今井通子『私の北壁-マッターホルン』より-「マッターホルン北壁へ」
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/dd08e78b89e8bfd178d3dcc101f62e6b
「私は以前から山の遭難と救助方法などについて考えるところもあったし、大きくいえば現在の日本の山の登り方にも疑問を抱いていた。もともと山を知らない人にいわせれば、
「山なんてどこがいいの。汗水垂らして登って行って、結局、同じところを帰って来るのでしょ」
と、まるで労力を無駄に費やすかのようにいう。
「そこに山があるから?」
確かに社会にとって、山といわず、自然の中に遊ぶことは何ら益にならないかに思えるのだろう。しかし、そんなことをいったら、健康法だの何だのいいながら、体をこわしてしまうような他のスポーツだって幾つもあるはずだ。登山以外のスポーツだって、社会的には無益といえるかも知れない。けれど、スポーツに打ちこむ個人にとってみればどうだろう。皆それぞれの立場で何かを求め、何かを得ているのだ。山に登るには、まず計画を立て、準備をし、一つ一つ階段を上るように、経験、技術を身につけて行く。この繰り返しに創造の喜びを感じる。
特に登山の場合、何度同じ場所へ、同じ計画で足を運んでも、生きもののように変わる山の気象、その他の自然条件のため、決して同じ対処方法ではすまない。常に新しさを見いだせる山とうものが絶対的に魅力なのだ。そして山を通じて得られる自分の創造力は、山以外のどの世界にも通用し、生かせるように思えるのだ。
私にとって登山とは、常に新しい体験であり、新しさを求めるという気持ちでは、より困難な登攀を求めるところにつながっていくようだ。しかし、こうなると、他のスポーツと異なり、山の場合、死につながる危険が増していくことは事実である。そしてまた、多くの人が、危険な目にあい、ある者は死んでいくのも事実である。
社会機能が複雑化し、交通網の発達や、都市の高層建築化によって、自然のもつ情緒が次第に失われつつある日本において、山や海のような自然の与えてくれる産物は、本当は非常に貴重品ではないだろうか。山に登り、自然と親しみ、その中にとけこんで自分を忘れる。この素晴らしさは口でいい表わせないものがある。人間が機械化され、組織の中に埋没していく傾向を、いかに正当化し、理由づけしようとも、本来、人間は自然の中にあったものであり、その情を打ち消すことはできないはずだ。
地球に飽きたらず、宇宙までも征服しようとする人間の心は、しょせん自然のもつ未知への憧れにすぎないのではないだろうか。とすれば、一般の人々の未知への探究の場として、常に移り変わる山や海は、本来、正当な人間活動の対象として考えられていいはずである。しかし、現在の日本では、山登りというと、遭難という言葉が頭から飛び出すように、山へ行くこと自体がまるで社会悪でもあるかのように非難されている。悲しいことだと思う。もっと自然を素直に受け入れることができないのだろうか。」
」
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/dd08e78b89e8bfd178d3dcc101f62e6b
「私は以前から山の遭難と救助方法などについて考えるところもあったし、大きくいえば現在の日本の山の登り方にも疑問を抱いていた。もともと山を知らない人にいわせれば、
「山なんてどこがいいの。汗水垂らして登って行って、結局、同じところを帰って来るのでしょ」
と、まるで労力を無駄に費やすかのようにいう。
「そこに山があるから?」
確かに社会にとって、山といわず、自然の中に遊ぶことは何ら益にならないかに思えるのだろう。しかし、そんなことをいったら、健康法だの何だのいいながら、体をこわしてしまうような他のスポーツだって幾つもあるはずだ。登山以外のスポーツだって、社会的には無益といえるかも知れない。けれど、スポーツに打ちこむ個人にとってみればどうだろう。皆それぞれの立場で何かを求め、何かを得ているのだ。山に登るには、まず計画を立て、準備をし、一つ一つ階段を上るように、経験、技術を身につけて行く。この繰り返しに創造の喜びを感じる。
特に登山の場合、何度同じ場所へ、同じ計画で足を運んでも、生きもののように変わる山の気象、その他の自然条件のため、決して同じ対処方法ではすまない。常に新しさを見いだせる山とうものが絶対的に魅力なのだ。そして山を通じて得られる自分の創造力は、山以外のどの世界にも通用し、生かせるように思えるのだ。
私にとって登山とは、常に新しい体験であり、新しさを求めるという気持ちでは、より困難な登攀を求めるところにつながっていくようだ。しかし、こうなると、他のスポーツと異なり、山の場合、死につながる危険が増していくことは事実である。そしてまた、多くの人が、危険な目にあい、ある者は死んでいくのも事実である。
社会機能が複雑化し、交通網の発達や、都市の高層建築化によって、自然のもつ情緒が次第に失われつつある日本において、山や海のような自然の与えてくれる産物は、本当は非常に貴重品ではないだろうか。山に登り、自然と親しみ、その中にとけこんで自分を忘れる。この素晴らしさは口でいい表わせないものがある。人間が機械化され、組織の中に埋没していく傾向を、いかに正当化し、理由づけしようとも、本来、人間は自然の中にあったものであり、その情を打ち消すことはできないはずだ。
地球に飽きたらず、宇宙までも征服しようとする人間の心は、しょせん自然のもつ未知への憧れにすぎないのではないだろうか。とすれば、一般の人々の未知への探究の場として、常に移り変わる山や海は、本来、正当な人間活動の対象として考えられていいはずである。しかし、現在の日本では、山登りというと、遭難という言葉が頭から飛び出すように、山へ行くこと自体がまるで社会悪でもあるかのように非難されている。悲しいことだと思う。もっと自然を素直に受け入れることができないのだろうか。」
」