本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
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新発見!「四国説」を裏付ける?長宗我部元親の書状

2014年06月25日 | 427年目からの挑戦
 戦国時代に土佐の武将だった長宗我部元親が四国の領土をめぐり織田信長の命令に従う意向を示した内容の手紙が見つかり、所蔵する林原美術館(岡山市)と、共同研究する岡山県立博物館が二十三日に発表したとのことです。手紙は五月二十一日付で本能寺の変の十日前。

 ★詳報:林原美術館プレスリリースのページ2014年6月23日
 またしても『本能寺の変 431年目の真実』を裏付ける新証拠が発見されました。発見されたのが「土岐石谷家文書」であることにも大きな意味があります。
 『本能寺の変 431年目の真実』での関連記載箇所は以下の通りです。
 第二部 謀反を決意した真の動機
  第5章 盟友・長宗我部の危機
   利三兄弟と長宗我部の絆(113頁)
   長宗我部氏と土岐氏(117頁)
   四国問題の鍵を握る石谷頼辰(120頁)
   畿内・四国同盟に訪れた危機(123頁)
 第三部 解明された謀反の全貌
  第9章 明智光秀の企て
   謀反の決意と模索(191頁)
   光秀の決断「時は今」(197頁)

 ただし、『本能寺の変 431年目の真実』をお読みの方はおわかりのように、実は長宗我部問題は副因であって、光秀謀反の動機にはまだ先があるのです。「新発見によって四国説が裏付けられた」と騒いでいるマスコミの取り扱いは私から見るとまだ二、三周遅れです。
 ちなみに、前述の第二部第5章に続く6章の書き出しは次のようになっています。
『ここで歴史捜査を打ち止めて「長宗我部征伐阻止が謀反の動機」という結論を出す手もあった。しかし、これで果たして光秀が「一族の滅亡」とまで思い詰めるのか疑問が残った』

 なお、朝日新聞には「近年では信長の四国政策転換で光秀が面目をつぶされたとする説が有力だ」と書かれており、いまだに「三面記事史観」に取りつかれたままです。「面目をつぶされた」と「長宗我部征伐阻止」とでは次元が全く異なることがおわかりでしょう。
 >>> 本能寺の変 「四国説」を嗤う
 >>> 本能寺の変は三面記事?!

 >>> 家康による穴山梅雪謀殺の新証拠
 >>> これが秀吉による野望説捏造の新証拠

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【文庫】 本能寺の変 431年目の真実
明智 憲三郎
文芸社

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20 コメント

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Unknown (Tm.)
2014-06-23 22:57:00
「光秀が信長の方針転換に不服だったか?」
という見出しからすれば、御説とは逆でしょう。

まさに、信長が土佐と伊予の配分を明確にしていなかった理由が見えてきましたね。
出ましたね (章奴)
2014-06-24 01:57:27
大変ご無沙汰致しました。
重要な資料が出ましたね。新聞サイトの記事を見て、慌てて、こちらへ飛んできました(^_^)。
Tmさん、意味不明です! (明智憲三郎)
2014-06-24 21:00:58
 新聞記者が書いたコメントを材料にして、とやかく言われても全く意味不明です。
 拙著をお読みいただければ誰でも理解できます。全部読んでいただきたいですが、少なくとも下記のページだけでもお読みください。(浅読みで歴史を理解するのは難しいです。本来は全文お読みください)
『本能寺の変 431年目の真実』明智憲三郎著、文芸社文庫、2013年12月発売
第二部 謀反を決意した真の動機
第5章 盟友・長宗我部の危機
 利三兄弟と長宗我部の絆(113頁)
 長宗我部氏と土岐氏(117頁)
 四国問題の鍵を握る石谷頼辰(120頁)
 畿内・四国同盟に訪れた危機(123頁)
第三部 解明された謀反の全貌
第9章 明智光秀の企て
 謀反の決意と模索(191頁)
 光秀の決断「時は今」(197頁)
章奴様、出ました! (明智憲三郎)
2014-06-24 21:16:30
 土岐石谷氏文書が岡山で出ましたね。驚きました。土岐石谷氏こそ光秀と元親を結びつけた一族という真実を裏付けるひとつの証拠でしょう。もっといろいろなことが出てくると期待しています。
 これで、土岐氏や土岐石谷氏を全く無視してきた本能寺の変研究者が顔を洗っていただけるとよいのですが。
ご無沙汰しております。 (氷上丹波)
2014-06-25 11:30:13
貴重な資料が出てきましたね。
「長宗我部元親書状(天正10年(1582) 5月21日) 第2巻所収」で、長宗我部元親が斎藤利三に宛てた書状とのこと。
1月の時点では拒絶した元親ですが、この書状では信長の命令(朱印状)に従うとしています。阿波国の一宮、夷山城、畑山城などの一部の地から撤退していますが、海部・大西城は土佐国の門(入り口)にあたる場所だからこのまま所持したいこと、甲州征伐から信長が帰陣したら指示に従いたいと、斎藤利三に伝えている内容です。
文庫本も買いましたが、また更なる「改訂版」もしくは「増補版」を期待します。

ちなみに私はマンガが好きで、明智さんのイメージする光秀は「へうげもの」の光秀そのものです。
個人的には織田家随一の武将とした「センゴク」の光秀像の方が好きですが。
Unknown (Tm.)
2014-06-25 21:03:00
今回の件で取材を受けられている桐野作人さんのTwitterをご覧ください。
「元親の条件闘争に光秀=利三が苦慮するかもしれないですが、だからといって謀叛というのは論理の飛躍。2人がそこまでして元親を庇うのかということ。」
と述べられています。
光秀が守るべきは明智家であり、土岐一族などというのは、それこそ『明智軍記』に汚染された幻想以外のなにものでもありません。
それに信長が長宗我に対し、浅井、朝倉、武田ほどに怒りや恨みを抱いていたとは思えません。
私見を述べれば、おそらくは秀吉の島津攻めのような形での結果を描いていたのではないでしょうか。
元親を隠居させ信親に家督を継がせ、土佐と伊予(の一部)を与えたうえで、やがて来る大陸出兵の尖兵とするつもりではなかったかと思います。
その前には、北条や家康への対処があったと思いますが。
土岐石谷家文書である意味 (明智憲三郎)
2014-06-26 20:33:31
 この書状が土岐石谷家文書にあったということは、光秀の使者である石谷頼辰がこの書状を長宗我部元親から受け取って、斉藤利三(さらにはその先の明智光秀)には渡さずに所持していたことになります。
 頼辰が渡せなかったい理由が何かあったのでしょう。たとえば、土佐と亀山の往復で、時間的に間に合わなかったとか、頼辰が「謀反が起きるのだから意味がない」と考えたか。あるいは利三に渡したが利三から「既に遅い!」と突っ返されたのかもしれませんね。
 マンガはドラゴンボールZを最後に読んでいないので「へうげもの」、「センゴク」は未見です。いずれ読んでみます。
Tmさん、桐野作人説ですか? (明智憲三郎)
2014-06-26 20:48:45
 Tmさんのバックグラウンドは桐野作人氏でしたか。納得です。
 いろいろとよく史料研究はされている桐野氏ですが、初めは朝廷黒幕説に飛びついて、次には発作説へ転換と、どうみても金田一耕助に登場する「ワカッタ!」のセリフで有名な等々力警部ですね。「いろいろあったが光秀は謀反へと飛躍した」とご自身の論理の破たんを光秀の論理の破たんへとすり替えて、ご自身の論理を飛躍させた方です。
 引用されている桐野氏の発言(御自身のことでないと「論理の飛躍」が見える?)も全く光秀-土岐石谷氏-長宗我部氏という基本的な理解が欠如しています。そのような方の御説がそんなに大事なのは何故なんですかね?
「土岐桔梗一揆」はなぜ崩壊したのか (Tm.)
2014-06-27 00:27:16
>Tmさんのバックグラウンドは桐野作人氏でしたか。納得です。
>そのような方の御説がそんなに大事なのは何故なんですかね?

いいえ、実際には桐野さんのブログにも色々と批判的なコメントをさせていただいています。
自分が考える謀反の背景には信長と誠仁親王との軋轢そして嫡男・信忠との不和があり、光秀はそれを踏まえ信長に対し謀反を決意したものであり、実際には織田政権の転覆までは考えていなかったのではないかと思っています。

その信長と誠仁親王との軋轢についてはまさに桐野さん自身が指摘されていることなのですが、自らが提唱した朝廷黒幕説を否定した手前、問題を矮小化されていますが、実際には信忠との不和の一因でもある重要な出来事であったと考えられ、両者の和解に朝廷がわざわざ勅使を遣わしていることがそれを裏付けています。
またその信忠との不和には佐久間信盛らの粛清も関わっており、不和の原因はおそらく信忠が一連の出来事に対し信長に意見したことであったと考えられます。
結論から言えば、本来、光秀が意図した謀反は「主君押し込め」であったと考えています。

その一方で、歳三には姻戚関係にある長宗我部氏の窮状と自身の稲葉家とのトラブルでの信長の沙汰への不満が、秀満ら他の重臣には信長の「近国掌握構想」への不安があり、結果として光秀の意図を超えた謀反となったのが「本能寺の変」であったと考えます。

親兄弟とて敵となり得た時代、ことさら一族云々に拘れる御説には異議を唱えざるを得ません。
何より、「土岐桔梗一揆」はそこに付け込まれ崩壊したわけですから。
少し安心しましたが (明智憲三郎)
2014-06-27 17:02:12
 桐野作人説ではなくて安心しました。ただ、そのような人の発言を盾に使うのはあまりフェアではないですね。
 御説拝聴しました。信長研究をなさっている方らしい説ではありますが、答が先にありきで、答に合いそうな証拠を探すという従来型の説と同じにならないよう祈念しております。それでは本能寺の変研究の進歩はないですからね。

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