Now+here Man's Blog

Surf, Run and Trails / Endurance For Fun

葬儀終えて

2008-11-25 17:38:52 | ThinkAbout..
先週末に弟の葬儀が終了した。

通夜、告別式合わせて400名もの方々にご会葬いただいた。
遺族としてもその数にビックリで、故人の偉大さと人気のほどが
亡くなってから初めて知ることとなった。

それは世間体を気にして挨拶で来るのではなく、
突然の事故というのもあるだろうが、皆さん本当に悲しんでくれ、
中には、自力で立ってられないくらいの男性もいるくらい、
それはそれは悲しく、かつ厳かで、感動的な葬儀だった。

僕は遺族代表で会葬御礼を務めたが、
その前に子供たちのパパへの手紙を読む場面があったので、
僕としてもすらすら御礼を述べることができなかった。

そのときバックにはジョンレノンのイマジンやラブや、
ビートルズのロングアンドワインディングロードとレットイットビーや、
キッスのハードラックウーマンが会場で静かに流れた。

少し前の記事でジョンのことを書いたのでなんかスピリチュアルだなあ、
と思ったりした。

さて、事故はニュースでも報道されたように、
弟は15階のビルから、高さ70Mから落下して即死した。
幸い、仰向けの状態で地面に叩きつけられたようなので顔は残った。
爆死のように体のパ-ツが飛散してなくなっちゃうわけではないので、
グシャグシャになったが、プロがなんとか復元してくれた。
それと胸ポケットの携帯電話は壊れていなかったので、
取引関係や友人など各方面に連絡を取ることができた。


彼は、この道20年の大ベテランで、最近念願かなって独立した。
過去に仕事仲間を2人、同じ転落事故で亡くしている。
だから人一倍安全には気を使う男だったのだ。
養うべきものに家族と従業員がいるからなおさらその思いは強かったはずだ。

ビルからぶら下がるとき、当然安全ベルトをしてフックをロープに固定する。
しかし、ロープのフックより上の部分が切れてしまったのだ。2本同時に。
2本同じ太さの物を使用する。万が一どちらかが切れてもいいように。
それが同じ位置が同時に切れるという不可解な現象が起きたので、
本人も納得していないだろう。

亡くなった翌日、彼の無事生還した携帯のアラームが鳴った。
彼の起きる気配を娘が察知した。ドアを開く音がした。
いつも通り仕事に向かったようである。
死んだ自覚は初七日をかけて徐々にしていくのだろう。

原因は警察で調べてくれているが、ただただ事故であることを祈るだけである。
パパはちょっとおっちょこちょいだったね、あとあとはその方が家族のためにはよい。


僕はこの1週間という時間を本当に長く感じた。
衝撃の事故当日から10日しかたっていないけど、まるで1年前くらい長い。

僕はこの度の死でいろいろ教わることがあった。

まず当然ながら、死は突然やってくるものだということ。
確率は低いにしろ、社会生活では死はそこにある。
自動車の運転や電車に乗っていても、不可抗力がある。
地震など自然災害もやってくる。

海のスポーツをしていると、一般の人より事故遭遇の確立は一気に上がる。

気を付ける、というのはあまりに曖昧なので、こう言い変えよう。
確認すべき項目を明確にしといてチェックすべきだ。


それと、彼は人に好かれたからこそたくさんの会葬をいただいたが、
それは彼がその人々にちゃんと接していたからだ。
彼が好かれたのではなく、彼が好いた結果なのだな。
だから、ちゃんと人に接しようということだ。

僕が死んでもそれだけの人は集まらない。
会葬に来た全員が同じことを思っただろう。
オレが死んだら一体何人来るのだろう、と。



身近な死

2008-11-18 09:12:03 | インポート
先週土曜日のことだが、義弟が仕事中の事故で亡くなった。
あまりに突然の出来事で、しかもあまりにも壮絶すぎる死に方だった。
現実に起こる死に方の中で、おそらく最も壮絶な人間の最期であろう。

享年43。

彼とはかれこれ20年近い付き合いで、行き来も多く、
数年前に夢叶い、やっと事業を独立したばかり。
人望が厚くて、顧客数も増え、順調に確実に成果を出しはじめた矢先の出来事。

妻である妹の誕生日を迎えた翌日の出来事だった。

中三の娘の高校受験が終わったら家族で旅行しようと話した直後のことだった。


警察に向かい、検死作業を待って本人であることを確認した。

家族には到底無理なので、僕が自発的に確認することを希望したのだ。
安置所は本棟の外の敷地のはずれにある小さな建物で、
ただの四角い殺風景なコンクリートの1階の建物だった。
その中はあまりにも悲しい空間でだった。
おそらく世の中でもっとも悲しい空気でいっぱいで、
鉄の扉の隙間を抜けて外にもその空気が漏れている。
無念さや憤りや苦しみや怒りや悲しさが5万トンくらい圧縮されている。


やり残したことあるだろうなあ。
まだまだやりたいことあっただろうなあ。
行きたいところいっぱいあっただろうなあ。
まだまだバイクに乗りたかったろうなあ。
17日のWHOのチケット取れたのに行きたかったろうなあ。
死にたくなかったろうなあ。

警察には家族や親類多く詰めかけた。
本人確認や事情聴取は4時間かけて終わった。

警察署をあとにしようとしたとき、
中三の姪と小5の甥はパパにさよならを言いたいと言った。

冷たい安置所に一人残して帰るのはあまりにも可哀想だと言ったのだ。
僕は彼らを安置所の前まで連れて行った。
正面玄関から警察車両の駐車場を通る。
道は湿っていて、彼らの足取りも重く、空気も重く、
心臓までが腹部に落ちそうなくらい全てが重い道のりだったな。

安置所からちょうど担当者が出てきたところだった。
担当者が中に入って顔を見るかどうか聞いたが僕は断った。

『またあとでサヨナラ会があるからそのとき会えるさ』
と言ったら、子供達は鉄の扉に向かってパパにお別れを言った。
そのあと小雨の降る暗い空を見上げて二人の子供はワンワン泣いた。

僕の人生の経験で一番悲しい光景だった。


その出来事は土曜日で、日曜からは彼が残した仕事のこと、
残された家族の生活費のこと、葬儀のこと、
何一つ後回しにできないことを処理していかなくてはならない。

僕は意識して凛としてクールにテキパキ事務的に行った。
まわりからは冷たいと文句を言われたが、なんとか目途や方向性だけつけた。

諸事情で葬儀の日程が決まらないので今日月曜は会社に来た。
会社に来たら、食欲がないことや仕事意欲が全くないことに気がついた。

とにかく、死の不幸とは残された者たちが思う無念さである。

まあ、オレや他の兄弟夫婦もいるので残された家族はダイジョウブ。
安らかに眠りな。

合掌。

オイラの上司は自分自身に聞くモ~ホ~なデブイタリア人

2008-11-14 17:12:03 | ThinkAbout..

オイラの上司はデブである。
デブのせいかどうかわからないが、声帯や顎や唇まわりに脂肪がついているので
発音がモゴモゴな感じである。聞きづらい。

語尾がハッキリせずモゴモゴ話す上に、よく途中に笑いを入れる。

『つまりですね、そういう事実の関係が、うほほほほっ、あったとしてですね、
私が思うに、おほほほ、まるで、つまり、うほほほ。}

話が下手なところに、おほほクッションを入れるので、とても理解しづらい。
しかもモゴモゴなので、オイラとしてはかなり困る。

実際は言葉とオホホ笑いは一緒に発音される。
もう一回詳しく書くと、
『そういう事実のほほくぉおおかんけいっひひほほほほがははほほほ、、』
ほら!わからねえだろ!

話が下手な人は、メールの文章もよくわからない。
だからつまりコミュニケーションが困難極まる。

先日のことである。
会社にお客様がやってきた。8人くらいいたかな。
オイラの部署で応対したのだが、デブ君、会社説明でこう言った。

『私どもも、そういう予防策のために、記録を作成しーの、おほほほほ、
それから、その記録保管について手順をツクリーノ、ほほほ』

おめえは何人なんだ???

あとね、自分で言いながら自分に聞くんだよ。

『この記録?なんですけど、それを期限通り?に書きまして、ファイル?に保管
します』

おめえは誰に聞いてるんだよ!!
【?】マークがあるから、語尾が上がるんだけど、これがオイラは嫌いだなあ。

どうせ上がるなら、ジャパネットのタカタ社長の方が2万倍気持ちがいい。

『テレビ台をおつけして、キューマンキュー↑↑センハー↑っっピャクエン!!』



こうやって文面読み返すと、彼はモ~ホ~みたいだな。おほほほほ。

頭がとてもよい人なんだけどな、人間のセンスがない。

合掌!!


茅ケ崎ジョン・レノン

2008-11-11 17:18:48 | インポート

(1977年 軽井沢でのジョン)


オノ・ヨーコは安田財閥の子孫で鎌倉にゆかりがあると聞いた。
ヨーコのお母さんの実家は辻堂で、その近辺には彼女をよく知っている人も多い。

辻堂のどこかを調べたら、駅の南であった。
濱竹である。

おいおい、濱竹って茅ヶ崎市ではないか!
しかもアオケン君の近所である。

ジョンとヨーコが結婚した1969年、
ジョンの大ファンだった桑田氏のお姉さん(先日お亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。)は、
結婚に激怒してオノ家に投石したらしい。
桑田氏がインタビューで言っていた。

桑田さん実家とオノ実家は6キロくらい??
だから投石の10年後にジョンが来日した時は、
桑田氏のお姉さんのエリコさんとジョンは、
実は数キロ離れていただけなのだ。


ジョンは1976年ころから、家族で毎年日本に来ていた。

このとき必ず鎌倉や、ヨーコの母の実家にちょくちょく来ていた。

つまりだ。
ジョンはちょくちょく茅ケ崎に来ていたということだ。

オーマイガー!!
オイラはなんていうところに住んでいるのだ!!

きっとあそこらへんを散歩したにちがいない!
そしてやっぱり海にも散歩に行ったんだろう。

クソ下やチサンあたりだろうな。
その頃はパシフィックホテルも営業していたからお茶くらい飲みに行ったかも。
誰もきっとわからなかったのだ。まさかいるわけないって。

ジョンはこうやってチサンからパークに向かって歩き、
パシフィックホテルでお茶をしてエボシ岩を眺めた。

それから、車で向かったのは軽井沢のあの有名なクラシックホテル、万平である。
ジョンは万平ホテルがすごくお気に入りで4シーズン来た。

ジョンのゆかりの地、茅ケ崎~軽井沢にいき、万平にステイする計画がある。
ちょうどジョンの命日である12月8日だ。


ジョンはヨーコの母実家にちょくちょく来ていた、というのは
ビートルズ関連の文献や研究書籍で目にすることができる。
しかし、そこに茅ヶ崎という文字はない。

辻堂ですら、地元でヨーコと関連のある人たちから聞いただけで、
その地名すら出てこない。
辻堂というのは、実家がたまたま辻堂駅に近いだけで住所は確かに茅ケ崎である。

この発見はオイラには大事件である。
本当だったらいいなあ。

もしかしたら、茅ケ崎にいたときに、
スターティング・オーバーやウーマンを書いてたりして。



レーシックと老眼

2008-11-10 17:55:47 | ThinkAbout..
老眼という表現は実によくない。
しかし、実際に水晶体の厚みを調整する筋力が衰えてなるので、
確かに【老】なわけである。

老眼は早い人は40前から。

(中には始まりが遅い人もいるけど)
まだ老眼になっていないというアナタ!
それは違います。
『老眼を認識していない』だけなのだ。

近視なので、まだ老眼じゃない、というのは間違い。
近視でもなんでも水晶体調整はできないのだから同じこと。

よくレーシックを受けると老眼が進むのでは?という質問がWEB上で多いね。

これは視力が良くなることで老眼を意識しやすくなっただけに過ぎないらしい。

かく言うオイラもレーシック施術以降、老眼を少し意識するようなった。
(PCなんかは全然問題ないよ)

老眼には進行段階があって、
0期、初期、中期、末期がある。

末期と言うのは水晶体調整(つまりピント調整だ)が全くできなくなること。

何歳だと思う?

凡そ50歳だってさ。

人間、目だけは鍛えられないもんなあ。