あかない日記

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長谷川平蔵

2021-05-07 | 人物忌

戒行寺(新宿区須賀町9)

   長谷川平蔵供養碑

 

 

前回 池波正太郎の
「鬼平犯科帳」に触れたが
主人公・鬼の平蔵こと長谷川平蔵は
モデルとなった人物が実在する。

その人物は
長谷川宣以(のぶため・1745-1795)で
家督を相続して長谷川平蔵と名乗っている。

その菩提寺が須賀町ある戒行寺あり
境内に長谷川平蔵供養碑が建立されている。

 
碑の説明文には

「 池波正太郎の原作と中村吉右衛門の
テレビ時代劇で広く世に知られる
「鬼平犯科帳」の主人公である
火付盗賊改の鬼平と長谷川平蔵は、
延享3年(1746)江戸赤坂築地中之町
(現港区赤坂6の12)の拝領屋敷で生まれた。
姓は藤原、名は宣以。
称は初め銕三郎、後に平蔵といった。

寛延3年(1750)鉄砲州築地湊町に転じ

明和元年(1764)本所三ツ目通り
菊川町に移った。
父 宣雄が火付盗賊改のとき
目黒行人坂の放火犯を捕えて
京都西町奉行に栄進したが
わずか10ヵ月で急逝した。
その後、宣以が家督を継ぎ、
西城御書院番や御徒頭を勤め、
御先手弓頭から火付盗賊改を兼帯。
さらに石川島人足寄場を開設した。
軽犯者や無宿者を収容して手業を習得させ、
工賃の一部を積みたてて、
出所時の更生資金に充て、
授産所として成功させた功績は大である。
寛政7年(1795)、50歳で病没、
当山に葬られた。
 
尚、当山には、鬼平の父宣雄ら
5人の火付盗賊改が葬られている。

安部式部信旨     
 享保9年 2月24日(1724・3・19)卒
桑嶋肥後守政恒 
 宝暦7年11月10日(1757・12・20)卒
山岡豊前守景之   
 明和3年 2月 4日(1766・3・14)卒
長谷川備中守宣雄 
 安永2年6月22日(1773・8・10)卒
菅沼主膳正虎常   
 寛改元年4月16日(1789・5・10)卒 
平成6年(1994)7月17日 釣 洋一 撰 」

とある。

長谷江川平蔵の概歴は

延享3年(1746)
 赤坂筑地中之町
 (現・港区赤坂)に生まれる。

 父は  京都町奉行に抜擢され
 従五位下・備中守となった宣雄(のぶお)

 母は 長谷川家に出仕していた女中。

寛延3年(1750)
 5歳の時に筑地湊町鉄砲洲
 (現・中央区湊)の屋敷に移る。

明和元年(1764)
 南本所三之橋通
 (現・菊川駅近く)に屋敷替え。

明和5年(1768)
 23歳で十代将軍徳川家治に御目見し、
 長谷川家の家督相続人となる。

  その後、旗本大橋与惣兵衛の娘と
 結婚し、二男三女をもうける。

安永2年(1773)
 父の逝去により家督を継ぎ、
    小普請の職を与えられる。

同3年(1774)
 江戸城西の丸御書院番士

同4年(1775)
 御進物番

天明4年(1784)
 御徒頭を任ぜられ 出世を続ける。

同6年(1786)
 御先手弓頭に任命され活躍

同7年(1787)
 火附盗賊改役に抜擢

寛政元年(1789)
 無宿人対策として寄場の創設を提言

同2年(1790)  
 石川島(現・中央区佃)に

 日本初の無宿人更生施設である
 人足寄場を設置し

 取扱役を命じられる。