寿泉院脇に
福島正則公遺蹟碑がある。
説明文には
「福島正則は、
武断派の筆頭として
文治派の石田三成と対立。
関ケ原の戦いで東軍につき、
広島49万石の藩主となる。
広島城修築を幕府に譴責され、
川中島4万五千石(高井郡二万石、
越後魚沼郡二万五千石)に改易。
元和五年(1619)須坂に到着。
須坂藩二代藩主直升の配慮で寿泉院に仮寓。
付き従ってきた嫡男忠勝の死去により
高井野の屋敷(高井村)に移る。
寿泉院にも度々来遊し、
自己の屋敷の正門を寄付する等
寿泉院と縁故深き故、
この石碑を建立。
高さは二間半。
揮毫は豊太閤護持仏碑と同様
当時の長野県知事の大山綱昌氏。」
とある
福島正則は この地にあって
高井地方の土地を検地し、
治水に力を入れ、松川の水害を
減らそうと堤防を築き
小布施の栗林を拡張するなど
住民のために働いたという。
今回の水害も含め
この当時から この地は水害に
悩まされていたことが分かる。