信長による本能寺での家康討ちが成功していたら歴史はどうなっていたのか?の「歴史捜査」の3回目です。
★ もし、信長による家康討ちが成功していたら?
★ もし、信長が天下統一していたら?(中国征服へ)
前回は信長がイエズス会を利用して中国征服に向けた艦隊の準備をするところまでのお話でした。今回は侵攻軍の部隊編成や中国征服後の支配体制などをどのように考えたかのお話をします。
見本になるのが秀吉の「唐入り」(からいり:中国侵略のこと)の際の計画ですので、まず、それを見てみましょう。
文禄の役の緒戦で勝利しソウルを占領した頃に秀吉が関白秀次(秀吉のおい)に宛てた朱印状があります。これは中国・日本・朝鮮の国割りの計画を書いたものです。それによると次のように三国のそれぞれに天皇と秀吉一族を置く計画でした。
【中国】 皇帝:後陽成天皇
関白:豊臣秀次
【日本】 天皇:良仁(よしひと)親王か八条宮
関白:豊臣秀保(秀次の末弟)か宇喜多秀家
【朝鮮】 国王:豊臣秀勝(秀次の次弟)か宇喜多秀家
★ Wikipedia「後陽成天皇」記事
★ Wikipedia「豊臣秀次」記事
★ Wikipedia「豊臣秀保」記事
★ Wikipedia「豊臣秀勝」記事
★ Wikipedia「宇喜多秀家」記事
これを見てわかるように秀吉は中国、日本、朝鮮のいずれも豊臣家が直接治める支配体制を考えていたわけです。
侵攻軍の部隊編成もこれに合わせて九州・中国・四国の大名を中心としつつも、その中には小西行長、加藤清正、黒田長政、福島正則、蜂須賀家政、宇喜多秀家、木下重賢などの秀吉寵臣が加わっており、さらに奉行として石田三成・大谷吉継・増田長盛・加藤光泰・前野長康が任命され、正に豊臣政権あげての体制となっていました(徳川家康は参加していませんでしたが)。
★ Wikipedia「小西行長」記事
★ Wikipedia「加藤清正」記事
★ Wikipedia「黒田長政」記事
★ Wikipedia「福島正則」記事
★ Wikipedia「石田三成」記事
★ Wikipedia「大谷吉継」記事
さて、それでは信長はどのような支配体制を考え、どのような侵攻軍の編成をとったでしょうか?やはり中国、日本、朝鮮の織田家直接支配体制を考えたのでしょうか?
どうやらここに信長と秀吉の政策の決定的な違いがあったようです。
もう一度、フロイスの書いた信長の戦略を読み直してみましょう。
「毛利を平定し、日本六十六カ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える」
この文章で「子息たちに分ち与える」諸国とは何を指しているかです。信長には20歳代半ばの息子が3人いました。信忠、信雄、信孝です。三人を中国・日本・朝鮮に割り振ればちょうど数があいます。秀吉流に割り振るならば、中国に信忠、日本に信雄、朝鮮に信孝でしょうか。
しかし、文章中に朝鮮の文字はありません。信長には朝鮮は眼中になかったようです。諸国とは「日本六十六カ国」なのです。つまり、日本国内を息子達に割り振って分け与えるのです。
そうすると、一体シナは誰が治めるのでしょうか?
そうです、光秀や秀吉など有力武将たちなのです。当然、侵攻部隊はそれら武将たちの軍勢で編成されることになります。ちょうど秀吉・柴田勝家など有力武将を毛利・上杉攻めに送り出し、安土・京都周辺を織田家直轄領に組み換えを図った「第二次構造改革」(拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』参照)と同じ構図であり、信長の政策の当然の帰結だったのです。
おそらく信長はイエズス会を通じて得たスペイン・ポルトガルの海外植民地獲得の情報から学んだのです。インカ帝国を侵略したピサロ、アステカ王国を侵略したコルテスなど「コンキスタドール」と呼ばれた武将の役割を光秀や秀吉に求めたのです。織田家の血は流さずに領土を拡大するという戦略です。ここが秀吉の実行した戦略との大きな、かつ根本的な違いです。
★ Wikipedia「大航海時代」記事
★ Wikipedia「コンキスタドール」記事
さて、この結果がどのように展開していくかは次回をお楽しみに。
★ もし、信長による家康討ちが成功していたら?
★ もし、信長が天下統一していたら?(中国征服へ)
前回は信長がイエズス会を利用して中国征服に向けた艦隊の準備をするところまでのお話でした。今回は侵攻軍の部隊編成や中国征服後の支配体制などをどのように考えたかのお話をします。
見本になるのが秀吉の「唐入り」(からいり:中国侵略のこと)の際の計画ですので、まず、それを見てみましょう。
文禄の役の緒戦で勝利しソウルを占領した頃に秀吉が関白秀次(秀吉のおい)に宛てた朱印状があります。これは中国・日本・朝鮮の国割りの計画を書いたものです。それによると次のように三国のそれぞれに天皇と秀吉一族を置く計画でした。
【中国】 皇帝:後陽成天皇
関白:豊臣秀次
【日本】 天皇:良仁(よしひと)親王か八条宮
関白:豊臣秀保(秀次の末弟)か宇喜多秀家
【朝鮮】 国王:豊臣秀勝(秀次の次弟)か宇喜多秀家
★ Wikipedia「後陽成天皇」記事
★ Wikipedia「豊臣秀次」記事
★ Wikipedia「豊臣秀保」記事
★ Wikipedia「豊臣秀勝」記事
★ Wikipedia「宇喜多秀家」記事
これを見てわかるように秀吉は中国、日本、朝鮮のいずれも豊臣家が直接治める支配体制を考えていたわけです。
侵攻軍の部隊編成もこれに合わせて九州・中国・四国の大名を中心としつつも、その中には小西行長、加藤清正、黒田長政、福島正則、蜂須賀家政、宇喜多秀家、木下重賢などの秀吉寵臣が加わっており、さらに奉行として石田三成・大谷吉継・増田長盛・加藤光泰・前野長康が任命され、正に豊臣政権あげての体制となっていました(徳川家康は参加していませんでしたが)。
★ Wikipedia「小西行長」記事
★ Wikipedia「加藤清正」記事
★ Wikipedia「黒田長政」記事
★ Wikipedia「福島正則」記事
★ Wikipedia「石田三成」記事
★ Wikipedia「大谷吉継」記事
さて、それでは信長はどのような支配体制を考え、どのような侵攻軍の編成をとったでしょうか?やはり中国、日本、朝鮮の織田家直接支配体制を考えたのでしょうか?
どうやらここに信長と秀吉の政策の決定的な違いがあったようです。
もう一度、フロイスの書いた信長の戦略を読み直してみましょう。
「毛利を平定し、日本六十六カ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える」
この文章で「子息たちに分ち与える」諸国とは何を指しているかです。信長には20歳代半ばの息子が3人いました。信忠、信雄、信孝です。三人を中国・日本・朝鮮に割り振ればちょうど数があいます。秀吉流に割り振るならば、中国に信忠、日本に信雄、朝鮮に信孝でしょうか。
しかし、文章中に朝鮮の文字はありません。信長には朝鮮は眼中になかったようです。諸国とは「日本六十六カ国」なのです。つまり、日本国内を息子達に割り振って分け与えるのです。
そうすると、一体シナは誰が治めるのでしょうか?
そうです、光秀や秀吉など有力武将たちなのです。当然、侵攻部隊はそれら武将たちの軍勢で編成されることになります。ちょうど秀吉・柴田勝家など有力武将を毛利・上杉攻めに送り出し、安土・京都周辺を織田家直轄領に組み換えを図った「第二次構造改革」(拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』参照)と同じ構図であり、信長の政策の当然の帰結だったのです。
おそらく信長はイエズス会を通じて得たスペイン・ポルトガルの海外植民地獲得の情報から学んだのです。インカ帝国を侵略したピサロ、アステカ王国を侵略したコルテスなど「コンキスタドール」と呼ばれた武将の役割を光秀や秀吉に求めたのです。織田家の血は流さずに領土を拡大するという戦略です。ここが秀吉の実行した戦略との大きな、かつ根本的な違いです。
★ Wikipedia「大航海時代」記事
★ Wikipedia「コンキスタドール」記事
さて、この結果がどのように展開していくかは次回をお楽しみに。
ところで、信長は軍事でも改革を推進したはずです。 たぶん、火力(銃と大砲)を重視した近代的な常備軍を整備したでしょう。 その結果、指揮系統も変化を余儀なくされ、伝統的な戦国武将の役割はかなり形骸化すると思われます。 軍事改革自体は、中国侵攻とかかわり無く進められたでしょうが、ある程度の近代化した戦力で攻め込んだであろうことは想像できます。 この点、明智さんはどのようにお考えでしょうか?