あかない日記

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高浜虚子(虚子忌)

2020-04-08 | 人物忌

 東京 千代田区九段北 三輪田学園

  句碑「蔓もどき情はもつれやすき哉」 

 

4月8日は 俳人・小説家
高浜虚子が亡くなった
虚子忌(椿寿忌)享年85

高浜虚子(1874-1959)は 
愛媛県松山市に生まれる。


9歳のとき祖母の実家
高浜家を継ぐ。  

河東碧梧桐とともに
正岡子規に兄事し、
子規から虚子の号を受ける。

1897(明治30)年、
柳原極堂が松山で創刊した
俳誌「ほとゝぎす」に参加。

翌年、これを引き継ぎ東京に移転する。
子規が1902年に死去した後、
一時俳句の創作を辞め
小説の創作に没頭したが、

その後俳壇に復帰し、
次いでその行きすぎを修正する

ホトトギスの理念となる
「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱した。


1954(昭和29)年 文化勲章を受章。


門下には飯田蛇笏、水原秋桜子、
山口誓子、中村草田男などがいる。

著書に「虚子句集」「五百句]
「五百五十句」「六百句」
「虚子俳話」「句日記」など。

 

学園の説明文には

「この句は高浜虚子の作品で、
1947年に詠まれ、
1948年10月の
「ホトトギス」に掲載されました。

その後、1958年12月に、
虚子の集大成である
「虚子百句」が出版され、
これを機会に、
終生の友情の証しとして、
三輪田元道校長にこの句が贈られ、
1959年6月に、校内に、
句碑が建設されました。

現在の句碑の位置は、
1901年9月から1909年12月に
かけての虚子の住居、及び、
「ホトトギス」の発行所
(麹町区富士見町4丁目8番地)の
筋向かいに当たります。

高濱家と三輪田家が、
松山市が縁で、筋向かいに住み、
親しく付き合っていたことから、
校舎改築を機会に、
この場所に句碑を移設しました。


虚子は1910年12月から
鎌倉市に転居しましたが、
三輪田眞佐子(当時の校長)と
養子の元道も鎌倉市に
別宅を持っており、
親しい付き合いが、
そこでも続いていました。


また、虚子の長女の眞砂子は、
本校 高等女学校を
1915年に卒業しました。

      三輪田学園 」

三輪田学園といえば
武者小路実篤の青春時代に書いた
「お目出たき人」に出てくる
初恋の人「鶴」が
この高等女学校の生徒であったという。



神奈川県横須賀市 観音埼灯台

「霧いかに深くとも
         嵐強くとも」

 

説明文には

「1948(昭和23)年秋、
高浜虚子翁が観音埼を訪れ、
緑の岬角に屹然と立つ、
白亜の雄姿と灯台に勤める
職員が困難とたたかう姿を
詠まれたといいます。

この年、海上保安庁が創設され、
灯台80周年記念式典が
挙された年でもありました。」


茨城県龍ヶ崎市 
若柴公園前 歳時記の道

「休らへは 
 合歓の花散る 木陰かな」