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あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

伊藤左千夫(左千夫忌)

2020-07-30 | 人物忌

(日本経済新聞 2003/10/11)

 

7月30日は 歌人・小説家
伊藤左千夫 が亡くなった
「左千夫忌」

 

伊藤左千夫は
1864(元治元)年
千葉県成東町生れ

1881(明治14)年 
政治家を志して上京し

明治法律学校(明大)に
入学するが 眼病のため帰郷

1885(明治18)年
 再び上京して
  牛乳店で働いたのち

1889(明治22)年 
 独立して東京・
本所で
 牛乳搾取業を営む。

1900(明治33)年
 
正岡子規の根岸短歌会に
  加わり 写実的手法を学ぶ

1903(明治36)年
  子規死後 
  根岸短歌会の機関誌
「馬酔木」を源流として
  同年10月創刊の「アララギ」に協力
1909(明治42)年
 編集兼発行者として
「アララギ」の基盤を作り

 後進の育成に当たった

1913(大正2)年 死去  享年49

 

主な作品
「野菊の墓」(1906)
「春の潮」 (1908)

 

特に「野菊の墓」は

いとこ同士で幼なじみの
少年少女の純愛を
描いて代表作になる。


(web資料から)

 

1955(昭和30)年 
木下恵介監督
「野菊の如き君なりき」
として映画化された。

小説では千葉県内の農村が
舞台であるが 
ロケは 北信州で行われて

風光明媚な千曲川周辺の
情景を背景に
清純な少年少女の心情を
描いている。

*2019年 台風19号による
千曲川氾濫で被災した
地域になるのか?

 

この作品は
日本映画ベスト150では
第38位になっている。

特に 回想シーンには
白い楕円形のぼかしの
縁取りを入れ

明治の時代を浮かび上がらせて
話題になった。

 


小説家 子母澤寛

2020-07-19 | 人物忌


(日本経済新聞 2003/8/30)

 

7月19日は 
小説家 子母澤 寛 が
亡くなった日 享年76

子母澤寛は
1892(M25)年2月1日
 北海道石狩郡厚田村
(現石狩市)に生まれる。
 本名梅谷松太郎  祖父母に養育された。
 画家三岸好太郎は 異父弟にあたる。
 
  祖父梅谷十次郎(通称斎藤鉄五郎)は
  彰義隊生き残りで五稜郭にこもり
  後に漁師の網元になる。

  この祖父の育てられたことが
  後の文学にも影響している。

1914(T3)年 明治大学法学部卒業。
   釧路毎日新聞社入社
1918(T7)年 上京し読売新聞社に入社
1926(S1)年 東京日日新聞社に転籍
1928(S3)年「新選組始末記」
1929(S4)年「新選組遺聞」
1932(S7)年「新選組物語」

 新選組三部作は 史実と巷説を
 現地踏査によって再構成し
 新選組の隊士らの実相を描いた。
 また「国定忠治」など
 股旅ものにも新境地を開いた。

1933年(S8)以来 文筆専業となる。
1955~56(S30-31)年
 勝小吉・麟太郎(海舟) 父子を
 描いた「父子鷹」
1959(S34)年 高橋泥舟の生涯を
    綴った「逃げ水」
1960(S35)年「おとこ鷹」
1961(S36)年 随筆集「ふところ手帖」
1962(S37)年 幕末遺臣と江戸への挽歌を
   点綴した一連の作品により
    第10回菊池寛賞を受賞
1968(S43)年7月19日没。





新選組の母体ともなった
近藤勇の道場「試衛館」跡が
東京・新宿区市谷柳町にある。

なお 跡地については諸説あり。
子母澤寛の「新選組始末記」では
小石川になっている。

この道場は 1839(天保10)年
新選組局長の近藤勇
(1834-1869)の
養父である天然理心流3代目
近藤周助が創設し、
1861(文久元)年 近藤勇が
4代目として後を継ぐ。

その後 近藤勇が上洛するが
三代目が亡くなる
1867(慶応3)年まで存続した。

近藤勇が道場主の頃は
新選組の中核をなす門弟の
 土方歳三(副長)
 山南敬助(副長)
 沖田総司(一番隊組長)
 井上源三郎(六番隊組長)
食客の
 永倉新八(二番隊組長)
 原田左之助(十番隊組長)
 藤堂平助(八番隊組長)
らが名を連ねていた。

 


小説家 井伏鱒二3

2020-07-16 | 人物忌

 

井伏鱒二は 
太宰治(1909-1948)とも関係があった。

太宰は 井伏の小説「山椒魚」等から
影響を受け尊敬していた。


上京後すぐ井伏のもとを
訪れ 弟子入りしている。

以後 井伏の指導で文学に精進し
檀一雄や中原中也らと
同人雑誌を創刊

思い出」を始めとして
執筆活動を開始する。

同年秋 太宰の薬物依存が
あまりに深刻な為

心配した井伏らは
太宰を武蔵野病院の
精神病病棟に入院させた。


一カ月後 完治して退院するが
太宰は「自分は人間とは
思われていないのだ、

自分は人間を失格して
しまっているのだ」と

深く傷つくが この体験が
後の「人間失格」となる。

また妻初代から入院中に
不倫の告白を受け

心中未遂事件まで起こしている。

1938(昭和13)年 
井伏は 滞在先の山梨県御坂峠に
太宰を招いた。

この結果 太宰は徐々に
精神は安定していった。

この御坂峠での文学者、
生活者としての再生を
目指した日々が
代表作の一つ
「富嶽百景」(1939年刊)につながる。

井伏が紹介した高校教師・
石原美知子と見合いし婚約


1939(昭和14)年1月
井伏の自宅で結婚式を挙げた。


その後 太宰は
東京・三鷹に転居し 死ぬまで住む。

この時ことを 
井伏は「太宰治」(1989年刊)で

「この前の不手際は、私としても
平気で行ったことでは、ございませぬ。
私は、あのときの苦しみ以来、多少、
人生というものを知りました。
結婚というものの本義を知りました。
結婚は、家庭は、努力であると思います。
厳粛な、努力であると信じます。
ふたたび私が、
破婚を繰りかえしたときには、
私を完全の狂人として、
棄てて下さい。」


と書いている。


この手紙は 太宰の生家にも送られ
結婚がうまくまとまった。

この結婚後も
太宰の女性関係は 絶えなかったが

美知子との結婚生活は
生涯にわたって続き

一男 二女をもうけた。

しかし 1948(昭和23)年6月
愛人と入水自殺してしまった。


「美知様 お前を誰よりも
愛していました。

・・・みんな、いやしい欲張りばかり。
井伏さんは悪人です。」


と遺書を残している。

井伏は 太宰とは
22歳の差があるが
太宰の才能と人柄を見抜き

公私に渡り 時には親として
師匠として 面倒見ていたのに

最後の言葉は 何でしょう!


井伏(左)と太宰 (Web資料)
1940年4月・群馬県四万温泉にて

それこそ裸の付き合い!



 

 

 


小説家 井伏鱒二 2

2020-07-13 | 人物忌




ここで 井伏鱒二は 
以前触れた林芙美子と
関わりがあつた。

1931(昭和6)年4月 
林芙美子の誘いを
受けて尾道で講演会に参加し

その翌日 因島に渡り
土井医院を訪れている。

 (当時 井伏 43歳 林 27歳)

井伏が かつて早稲田大学を
休学して憂悶の日々を送った折に

当地で下宿を提供してくれた
土井医院の長男が
病死したための墓参であった。

また  後に井伏の有名な
唐詩選の于武陵「勧酒」を
和訳する際
「人生足別離」を
「サヨナラダケガ人生ダ」
としたのは 
この時
因島を離れる船上で 

林芙美子が
「人生は左様ならだけね」と
言った言葉にあったという。

しかし 林芙美子が
他人様の墓参に
因島まで行ったのか?


林の年譜1923(大正12)年
20歳の項には

「大学を卒業して郷里の因島に
帰った岡野は
そのまま
日立造船因島工場に就職し、
家族の強い反対を理由に、
芙美子との結婚の約束を
破棄してきた。」

* 岡野とは 芙美子が女学時代に
知った明治大学の学生岡野軍一で

芙美子は女学校を卒業と同時に
岡野を追って上京し
1年ほど岡野と同棲している。

とあるので そのことが
因島行きになっている。

なお「放浪記」には
「私を捨てて去って行った島の男」
としている。

*于武陵(うぶりょう)「勧酒」の訳は
  創作詩と有名漢詩の訳文からなる

 井伏最初の詩集「厄除け詩集」
(1937・昭和12年刊行)の一訳文。

 


小説家 井伏鱒二

2020-07-10 | 人物忌



7月10日は 
小説家 井伏鱒二が亡くなった
「鱒二忌」。

井伏鱒二 の概歴は
1898(明治31)年 広島県福山市生れ
 本名 満寿二

中学時代は 画家を志したが
長兄のすすめで志望を文学に変えた

1917(大正6)年 早稲田大学予科に進む
1929(昭和4)年「山椒魚」等で文壇に登場
1938(昭和13)年「ジョン万次郎漂流記」で直木賞
1950 (昭和25)年「本日休診」他により読売文学賞
1965 (昭和40)年「黒い雨」を雑誌連載
1966(昭和41)年「黒い雨」で野間文芸賞
 同年  文化勲章受賞
1993(平成5)年  肺炎のため逝去 
    享年95


「黒い雨」は 雑誌「新潮」で

1965(昭和40)年1月号より
同年9月号まで連載され
1966年に新潮社から刊行された。


被爆者・重松静馬の「重松日記」と

被爆軍医・岩竹博の「岩竹手記」を
基にした作品であり
主人公の名前も
重松静馬の名を基にしている。


物語は 原爆の恐怖と悲劇を
描いているが
「黒い雨」とは
原子爆弾投下後に降る雨を指している。


また「黒い雨」は
同名で1989(平成5)年に

今村昌平監督により映画化されている。

矢須子に扮した主演の田中好子の
演技は高く評価され

第13回日本アカデミー賞で
最高優秀作品賞を受賞している。


他の小説も
にも映画化されているが 
喜劇でユーモラス的なものが多い。

「本日休診」(52) 渋谷実 柳永二郎
「集金旅行」(57) 中村登 
                      佐田啓二 岡田茉莉子

「駅前旅館」(58) 豊田四郎 森繫久彌
「珍品堂主人」(60) 豊田四郎 森繫久彌

 



 当方が広島を訪れた時は氷雨だった。






小説家 林芙美子

2020-07-01 | 人物忌

 

6月28日は 林芙美子が
亡くなった日と
前回触れたが

「芙美子忌」として供養されている。

林芙美子は
1903 (明治36) 年 
 現・北九州市門司区に生れ
 
若松・長崎・佐世保・下関
 ・鹿児島・直方などを
 転々とした後

 広島県尾道市に転居し
 第二尾道尋常小学校を卒業する。

1918 (大正7) 年 尾道高女に入学
1922 (大正11) 年
 卒業すると愛人を追って上京

1923 (大正12)年 
 婚約を破棄され
 日記をつけることで
 傷心を慰めたが

 これが「放浪記」の原形となった。
1926 (昭和元) 年 
 画学生・手塚緑敏と
 結ばれてから生活が安定しだす。

1928 (昭和3) 年「女人芸術」に
 「放浪記」の副題を付けた
 「秋が来たんだ」の連載を開始

1930 (昭和5) 年「放浪記」が
 出版されベストセラーとなる。

1931(昭和6) 年11月 渡欧8か月間
1943 年 信州に終戦まで疎開
1951(昭和26) 年 「浮雲」出版
 
同年 6月28日 
  心臓麻痺により急逝 享年47
 
「めし」が絶筆となる。


何と 林芙美子は
先に話題にした壷井栄と
東京・世田谷区太子堂3丁目で
お隣さん同士であった。
(1925/4~26/1)


世田谷区の説明には
「林芙美子旧居 此の路地奥の
 二軒長屋は、林芙美子の不遇な
 時代の寓居です。
その一軒には 壺井繁治、
栄夫婦が住み、
若い頃の平林たい子も
度々訪れました。・・・」とある。


またこの関係は
信州・上林温泉にもあった。

林芙美子の夫・手塚緑敏が
この地の生まれで戦火を
逃れての疎開先にもなり

一方 壷井栄は 
1943(昭和18)年から1
954(昭和29)年に軽井沢に
別荘を構えるまで、

毎年夏にこの地を訪れていた。
林芙美子の薦めあったようだ。


(世田谷区太子堂3丁目付近)

 

なお「放浪記」は
1961(昭和36)年 菊田一夫が
戯曲化し 芸術座において
森光子の主演で 初演されてから
森が死去(2012年)するまで
2017回 公演されている。

 

 


小説家 壷井 栄

2020-06-23 | 人物忌

(日本経済新聞 2003/5/10 )



6月23日は 小説家・詩人
壷井栄が亡くなった日。
享年67

壺井 栄は 1899(明治32)年
醤油の樽職人である 岩井藤吉
妻 アサの五女として坂手村
(現在小豆島町坂手)に生まれた。

幼少にして家計が傾いたため
他家の子守をしながら
坂手小学校へ通い
内海高等小学校を卒業。

村の郵便局 村役場等に勤め
傍ら文学書を読む。

1925(大正14)年 同郷の
壺井繁治 をたよって上京
彼と結婚した。

夫の繁治や 黒島伝治
佐多稲子などの
プロレタリア詩人
作家の影響をうけ

1938(昭和13)年 
処女作「大根の葉」を
文芸に発表。

以来「暦」「初旅」
「母のない子と子のない母と」等
300篇にのぼる作品を発表し
新潮文芸賞、児童文学賞
芸術選奨文部大臣賞
女流文学賞などを受ける。

1954(昭和29)年
木下恵介監督の手で
映画化された「二十四の瞳」は
一躍有名となり
今日の観光小豆島の盛況の
端緒を開いた。

1967(昭和42)年6月6日
死の直前に
小豆島町名誉町民に推挙され

同月23日 東京で没した。

 


平和の群像


土庄町にあるブロンズ像。

土庄港の入り口にあり
小説「二十四の瞳」の
登場人物である女性教師と
12名の生徒を
モデルにした群像。

丸亀市出身の彫塑家
矢野秀徳の作で
小豆島バスによって造られ

1956年11月10日に除幕された。

  (参考:ウィキペディア)

 

 


俳優 森 雅之

2020-06-14 | 人物忌

 (資料:「日本映画ベスト150」から)

 

前回 前々回と 
有島武郎について触れたが

彼の息子に 
映画俳優 森 雅之
(本名・有島行光 1911-1973)がいる。

1911年1月13日、当時札幌で教職を
 務めていた有島武郎と

 陸軍大将・男爵神尾光臣の
 娘でもある母安子のもとに

 長男として生まれる。

3歳まで札幌で過ごし
1914年  旧旗本屋敷だった
 東京麹町の有島邸に家族揃って転居


1916年5歳の時母を結核で

1923年12歳では父を心中で失い
 弟2人と共に叔父の
 有島生馬らの下で育てられる。

1973(昭和58)年10月7日
 逝去 享年62

 

日本映画ベスト150において
「知性派」として

男優ベストテンの6位に挙げられ

彼の出演した映画は
いずれも上位にランクされている。

出演映画
 「羅生門」 (1950年・4位)

 「雨月物語」(1953年・12位) 
 「浮雲」  (1955年・  5位) 

 


有島武郎2

2020-06-11 | 人物忌

 



前回 有島武郎の
新宿区の住居跡に触れたが


育った住居跡が 
千代田区にある。

説明文には

「有島武郎・有島生馬・里見弴旧居跡

白樺派の作家・有島武郎
(1878~1923)をはじめ、

有島生馬(1882~1974)
武郎の弟で洋画家、白樺派の作家

里見弴(1888~1983)武郎、生馬の弟。

『善心悪心』など

短編の名手であった
作家兄弟がここで育った。

彼らの父が明治29年(1896)に
ここを購入し、自邸とした。」

 




「現代日本文学館15」
(文芸春秋版)には

有島武郎と里見弴が
一緒に編集されている。


また 彼ら兄弟の写真は
当ブログ「信州紀行 軽井沢23
三笠ホテル晩餐会
(2020/02/06)

に掲載している。

 
1979年 日本近代文学館「有島武郎展」

 

 


有島武郎(星座忌・武郎忌)

2020-06-09 | 人物忌

日本経済新聞 (2004/03/13)

 

6月9日は 
小説家 有島武郎
(1878~1923)が
亡くなった日
(星座忌・武郎忌)


有島武郎は

1878(明治11)年3月4日

小石川水道町52番地
(現・水道1‐12‐7)生まれる。

1896(明治29)年 
新渡戸稲造を慕って
札幌農学校に進学、

初め新渡戸家に寄宿し
夫人メリーの世話になる。

在学中稲造の創設した
遠友夜学校に関係し
貧しい子女の教育にあたる。

1903(明治36)年 
アメリカに留学、
帰国後母校で教鞭をとる。

1910 (明治43)年4月 
発刊の「白樺」同人となる。

1923(大正12)年6月9日、
軽井沢三笠山の別荘(浄月庵)で

人妻で婦人公論記者の
波多野秋子と情死。

有島武郎の住居跡が
東京新宿区にある。

 

所在地 新宿区原町2-71

 

説明文には

「新宿区指定史跡
 有島武郎旧居跡
 平成3年(1991)12月6日指定

白樺派の中心的作家で、
大正期の小説界に
大きな足跡を残した

有島武郎(1878~1923)が、
最晩年の大正11年(1922)3月から
1年間を過ごした住居の跡である。

武郎は、
明治11年(1878)
東京は小石川水道町に生れた。

7人兄弟の長男で、
次男は洋画家・小説家の有島生馬、
四男は小説家の里見弴である。

学習院中等科を経て
札幌農学校を卒業。

明治36年(1903)
ハーバード大学に留学後、
ヨーロッパ各地に遊学、

明治40年(1907)帰国した。

明治43年(1910)
「白樺」の創刊に加わり、
本格的なリアリズムの
作風で文壇での地位を確立した。

代表作に『或女』『カインの末裔』
『生れ出づる悩み』がある。


この地では、戯曲『ドモ叉の死』を
書いたほか、個人雑誌「泉」が
刊行されたが、
翌大正12年(1923)6月9日
軽井沢の別荘で死去した。

 
平成4年(1992)1月
東京都新宿区教育委員会 」

 

 

 

   


朱舜水と小石川後楽園

2020-05-26 | 人物忌

 

 小石川後楽園(東京・文京区後楽1丁目)

 

前回 朱舜水・徳川光圀について
触れたが 
その関係は 
ここ小石川後楽園にもあった。

 

説明文には

「 特別史跡
  特別名勝 小石川後楽園

 江戸時代初期、寛永6年(1629年)に
水戸徳川家の祖である頼房が、
江戸の屋敷の後園として造ったもので、
二代目藩主の光圀の代に完成した庭園です。

光圀は造園に際し、明の儒者である
朱舜水の意見を取り入れ、中国の教え
「(士はまさに)天下の憂に先立って憂い、
天下の楽しみに後れて楽しむ」から
後楽園と名づけました。

庭園は池を中心にした
「回遊式泉水庭園」になっており、
随所に中国の名所の名前をつけた
景観を配し、中国趣味豊かなものに
なっています。

そして、これらによって湖、山、
川、田園などの景観が
巧みに表現されています。

この地は元々小石川台地の先端にあり、
神田上水の分流を引き入れ
造園されました。

また光圀の儒学思想の下に
造園されおり、明るく開放的な
六義園と好対照をなしています。

なお、後楽連は昭和27年3月、
国の文化財保護法により

特別史跡及び特別名勝に
指定されています。

特別史跡と特別名勝の二重指定を
受けているのは、都立公園では
浜離宮とここの二つだけです。

全国でも京都の鹿苑寺(金閣寺)、
慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院の
五か所だけです。

        東京都   」


後楽園は 徳川頼房が幕府から
76,689坪(253,500㎡)の土地を拝領し、

そこに屋敷を設けて上屋敷
(明暦の大火以前は中屋敷)とした

小石川邸の附属庭園である。

光圀は 小石川後楽園の設計では、
朱舜水の意見を取り入れて、円月橋、
西湖など中国趣味豊かな
庭園として完成させ 
園名も選ばせて「後楽園」と命名した。

この後楽園の名は 
中国の范仲淹(はんちゅうえん)
「岳陽楼記」
から引用している。

ウィキペディアによれば

范仲淹(はんちゅうえん)の「岳陽樓記」は、
1044(慶暦4)年に中央から岳州太守へ
左遷された滕宗諒が、岳陽楼を修復した際、
同年の進士だった范仲淹に
作らせた文章である。

「古文真宝」に収められ、
名文として広く知られる。

特に、末尾の一節から
「先憂後楽」という語が
生まれたことで著名

…居廟堂之高,則憂其民;處江湖之遠,
則憂其君。是進亦憂,退亦憂;
然則何時而樂耶?其必曰:
「先天下之憂而憂,後天下之樂而樂」
乎!噫!微斯人,吾誰與歸!

…朝廷の高い位にあるときは、
おのれの民を憂い、
人里離れた所に
隠れ住むときは、
わが主君のために憂う。

進んで仕えていても憂い、
退いて民間にいても憂うるのだ。


とすればいつになれば楽しむのか。


その人は必ず

 「天下の人の憂いに先立って憂い、
  天下の人の楽しみに後れて楽しむ」
というであろう。

ああ、そうした人がいなければ、
私はいったい誰に帰依すればよいのか。

 

この精神は 後年
代藩主斉昭によって開園した水戸の
偕楽園の造園趣旨にも表れている。

斉昭自ら「偕楽園」と名づけたが
「偕楽」とは 中国古典である「孟子」の

 「古の人は民と偕に楽しむ、
    故に能く楽しむなり」
という一節から援用している。


*「岳陽楼」は 
中国湖南省岳陽市にある楼閣。
洞庭湖の東北岸に建つ、

高さ20.35mの三層の木造建築であり、
眼下に広大な洞庭湖、北長江を
臨む雄大な景観で知られる。

 

 


朱 舜 水

2020-05-24 | 人物忌

 

 5月24日は

江戸前期に日本に帰化した
明の儒者
 朱 舜水
(しゅ しゅんすい・1600-1682)が
亡くなった日

「朱舜水先生終焉の地」として 
東京大学農学部の敷地内に
記念碑が置かれている。

説明文には

「東京都指定旧跡 朱舜水記念碑

日本に亡命した中国明末の遺臣。

明の万暦28年(1600)10月12日
浙江省餘姚に生まれた。

名は之瑜(しゆ)、字は魯璵(ろよ)、
号は舜水(しゅんすい)、

朱水祐、張肯堂、呉鐘巒について
学び特に詩書に通じていた。

舜水は祖国明朝の復興運動に
挺身したが果たさず、

万治2年(1659)
七度目の長崎訪来にあたり、

安東省庵の懇請により日本に留まり、
寛文5年(1665)
小宅生順(おやけせいじゅん)の
推挙で水戸藩に招かれて東上した。

同8年 光圀の別荘
(現在の東京大学農学部)に入り、
以後の生涯をこの地に過ごした。

彼の学風は、陽明学と朱子学との
中間に位置する実学(実行の学)で、

空論を避け、道理を重んじ、
水戸光圀や安積澹泊(あさかたんぱく)、

林鳳岡(ほうこう)、木下順庵らに
大きな影響を与えた。

天和2年4月17日83歳で没し、
常陸太田の瑞竜山に葬られた。

死後「朱舜水先生文集」28巻が
徳川光圀輯・徳川綱条(つなえだ)
校として刊行された。

この記念碑は日本渡来 250年祭に
あたり朱舜水記念会が
建てたものである。


平成2年12月27日 再建
    東京都教育委員会」

とある。

光圀の招きで水戸藩を訪れ、
水戸学思想に多大な影響を与え
水戸学=朱舜水と言ってもよい。

朱舜水から教えを乞うた安積澹泊は
「大日本史」の編纂で有名だが
水戸黄門に登場する格さん
(渥美格之進)のモデルとされている。


 

こちらは
茨城県常陸太田市の瑞竜山の
水戸徳川家の墓地であるが
舜水の死後 
光圀によってここに葬られた。

なお  常陸太田市は
朱舜水の生誕地の縁で

中国浙江省餘姚市と
友好都市交流を結んでいる。

 

 

 


社会運動家 賀川豊彦

2020-04-23 | 人物忌

 

4月23日は キリスト教伝道者・社会運動家
賀川豊彦(1888-1960)が亡くなった日。
享年71

 

賀川豊彦は

1888年 神戸に生まれる
   4歳の時 父母と死別し徳島へ
1903年 徳島中学時代 
   宣教師 H.W.マイヤーズより受洗

1907年 明治学院神学予科修業後
         神戸神学校に入学したが
         肺結核となり療養

1909年 神戸新川で極貧の
   人々とともに生活しながら伝道

1910年 神学校卒業
1913年 芝ハルと結婚
1914~16年までプリンストン大学
  および神学校に学ぶ

1917年 帰朝後 貧民救済 労働運動
  文書出版活動
   巡回伝道 
  震災救護活動などを
  積極的に展開した。


 

キリスト教社会主義思想を背景にし

弱者を救い しいたげられていた
労働者のため

労働争議などで問題を
解決する様を描いた自伝的小説

「死線を越えて」(1920年)は

 400万部が売れ 
大正期最大のベストセラーに。

 


一方 弱者救済を訴え
「農協」「生協」「労働組合」など

現在にまで続く日本の相互共助の
基礎を作り上げてもいる。

 

様々な社会改革運動の
先駆者として活躍し

シュヴァイツアー や
ガンジー と並ぶ

「20世紀の三大聖人」とも呼ばれ
ノーベル文学賞に2回 
ノーベル平和賞に3回

その候補に選ばれているが 
残念ながら受章しなかった。

 

 

晩年 賀川から
日野原重明博士(1911-2017)に

メッセイージいりで贈られた
ウイリアム・オスラー博士の
名著
「内科学総論」

「 太陽は 世界を隅々まで
 照らしていくけど
 之を敞ふ 罪の黒幕
 之をとり去る 愛と十字架

 感謝の1959年クリスマス

                  賀川豊彦

  日野原重明博士  」

 

 

(資料:BS朝日「昭和偉人伝」・ウィキペディア)


日本のナイチンゲール 瓜生岩子

2020-04-19 | 人物忌

   瓜生岩子女史の銅像


4月19日は
“日本のナイチンゲール”と呼ばれた

瓜生岩子(うりゅういわこ・1829-1897)
が亡くなった日。

その銅像が 
台東区浅草寺境内にある。


説明文には

「岩子は通称。正しくは”岩”という。

文政12年(1829)2月15日、

岩代耶麻郡(現在の福島県耶麻郡)
熱塩村渡辺家に生まれたが、

9歳の時、父を失い、
母は岩を連れて生家へ帰った。


そのため、岩は母方の姓瓜生氏を称した。

14歳の時、若松(現福島県会津若松市)
の叔母に預けられ、

その夫で会津藩侍医を務める
山内春瓏(しゅんろう)の薫陶を受け、
堕胎間引の防止に関心を持つに至る。

17歳で佐瀬茂助を婿に迎え、
若松で呉服屋を営み、

一男三女を生んだが、
早くに夫を亡くした。

明治元年会津戦争で孤児となった
幼童の教育に尽力したほか、

堕胎等、当時のさまざまな悪習を正し、
明治22年貧民孤児救済のため
福島救済所を設立するなど、
社会事業の推進に努めた。

明治30年4月19日、福島で没す。享年69。

生涯を慈善事業に捧げた
岩の善行を賞揚し、

同34年4月、篤志家によって、
浅草寺境内にこの銅像が造立された。
台石正面には、
下田歌子女史の撰文を刻む。

平成8年7月   
     台東区教育委員会  」

 

 

岩子は 子供の時父親を亡くし
また 夫にも先立たれるなど
不運にも見舞われたが

戊辰戦争の際に 敵味方の区別なく
負傷者を手当てしたことから
“日本のナイチンゲール”とも呼ばれ

養育所を設立して 孤児や
老人を保養したり
近代日本の黎明期に
社会福祉事業家として尽力している。

1996年に
女性初の藍綬褒章を受章している。

この像は
実業家の渋沢栄一(1840~1931)
らの篤志家により建立。


撰文の下田歌子(1854~1936)
明治から大正にかけて
歌人・教育家として活躍し

女性の地位向上に尽力し 
実践女子学園の基礎も築いた。

 

 

 


高浜虚子(虚子忌)

2020-04-08 | 人物忌

 東京 千代田区九段北 三輪田学園

  句碑「蔓もどき情はもつれやすき哉」 

 

4月8日は 俳人・小説家
高浜虚子が亡くなった
虚子忌(椿寿忌)享年85

高浜虚子(1874-1959)は 
愛媛県松山市に生まれる。


9歳のとき祖母の実家
高浜家を継ぐ。  

河東碧梧桐とともに
正岡子規に兄事し、
子規から虚子の号を受ける。

1897(明治30)年、
柳原極堂が松山で創刊した
俳誌「ほとゝぎす」に参加。

翌年、これを引き継ぎ東京に移転する。
子規が1902年に死去した後、
一時俳句の創作を辞め
小説の創作に没頭したが、

その後俳壇に復帰し、
次いでその行きすぎを修正する

ホトトギスの理念となる
「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱した。


1954(昭和29)年 文化勲章を受章。


門下には飯田蛇笏、水原秋桜子、
山口誓子、中村草田男などがいる。

著書に「虚子句集」「五百句]
「五百五十句」「六百句」
「虚子俳話」「句日記」など。

 

学園の説明文には

「この句は高浜虚子の作品で、
1947年に詠まれ、
1948年10月の
「ホトトギス」に掲載されました。

その後、1958年12月に、
虚子の集大成である
「虚子百句」が出版され、
これを機会に、
終生の友情の証しとして、
三輪田元道校長にこの句が贈られ、
1959年6月に、校内に、
句碑が建設されました。

現在の句碑の位置は、
1901年9月から1909年12月に
かけての虚子の住居、及び、
「ホトトギス」の発行所
(麹町区富士見町4丁目8番地)の
筋向かいに当たります。

高濱家と三輪田家が、
松山市が縁で、筋向かいに住み、
親しく付き合っていたことから、
校舎改築を機会に、
この場所に句碑を移設しました。


虚子は1910年12月から
鎌倉市に転居しましたが、
三輪田眞佐子(当時の校長)と
養子の元道も鎌倉市に
別宅を持っており、
親しい付き合いが、
そこでも続いていました。


また、虚子の長女の眞砂子は、
本校 高等女学校を
1915年に卒業しました。

      三輪田学園 」

三輪田学園といえば
武者小路実篤の青春時代に書いた
「お目出たき人」に出てくる
初恋の人「鶴」が
この高等女学校の生徒であったという。



神奈川県横須賀市 観音埼灯台

「霧いかに深くとも
         嵐強くとも」

 

説明文には

「1948(昭和23)年秋、
高浜虚子翁が観音埼を訪れ、
緑の岬角に屹然と立つ、
白亜の雄姿と灯台に勤める
職員が困難とたたかう姿を
詠まれたといいます。

この年、海上保安庁が創設され、
灯台80周年記念式典が
挙された年でもありました。」


茨城県龍ヶ崎市 
若柴公園前 歳時記の道

「休らへは 
 合歓の花散る 木陰かな」