「しかしなぜ、無力化しなくてはならなかったのか。
ここに、情熱を貫いたひとりの人の運命があります。
イエス・キリストです。強烈すぎる情熱、あまりにもピュアな信念。これを抱えた人は、いずれ十字架に架けられる運命にある。非常に極端な話ですが、アン・シャーリーの物語も、突き詰めればそこに行き着きます。
新約聖書の「マタイによる福音書」に、ある重大なことが書かれています。 バッハはこれを題材に「マタイ受難曲」を書いたわけですが、ここにはイエスが十字架にかけられるまので経緯が描かれています。
イエスの弟子の中でも、最もイエスからの信頼の厚かったペテロ。しかし彼は、最後の晩餐の席でイエスからこう言われます。
「お前は今夜、鶏が鳴く前に三度私のことを知らないと言うだろう」
もちろんペテロは否定します。たとえ死んでも自分はそんなことは絶対にしないと。しかしその夜イエスが捕まり、周囲からイエスの仲間だと指摘されたペテロは、予言どおり三回、あんな男は知らないと言ってしまう。その瞬間鶏が鳴き、さっきのイエスの言葉を思い出した彼は、激しく泣くのです。ここで四十七番の、あの「神よ憐れみたまえ」というアリアが流れる。非常に感動的な場面です。
しかし実は当初、キリストを引き渡されたローマの総督は、彼を処刑するつもりはありませんでした。人々がイエスを捕まえたのは、ねたみのためだと分かっていたからです。イエスは、処刑されるほどの罪は何も犯していない。そのことを知っていたのです。当時の習慣では、祭りの間は処刑予定の人間のうち一人は、民衆が指名して許すことができました。だから総督ピラトは民衆に聞くわけです。この中で赦したい者はいるかと。彼はそこでイエスを赦すことにしようと思っていたのです。
しかし民衆は彼を選ばなかった。代わりに泥棒の罪で捕らえられていたバラバを選ぶのです。そしてイエスのことを指差し、「あいつを十字架にかけろ!」とピラトに迫ったのです。
つまりキリストを最後に殺す決断をするのは、当時の為政者ではなく、民衆の側なのです。とても重大なことが、この聖書の中では書かれている。やはり、あまりにもピュアな情熱を持っている人は、社会の側が、扱いに非常に困るところがあるのです。
もちろんこれは極端な例です。
しかし、世の中にはどこか、そういうピュアで強すぎる情熱に対する、本能的な拒絶意識がある。秩序や価値観念を破壊しかねないという危険性を事前に察知し、社会が積極的に排除しようとするベクトルが動く。
そこに「クリエーター」として生きる人々の大変さも潜んでいるのだと思います。自分の内にある、ピュアな情熱や想像力を捨て去ってしまっては、感動的な作品は生まれない。けれどもその情熱に従うあまり、現実に対して盲目的になりすぎても、社会には受け入れられない。非常にバランスが難しいところです。」
(茂木健一郎著『赤毛のアンに学ぶ幸福(しあわせ)になる方法』講談社文庫より)
ここに、情熱を貫いたひとりの人の運命があります。
イエス・キリストです。強烈すぎる情熱、あまりにもピュアな信念。これを抱えた人は、いずれ十字架に架けられる運命にある。非常に極端な話ですが、アン・シャーリーの物語も、突き詰めればそこに行き着きます。
新約聖書の「マタイによる福音書」に、ある重大なことが書かれています。 バッハはこれを題材に「マタイ受難曲」を書いたわけですが、ここにはイエスが十字架にかけられるまので経緯が描かれています。
イエスの弟子の中でも、最もイエスからの信頼の厚かったペテロ。しかし彼は、最後の晩餐の席でイエスからこう言われます。
「お前は今夜、鶏が鳴く前に三度私のことを知らないと言うだろう」
もちろんペテロは否定します。たとえ死んでも自分はそんなことは絶対にしないと。しかしその夜イエスが捕まり、周囲からイエスの仲間だと指摘されたペテロは、予言どおり三回、あんな男は知らないと言ってしまう。その瞬間鶏が鳴き、さっきのイエスの言葉を思い出した彼は、激しく泣くのです。ここで四十七番の、あの「神よ憐れみたまえ」というアリアが流れる。非常に感動的な場面です。
しかし実は当初、キリストを引き渡されたローマの総督は、彼を処刑するつもりはありませんでした。人々がイエスを捕まえたのは、ねたみのためだと分かっていたからです。イエスは、処刑されるほどの罪は何も犯していない。そのことを知っていたのです。当時の習慣では、祭りの間は処刑予定の人間のうち一人は、民衆が指名して許すことができました。だから総督ピラトは民衆に聞くわけです。この中で赦したい者はいるかと。彼はそこでイエスを赦すことにしようと思っていたのです。
しかし民衆は彼を選ばなかった。代わりに泥棒の罪で捕らえられていたバラバを選ぶのです。そしてイエスのことを指差し、「あいつを十字架にかけろ!」とピラトに迫ったのです。
つまりキリストを最後に殺す決断をするのは、当時の為政者ではなく、民衆の側なのです。とても重大なことが、この聖書の中では書かれている。やはり、あまりにもピュアな情熱を持っている人は、社会の側が、扱いに非常に困るところがあるのです。
もちろんこれは極端な例です。
しかし、世の中にはどこか、そういうピュアで強すぎる情熱に対する、本能的な拒絶意識がある。秩序や価値観念を破壊しかねないという危険性を事前に察知し、社会が積極的に排除しようとするベクトルが動く。
そこに「クリエーター」として生きる人々の大変さも潜んでいるのだと思います。自分の内にある、ピュアな情熱や想像力を捨て去ってしまっては、感動的な作品は生まれない。けれどもその情熱に従うあまり、現実に対して盲目的になりすぎても、社会には受け入れられない。非常にバランスが難しいところです。」
(茂木健一郎著『赤毛のアンに学ぶ幸福(しあわせ)になる方法』講談社文庫より)
「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法 (講談社文庫) | |
茂木 健一郎 | |
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