『アンナ・カレーニナ(中)』-第三篇-32より
「「それはきみ、違うよ。まちがっているよ、アンナ」ヴロンスキーは相手の気持をしずめようとしていった。「でも、そんなことはもうどうだってかまわないさ。あの人の話はやめにしよう。それより、きみがなにをしていたか、それを話してください。え、どうしたの? 病気って、どんな病気なの? 医者はなんといっているの?」
アンナは皮肉な喜びの色を浮べて、彼をじっとながめていた。どうやら、彼女はまた夫の中にこっけいで醜聞な面をいくつか見つけて、それを口に出す機会を待っているらしかった。
しかし、ヴロンスキーは話をつづけた。
「ぼくの感じじゃ、これは病気じゃなくて、きみのからだのせいだと思うな。で、あれはいつになるの?」
と、皮肉な輝きは彼女の目から消えた。しかし、すぐ別の微笑が-なにか相手にはわからないものを自覚し、それと同時に、静かな悲しみを覚えて生れた微笑が、それにとって代った。
「じきよ。じきですわ。あなたは、こんな境遇はたまらない、なんとか結末をつけなくちゃ
っておっしゃいましたわね。でも、こんな境遇があたくしにとってどんなにつらいかってことは、おわかりにはなってないのよ! 自由に、だれはばかることなくあなたを愛するためなら、あたくしはどんな犠牲だってはらいますわ。そうなれば、嫉妬で、自分を苦したり、あなたにまで苦しい思いをさせることなんかなくなりますわ・・・そうなるのも、もうじきでしょうけど・・・でも、あたくしたちが考えているふうにはなりませんわ」
そこで、それがどんなふうにやってくるかを考えると、アンナはわれながら自分が哀れになってきて、思わず涙が目にあふれて、話をつづけることができなかった。アンナは、ランプの光り輝く指輪をはめた白い手を、彼の袖の上においた。
「それは、あたくしたちが考えているふうにはいかないでしょうね。こんなことはお話ししたくなかったんですけど、あなたがいわせておしまいになったんですわ。もうじき、ほんとに、もうじき、なにもかもにけりがついて、あたしたちはみんな落着いて、もうこれ以上苦しむことはなくなるんですわ」
「ぼくにはわからないな」ヴロンスキーはその意味がわかっているくせに、わざとそういった。
「さっき、おたずねになりましたわね、いつ、って? もうじきですわ。それに無事にすみっこありませんわ。いえ、どうか、すっかりいわせてちょうだい!」アンナは急いで言葉をつづけた。
「あたくしにはそれがわかっているんです。ええ、ちゃんと、わかっているんですわ。あたくしは死ぬんですわ。でもあたくし、とってもうれしいんです、あたくしが死んだら、自分とあなたを救えるんですもの」
アンナの両の目からは涙があふれ落ちた。ヴロンスキーは自分の不安を隠そうと努めながら、アンナの手にかがみこんで、接吻しはじめた。この不安にはなんの根拠もなかった。彼はそれを自分でも承知しながら、それに打ち勝つことができなかった。
「ええ、そうなるんですわ。でも、そのほうがいいんですわ」アンナは、激しい動作で彼の手を握り閉めながら、いった。「それだけが、それだけが、あたくしたちに残されているたった一つの道なんですわ」
ヴロンスキーはわれに返って、頭を上げた。
「なんてばかげたことを! なんてつまらないたわ言をいうんです!」
「いいえ、これはほんとうのことですわ」
「なにが、なにがほんとうのことなんです?」
「あたくしが死ぬってこと。あたくし、夢を見ましたの」
「夢ですって?」ヴロンスキーは鸚鵡返しにいって、一瞬、自分が夢の中で見たあの百姓のことを思いだした。
「ええ、夢ですわ」アンナはいった。「その夢を見たのはもうずっと前のことですけど。こんな夢でしたの-あたくし、自分の部屋に駆けこんで行ったんですの、なにか取りに行くか、捜し物があって。ねえ、夢ではよくそんなことがありますでしょう」アンナは恐怖に目を大きく見ひらきながらいった。「そうしたら、寝室のすみっこに、なにかが立っているじゃありませんか」
「いや、ばかばかしい! なぜそんなことを信ずるんです?」
しかし、アンナは彼に口をはさませなかった。アンナが今話していることは彼女にとってあまりにも重大なことだったからである。
「すると、そのなにかがくるっとこちらを向いたんですの。見ると、それはひげぼうぼうの小がらな、恐ろしいお百姓なんですの。あたくし、逃げようとしたんですが、そのお百姓は袋の上にかがみこんで、両手でもってしきりになにかごそごそやっているんですの・・・」
アンナは、その百姓が袋の中をかきまわしているしぐさをして見せた。その顔には恐怖の色が浮んでいた。ヴロンスキーも自分の夢を思い浮べて、同じような恐怖が、心の中いっぱいにひろがっていくのを感じた。「そのお百姓はごそごそやりながら、それはそれは早口のフランス語で、『この鉄をたたいて、砕いて、練りあげなくちゃいかん』ってしゃべるじゃありませんか。あたくしはもう恐ろしくて恐ろしくて、早く目をさましたいと思ったとたん、やっと目がさめましたの・・・でも、目がさめたのもやっぱり夢の中なんですの。それで、これはいったいどういうことなのかしら、って自分で自分にたずねましたの。すると、コルネイがあたしに、『お産で、お産でお亡くなりになしますよ、奥さま、お産で・・・』っていうじゃありませんか。そこでやっと目がさめましたの・・・」
「そんなばかな。いや、まったくばかげてますよ!」ヴロンスキーはいった。しかし、自分でもその声に一片の説得力もないことを感じないわけにはいかなかった。
「でも、もうこんなお話はやめましょう。ベルを鳴らしてちょうだい、お茶を持ってこさせますから、あ、ちょっと待って。あたくし、今すぐに・・・」
といったまま、アンナは不意に言葉を切った。その顔つきは、一瞬のあいだに変化した。恐怖と興奮にかわって、とつぜん、静かな、きまじめな、さも幸福そうなはりつめた表情が表われた。ヴロンスキーにはその変化の意味が理解できなかった。アンナは自分の体内に、新しい生命の胎動をききつけたのであった。」
(トルストイ『アンナ・カレーニナ(中)』昭和47年2月20日発行、昭和55年5月25日第16刷、新潮文庫、232-235頁より)