あかない日記

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旗本 佐野善左衛門

2021-05-21 | 人物忌


 (千代田区三番町12 大妻女子大学前)


5月21日は 
旗本 佐野善左衛門 が亡くなった日

 

佐野善左衛門は 通称で 本名は政信

1757(宝暦7)年に生まれ
 江戸時代中期 綱吉時代の旗本で
1784(天明4年4月3日)
  切腹により死去

その屋敷跡が
千代田区三番町にある。


説明文には

「 標識の後ろ側、
大妻学院の辺りには、
元禄11年(1698)から、
旗本佐野家の屋敷がありました。

佐野家は、禄高500石で、代々、
江戸城の警備を勤めていました。

天明4年(1784)3月24日、
ときの当主佐野善左衛門政言は、
江戸城中之間において、
老中田沼意次の子で若年寄の
田沼山城守意知に斬りつけました。

田沼意知は傷がもとで
4月2日に死去し、
佐野政言も翌日切腹を命じられ、
御家断絶となりました。

しかし、世間の人々からは
「世直し大明神」と
あがめられました。

また、佐野家の屋敷には
桜の名木があり、
番町の名物として知られていました。

 平成16年3月 千代田区教育委員会 」

とある。

犯行の動機は
意知とその父意次が先祖粉飾のために
藤姓足利氏流佐野家の系図を
借り返さなかった事

下野国
の佐野家の領地にある 
佐野大明神を意知の家来が
横領し田沼大明神にした事

田沼家に賄賂を送ったが
一向に昇進出来なかった事

等々 
諸説あったが
幕府は乱心として処理した。


その結果
田沼とその倹約令を嫌う
風潮があった市中では
跡継ぎを斬ったことを評価され
世人からは「世直し大明神」と
呼ばれて崇められた。

また 高止まりだった
米の相場は 偶然か刑の翌日から
下落し 財政は逼迫

やがて 1786(天明6)年の処分を経て
1788(天明8)年 田沼意次も失脚した。

ちなみに 
江戸城内での刃傷沙汰は
7件もあった。

  ①1628(寛永 5)年 
  ②1684(貞享元)年
  ③1701(元禄14)年 浅野内匠頭
  ④1725(享保10)年
  ⑤1747(延享 4)年
  ⑥1784(天明 4)年 本件
  ⑦1823(文政 6)年

      (参考:「武将ジャパン」)



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