がある。これは年月日順に出来事に関連した諸史料の記事を集めたダイジェスト資料で研究者の誰もがまず初めに参考にするものだ。その天正十年六月四日の項には百頁以上に渡って徳川家康の伊賀越えにかかわる六十件ほどの記事がダイジェストされている。
ダイジェストした記事の多くが一揆に襲われて命からがら三河に逃げ帰った話を書いており、同行していた穴山梅雪は一揆に襲われて殺されたと書かれている。
それだけ多くの史料が書いていることだからという理由で動かしがたい定説となっているが、ダイジェストされている史料の信憑性の評価は書かれていない。ほとんどの史料が軍記物など後世の人の書いた記事だ。
ところが一人だけ三河の岡崎に逃げ帰ってきたばかりの家康一行に会った人物がいた。彼は会ったその当日の日記に「梅雪は切腹なり」と書いている。一揆に殺されたのではないのだ。状況からみれば家康に切腹させられたということだ。しかし、この証言は無視されてきた。証言の信憑性では「勝ち」にもかかわらず多数決で「負け」だからだ。
高柳氏は『明智光秀』に「梅雪はたびたび一揆に襲われて殺された。これは恐らく事実であったろう。家康は岡崎に帰ると翌五日すぐに光秀に対して敵対行動に出た」と書き、その裏付け史料のひとつとしてこの人物の書いた日記『家忠日記』を挙げている。
ところが、この日記には梅雪が一揆に殺されたことも翌五日に光秀に対して敵対行動に出たことも書かれていない。むしろ逆のことが書かれているのだ。家康が光秀討ちではなく、真っ先に甲斐の織田軍攻めに動いた史実も、すっかり見落とされたままだ。
【秀吉の中国大返し神業説】
本能寺の変の翌日の六月三日夜、信長・信忠の死の知らせを受けた秀吉は翌四日に毛利氏と緊急に和睦し、定説では六日に備中高松の陣を引き払い、台風の中を一日で八十キロ進む強行軍で七日に姫路城にたどりついたことになっている。高柳氏の『明智光秀』にもこの行程がそのまま書かれている。
実は、この行程を最初に書いたのも『惟任退治記』だ。秀吉が都合よく書かせた記事を無条件に正しいと信じ込んでしまっているに過ぎない。
定説の根拠は確かに怪しくて、いろいろな疑問もあろうが、歴史の真実はタイムマシンでもなければわからない、という人もいる。現実世界の真実は四百年前に起きたことも今日起きたことと同じように捉えることができる。それが蓋然性(確からしさの度合)だ。
たとえば、一九九八年に起きた和歌山毒入りカレー事件。町内会の夏祭りで販売されたカレーライスに砒素が混入されていて死者が出た事件だ。容疑者の主婦がカレー鍋に砒素を投入する決定的瞬間を見た証言はない。決定的な目撃証言がなくても容疑者に有罪判決が下されたのは蓋然性だ。様々な証拠から容疑者が砒素を投入した蓋然性が高いと判断されたのだ。
歴史の真実も全く同様だ。直接そのことを書き残した史料がなくても犯罪捜査と同様に様々な証拠から蓋然性の高い真実を復元することができる。大事なことは答に到るこの手順だ。思い込みの前提条件から答を先に作って、それに合いそうな証拠を探すというのは本末転倒であり、犯罪捜査であれば見込み捜査による冤罪作りだ。
私は信憑性ある当時の史料から徹底して証拠を洗い直し、根底から本能寺の変研究をやり直した。洗い出された証拠の全ての辻褄の合う真実を復元したところ、ことごとく定説とは異なる答が出た。その答には私自身も驚いた。そこで、私の採用した証拠と推理を全て見直して誤りのないことを確認し、さらに、別の答の可能性がないかを様々な観点で検証して、ようやく納得できた。この手法は経営学などで仮説検証法といわれる手法だ。最高裁は確定的な証拠がなく、状況証拠のみで有罪と判断する基準を「被告人を犯人とすると(すべての証拠が)矛盾なく説明でき、かつ被告人を犯人としないと矛盾なく説明できない」としている。これと同じことだ。私は自分のこのやり方を「歴史捜査」と名付けた。一般的な歴史研究とは明らかに次元が異なるからだ。
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