9月2日は
美術行政家・思想家
岡倉天心 が亡くなった日。
岡倉天心は
1863(文久2)年
横浜に生まれる。本名は覚三。
東大卒後 文部省に入り
美術教育・調査保存にあたる。
1884(明治17)年
フェノロサと鑑画会を結成
新日本画の開拓に努め
美術調査員としてともに渡欧。
1890(明治23)年
東美校校長となり
帝国博物館理事等を兼任
この間 美術誌「国華」を創刊。
また 日本青年絵画協会及び
その後身である
日本絵画協会を組織した。
1898(明治31)年
校長排斥運動(美校事件)で辞職し
橋本雅邦 横山大観
菱田春草らと日本美術院を結成した。
1904(明治37)年
ボストン美術館東洋部長に就任。
また文展審査員・国宝保存会委員も
つとめ 明治期美術の
指導者としてばかりでなく、
すぐれた国際感覚のうちに
日本及び東洋の文化の
優秀性を内外に訴えた。
著作に「東洋の理想」
「日本の覚醒」「茶の本」など。
1913(大正2)年 死去。享年50。
その日本美術院等跡が
台東区谷中にある。
構内の説明文には
「東京都指定旧跡
岡倉天心宅跡・旧前期日本美術院跡
所在地 台東区谷中5丁目7番
昭和27年11月3日
日本美術院は明治31年(1898)
岡倉天心が中心になって
「本邦美術の特性に基づき
その維持開発を図る」ことを
目的として創設された民間団体で、
当初院長は天心、
主幹は橋本雅邦、
評議員には横山大観、
下村観山らがいた。
活動は絵画が主で、
従来の日本画の流派に反対し、
洋画の手法をとり入れ、
近代日本画に清新の気を与えた。
この場所に建てられた美術院は
明治31年(1898)9月に竣工した
木造2階建で、南館(絵画研究室)と
北館(事務室・工芸研究室・書斎
・集会室)からなり、附属建物も
2、3あったといわれている。
明治39年(1906)12月に
美術院が茨城県五浦に移るまで、
ここが活動の拠点となっていた。
昭和41年(1966)
岡倉天心史跡記念六角堂が
建てられ、堂内には
平櫛田中作の天心坐像が
安置されている。
平成11年3月31日建設
東京都教育委員会 」
とある。
六角堂
茨城県天心記念五浦美術館 (北茨城市)
五浦の六角堂
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