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あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

高村光太郎 (連翹忌)

2020-04-02 | 人物忌



4月2日は 詩人・歌人・彫刻家

高村光太郎(1883-1956)が亡くなった
連翹忌(レンギョウキ)。享年73

自宅庭に咲くレンギョウの花を愛していた
また 彼のの上にその一枝が
置かれていたことから連翹忌と呼ばれる。

彫刻家 高村光雲 の長男として生まれる。

東京美術学校彫刻科を卒業し
欧米に留学し ロダンに引かれる。


日本を代表する彫刻家であり
画家でもある。

また「道程」「智恵子抄」等の
詩集が著名で
日本文学史上
近現代を代表する詩人として
位置づけられる。

著作には評論や随筆 短歌もある。
能書家としても知られる。

 

 

西日暮里駅の西側に
荒川区立第一日暮里小学校があり

その校門脇にフクロウの像と
正直親切と記載された
記念碑が置かれている。



碑文には

「創立百周年記念 高村光太郎書
「正直親切」の記念碑

「正直親切」の文字は、
本校卒業生である高村光太郎の直筆で、
昭和26年岩手県山口小学校の
児童のためにかかれたものを
高村規氏、財団法人高村記念会の
ご好意により、
創立百周年記念碑に
使わせていただきました。

高村光太郎は、明治23年に、
下谷区練塀小学校から日暮里小学校
(当時は、現在の福祉館の
場所に校舎がありました)

に転校、ここで勉強し
小学校を卒業しました。

その後、彫刻家として、
すぐれた作品をつくり、

また詩や絵もかき、
立派な書を数多く残しています。

ここで大切なのは、
それらの作品を通して、

光太郎が、人を愛し、
自然を愛する人間としての

生き方を教えていることです。

先輩光太郎が心をこめてかいた
「正直親切」の文字が、母校に学ぶ
児童一人ひとりの心のなかに、
いつまでも生き、
その成長を支えることを望みます。

「フクロウ」の像は、
石彫家飯田雅光氏の作で、

本校校歌にもある
〝諏訪の森かげ、みどりの風に〟
ふさわしい《森の知者》として、
一日小の子どもたちのシンボルとなり、
永く親しまれることを願っています。

昭和60年11月9日 


東京都荒川区立第一日暮里小学校

創立百周年記念事業協賛会 」

 

彫刻の代表作「湖畔のおとめ」
(十和田湖畔・御前ケ浜)


智恵子記念館

「智恵子抄」は 結婚する以前の
1911年から死後の1941年まで
光太郎が30年間に書き続けた詩集。

 

 

 

 


室生犀星(犀星忌)

2020-03-26 | 人物忌


  (日本経済新聞 2003/9/13)

 


 当方が散歩したころの犀川

 

3月26日は 
小説家 室生犀星(1889-1962)が
亡くなった犀星忌。 享年72。

本名は 室生 照道
石川県金沢市生まれ 
大正-昭和時代の詩人・小説家。

芸術院会員。別号に「魚眠洞」。

 

逆境の幼少期をへて
詩人をこころざす。

大正2年 北原白秋の主宰誌に
「小景異情」を投稿し

生涯の友萩原朔太郎と知りあった。

7年「抒情小曲集」を刊行。


30歳代から小説に転じた。
代表作に
 「あにいもうと」
 「杏つ子」(昭和33年読売文学賞)
 「かげろふの日記遺文」
     (34年野間文芸賞)
がある。

名言に「ふるさとは
遠きにありて思ふもの」
(小景異情)がある。




 (参照:文芸春秋「現代日本文学館」)

 

 

 


土木技術者 太田圓三

2020-03-21 | 人物忌

  太田圓三像



復興局跡地の近くに架かる
神田橋北詰の公園内に記念碑が残る。

3月21日は 鉄道技師 
太田圓三(1881-1926)が亡くなっている。

太田圓三は 明治・大正期の
土木技術者・鉄道技師。

詩人・木下杢太郎
(本名・太田正雄)の実兄で

杢太郎より四歳年上で
1881(明治14)年に
静岡県伊東市に生まれる。


1904年 東京帝国大学
工科大学土木工学科を卒業後、

逓信省鉄道作業局
(後の鉄道省)に入局し、

1910年から2年間欧米に留学。

1923年の関東大震災後
帝都復興院土木局長に抜擢される。

業績は、道路の拡張・新設と
それにともなう土地区画整理を推進した。


当時はまだ馬車が主流であったが
車社会の到来を見越してこれを断行した。


現在、東京の幹線道路となっている
昭和通りや靖国通りなどはこの計画による。

 また、隅田川復興六橋
(相生橋 永代橋 清洲橋 
 蔵前橋 駒形橋 言問橋)を

はじめとする「震災復興橋梁」の
設計に尽力した。

更に、高速鉄道(地下鉄)の
必要性を説き
鉄道網の具体的な計画化に携わった。


復興事業では予算の都合上
地下鉄の敷設まではできなかったが

その必要性を重視し
私案を作成して
内務省公告にまでこぎつけた。

 これらにより
近代都市・東京の礎を築き

「鉄道始まって以来の
天才技術者」とも呼ばれた。


帝都復興事業に心血を注いていたが

1926(大正15)年
区画整理に対する無理解や

土地売買に関わる贈収賄疑惑
(復興局疑獄事件)
による
心労から自殺した。

 その業績は
現在も東京に残されている。


碑文には

「大正12年関東大震災の直後、
氏は選ばれて帝都復興院土
木局長に任ぜられ、

復興事業の根幹で然も極めて
難事業であった区画整理、
およびこれに基く
土木工事の計画遂行に直面して、

献身的努力をなすこと二年余、
事業の基礎漸く成った
大正15年春、心身疲労の極、
事業の犠牲として、

惜しくもその生命を
絶ったのであります。

昭和6年復興事業の完成に当り、
先輩知友相寄り、氏の功績を偲び、
記念としてこの彫像を、
深川相生橋畔の
中島公園に
建立したのでありますが、

太平洋戦争の災禍により
損傷せられましたので、

昭和30年春それを修復の上、
この地に移設したのであります。

       昭和30年 6月」

 

*参照:ウィキペディア 伊東市HP


山室軍平と救世軍

2020-03-16 | 人物忌

  救世軍渡来記念の地(中央区新富2丁目)

 

前回 山室軍平で 
「救世軍」に触れたが

その碑は 日本救世軍の
創設の地でもあって

「救世軍渡来記念の地」として
記念碑にもなっている。


碑文には
「1895年(明治28年)9月
英国より来日した ライト大佐一行は

この地に日本最初の本営を設け
救世軍活動を開始した。

1995年9月 日本における
救世軍創設百年を記念して設置する。

           救世軍本営」

  救世軍本営(東京千代田区神保町)


山室軍平を中心に活動を広められ

1919(大正8)年 神田神保町に
日本救世軍本営が完成した。


戦時中の国家統制のため
1940(昭和17)年 解散したが

戦後 1946(昭和21)年に再興された。

救世軍は キリスト教
プロテスタントの独立した一派で

1878年にイギリスで創設された。

独特の軍隊的組織のもとに

伝道と社会事業を
行なうことで知られる。

現在世界131か国と
地域で活動している。


救世軍では 
活動の拠点である教会を““小隊”

地域ごとのグループを“連隊”と
呼んでいる。


山室軍平の創意による
歳末助け合いの募金活動の
“社会鍋”は

現在でも大都市の歳末の
風物詩として広く知られている。



 


宗教家 山室軍平

2020-03-13 | 人物忌

「先ず人を造れ 山室軍平」の碑
      (中央区新富2丁目)

 

3月13日は 
宗教家 山室 軍平
(1872-1940)が 亡くなった日

日本救世軍の創立者で 
日本の代表的大衆伝道者の一人。

岡山県の農家に生まれが

家が貧窮し養子に出される。

1886(明治19)年 養家を出奔し
築地活版製造所で印刷工として働き
キリスト教の街頭伝道に触れて入信する。

苦学しながら 新島 襄 を慕って
同志社に学ぶが中退して。

岡山孤児院の手伝いなどをした。

その後 
1895(明治28)年に 救世軍に入軍し

下足番から始め
全生涯を救世軍の発展に献身し

東洋最初の救世軍司令官に任ぜられ
世界にも数少ない中将に昇進した。

彼の意図は
キリスト教の福音を下層労働者

一般庶民に 具体的・現実的方法によって
伝えようとするものであった。

多くの著書を残すが
代表作に『平民の福音』(1899)がある。

山室の名言「先ず人を造れ」は

2月11日に亡くなった
野村監督の名言にもある。

監督の仕事の根本は

「チームづくり」
「試合づくり」
「人づくり」

また 
「財を遺すは下、
 仕事を遺すは中、
  人を遺すは上とする。」

 

 


 

 

 

 


菊池 寛 (寛忌)2

2020-03-09 | 人物忌

 菊池寛著「日本競馬読本」
  (BS放送・ヒュ馬ンアワーから)

 

菊池寛の趣味は多才で 

その一つに競馬がある。

馬主でもあり 馬の血統

記録を研究する大切さを語り

馬の実力を問わない

“ケントクカイ” を戒めて

「情報信ずべし、然も亦信ずべからず」

の名言を残している。

 

1947年発行された菊池寛の著書

復刻版「日本競馬読本」の

装丁は藤田嗣二が担当。

 

菊池寛の死後 

大映社長・永田雅一が引継ぎ

菊池の馬名「トキノ」を

借用した「トキノミノル」は

菊池の悲願であった

ダービー優勝に輝き名馬となった。


 株式会社文藝春秋
  (東京都千代田区・紀尾井町)

 

1923年 文藝春秋を創刊主宰

また1926年 文芸家協会を設立


1935年 芥川 直木賞を設定するなど


作家の社会的地位の向上にも貢献した。


 菊池寛旧居宅跡(東京千代田区・六番町)

 


菊池 寛(寛忌)

2020-03-06 | 人物忌

  日本経済新聞(2003/11/22)

 

3月6日は 小説家 
菊池 寛(1888-1948)が
亡くなった「寛忌」。

大正・昭和の小説家、劇作家。

本名は寛(ひろし)。 享年61


高松生れ。京大英文科卒。
一高時代に 芥川龍之介
久米正雄らを知り

第3次、第4次「新思潮」同人となる。

戯曲「屋上の狂人」「父帰る」を
発表したが認められなかった。

1918年の「無名作家の日記」
以後「忠直卿行状記」
  「恩讐の彼方に」
  「真珠夫人」などで

一躍流行作家となった。


寛の有名な言葉に
「生活第一、芸術第二」また

「悪妻は百年の不作であるという。
しかし、女性にとって、
悪夫は百年の飢饉である。」がある。

 

 大分県・耶馬渓 青の洞門(1994年撮影)

 

 

 

 


坪内 逍遥(逍遥忌)

2020-02-28 | 人物忌


2月28日は 小説家
坪内 逍遥(しょうよう)
(1859-1935)が亡くなった逍遥忌。

評論家 翻訳家 
劇作家などの肩書を持つ。

代表作に「小説神髄」
「当世書生気質」や
シェイクピア全集の翻訳があり
近代日本文学の礎を築き
演劇改良運動に影響を与えた。

逍遥の旧居跡が
新宿区余丁町に
区指定史跡としてある。

説明文には

坪内逍遥旧居跡
(文芸協会演劇研究所跡)

坪内逍遥は、
明治22年(1889)から熱海の
双柿舎(そうししゃ)へ居を移す
大正9年(1920)まで、

余丁町に居住した。
 この約30年間に坪内逍遥は、
早稲田大学で教鞭を執る傍ら、
雑誌「早稲田文学」の発行、

シェイクスピア作品の
研究・翻訳等を行なった。

 また、後期の文芸協会を主宰し、
明治42年(1909)には敷地内に
文芸協会演劇研究所を設け、
基礎理論のほか、
実際の演技指導が行われ、
後に日本の演劇界を担う
多くの人材を養成した。

 現在、自宅として使用した
建物や演劇研究所は
滅失しているが、
この地は、日本近代文学及び
演劇史上重要な場所である。

 平成21年3月 新宿区教育委員会

 説明文の写真



 シェイクスピアの講義する姿の逍遥像(早稲田大学構内)


早稲田大学は 2007年
創立125周年を機に
逍遥の偉業を顕彰し
「早稲田大学坪内逍遥大賞」を
創設して 文化芸術活動に
貢献した者(団体)を
隔年で表彰している。

 

 


公卿 三条実美

2020-02-19 | 人物忌

 

2月18日 幕末・明治の公卿であった
三条実美(1837~1891)が 亡くなっている。

 

実美は 三条実万の四男。号は梨堂。
尊攘派公卿の中心人物となるが
会津・薩摩を中心とする
公武合体派のクーデターにより
七卿落ちの一人として長州へ逃れた。

維新後は 明治新政府に重用され
太政大臣・内大臣等を歴任するなど
国家建設に尽力した。

実美の別荘「対鴎荘」は 
白髭橋西詰の隅田川右岸の地に
京都風の優雅さを求めて
1873(明治6)年に建築された。


荒川区の資料によれば
当時 この河岸から見渡す
向島一帯は うっそうとした
樹木の前面に 土手の桜並木が見えて
情緒豊かな風景が
楽しむことができたという。

「いそがしき 
 つとめのひまを 
 ぬすみ来て 
 橋場の里の 
 月をみるかな」と

実美は 詠んでいる。

 

その跡地の説明文には

「対鴎荘跡 台東区橋場2丁目1番

隅田川畔の橋場一帯は、
風光明眉な地であり、
かつては著名人の屋敷が
軒を重ねていたという。
対鴎荘跡もその一つで、
明治時代の政治家
三条実美(1837~1891)の別邸であった。
「征韓論」をめぐって、
政府内に対立が続いていた
明治6年(1873)の10月、
太政大臣の要職にあった
実美は心労のあまり病に倒れ、
この別邸で静養していたが、
同年12月19日明治天皇は
病床の実美を気遣い、
この邸を訪れている。
隣の碑は、この事蹟を顕彰して、
のち対鴎荘の所有者となった
一市民の尽力によって
建立されたものである。
高さ3m余。
側面に「昭和6年歳次辛未
5月建之石井久太郎」、
裏面に「多摩聖蹟記念館顧問
中嶋利一郎謹撰 上条修徳謹書」の
碑文が刻まれている。
対鴎荘は、昭和3年(1928)
白髭橋架橋工事に伴い、
多摩聖蹟記念館
(多摩市連光寺)に移築された。

 平成7年3月 台東区教育員会」

 

追:このことから現在も
多摩市連光寺1丁目に 
バス停「対鴎荘前」として
名を残しているそうだ。

 


長塚 節(節忌)2

2020-02-13 | 人物忌

 (2002/12/13 朝日新聞茨城版)

 

2月8日 節忌の続き

長塚 節の小説「土」が
映画化されている。

監督:内田 吐夢 
勘次=小杉 勇 
おつぎ=風見 章子 
(1939年公開・日活多摩川)

 

あらすじは 
一人の小作農の姿を通して
農民の労働と生活苦 
四季の移り変わり
風物が描かれ
自然主義リアリズムが
優れた映画として
1939(昭和14)年度の
日本映画ベストテン第1位
文部大臣賞に輝いている。

また 日中戦争のさ中に
この映画が製作された
ことにも注目されている。


しかし 戦乱のため国内の
フイルムは喪失し 
幻の名画とされていた。

1968(昭和43)年
東ドイツで保管されていた
ことが分かり返却された。

現在は 東京近代美術館に
保管されている。

 

余談
 俳優・渡辺 篤史は
 親戚であるという。

 

 


歌人 長塚 節(節忌)

2020-02-08 | 人物忌

 長塚 節の生家

 常総市石下庁舎(地域交流センター)と銅像

  銅像はいずれも すげ笠に草鞋の旅姿

 

2月8日は 歌人・小説家
長塚 節(1879-1915)が
亡くなった「節忌」。

 

現在の茨城県常総市国生の
豪農の家に生まれる。
茨城師範学校卒業。

郷里に戻って自然に親しみ
読書する生活を送りながら
療養に努めるなかで

さまざまな文学への
関心を高めていった。

正岡子規に共感し
入門「アララギ」の
創刊に携わる。

子規の死後も
子規の後継者とも評された。

散文の執筆を手掛け
写生文を筆頭に
数々の小説を
「ホトトギス」に寄稿。

さらには、当時の農村を
写実的に描写した「土」を
東京朝日新聞に連載する。

これは農民文学の
さきがけとなる重要な
作品と評価され
彼の代表作となった。

しかし 明治末頃から
喉の痛みが進み 
治療を重ねるうち
1915(大正4)年に没した。
享年35。

 

 

 

 

 


日米首脳会談記念碑

2019-12-16 | 人物忌

 

 

山荘から東 文化の森へ

 入口脇にある文化の森給水所
  特徴的な給水塔

 

 

 丘の上 「日米首脳会談記念碑」
  (2002年建立)が置かれている。

 

1983(昭和58)年11月11日
レーガン大統領が
ヘリで降り立った平井中学校・校庭 

 

 説明文

「平和の碑
親善のロンヤスの碑や秋燃ゆる

平和の碑は、二十世紀最大のイベント、
中曽根康弘内閣総理大臣と
アメリカ合衆国
ロナルド・レーガン大統領による
日米首脳山荘会談の偉業を讃え、
日米親善に貢献した国際的行事の
思い出と歴史的ドラマを後世に伝え、
人類の平和と安定を願い、
多くの方々のご賛同とご協力を基に、
町の芸術家 大塚則子氏が制作し、
第四代 青木国太郎日の出町長を
中心とした日米首脳会談記念碑
建立実行員会により建立された。
2002年11月 」

*大塚則子
(1951- ・日展入選8回入選)

 

 

 

 


日の出山荘 2

2019-12-15 | 人物忌

 

  「書院」

                           書院 玄関

 

説明文には

「平成元年に
建てられた迎賓館です。

首相退任後に政治の舞台で
苦労を共にした友人たちを
招きました。

中曽根氏は
「青雲堂」「天心亭」の
日本家屋で茶をもてなし、

この「書院」の広い
バルコニーで洋食を楽しむという

和と洋合わせた明治期のような
接客を意識していたと
言われています。」

 

 

  応接間 
   直筆の水墨画「富士」

  

     こちらは油絵「富士」

 

  食堂

 

   書斎(2F)

 

 

 

  中曽根氏の年表

 

館内には レーガン大統領をはじめ
総理大臣の各首脳との写真など
約50点 書画約7点
各国首脳から贈られた
贈答品などが展示されている。 

 

全斗換 元韓国大統領から贈られた半鐘

 

     手前はプール(15m)

 

 

 


日の出山荘 1

2019-12-14 | 人物忌

 

   青雲堂 

記帳・献花台が設けられている。  

   (婦人は原ヨネ子管理人さん)

   

                         

 

 

2019年11月29日 
中曽根康弘元首相が亡くなった。
享年101

先日 日の出町大久野にある
日の出山荘を訪れた。

 

 

 

 

 

「青雲堂」は

元は1850(嘉永3)年頃に
建てられたといわれる農家だった。

1962(昭和37)年に屋根の抜け落ちた
この農家を中曽根氏が購入して修繕した。

1983(昭和58)年、総理大臣として、
当時のロナルド・レーガン米国大統領を
ナンシー夫人とともに、

この山荘に招いて
日米首脳会談を行った。

 

  

 

 

  

 

 

説明文には


「日の出山荘
時の総理大臣が
こよなく愛した別荘。

約25,000㎡の敷地に
「青雲堂」「天心亭」「書院」
の三棟の建物と

四季折々の景色を楽しめる
庭園があります。

この人里離れた場所で、
政治家・中曽根康弘は

多忙な日々と喧騒から離れ、
心を癒すために
頻繁に足を運びました。

また、レーガンアメリカ大統領、
ゴルバチョフソビエト連邦元大統領、
全斗換大韓民国元大統領など
海外の要人をはじめ、

多くの著名人の方々を招待しました。

看板の文字は中曽根康弘氏の
直筆によるものです。」

 
 *レーガン(1911-2004)
  ゴルバチョフ(1931-)
  全 斗 換(1931-) 

 2006(平成18)年 
  山荘は中曽根氏から
  日の出町に寄贈される。

 2007(平成19)年 
  記念館として公開


 

   

    「天心亭」

茶室天心亭の囲炉裏を
囲んで行われた「ロン・ヤス会談」


説明文には

「昭和58年11月11碑、
レーガン大統領と日本首脳会談、

いわゆる“ロン・ヤス会談”を
行った場所です。

中曽根氏はここで
俳句、座禅、ラジオといった

趣味を楽しみ、
必ず寝泊まりしていた場所です。

「天心亭」の名は、明治の美術家
“岡倉天心”から由来しています。」

 

 


新島 襄

2017-01-23 | 人物忌

 

学士会館脇にある記念碑

 

1月23日 宗教家 教育者
新島 襄 が亡くなっている。

1843(天保14)年-1890(明治23)年 享年46歳

 同志社英学校(後の同志社大学)の創立者と知られるが
現在の学士会館付近(千代田区・神田錦町)で誕生している。

 蘭学を修めたが
1864(元治元)年 脱藩し密航により米国に渡る。

米国で洗礼を受けアーモスト大学を卒業した。

明治維新の後 岩倉具視遣外使節に随行し
各国の教育制度を調査し

帰国後は 京都を拠点に伝道活動に励み
1875(明治8)年同志社英学校
2年後には 同志社女学校を創立した。

しかし 1890(明治23)年 志半ばで亡くなった。

ここらの経緯は 
187年(明治9)年 新島襄と結婚した
妻・
八重の生涯(1845-1932年)として
2013年 NHKの大河ドラマ「八重の桜」で
放映されていた。