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あげちうのブロマガ

神像はただそこに有る

東京五輪の開会式、その是非ではある。

「数多の個の群体、その指向性による打開」だ。それが、”世間”からは非常に強く否定された。

求めていたのは、「苦難を打開し得る強力なリーダー」その誕生、かもしれない。だが、それは描かれなかった。

世間の一人一人が問題意識と、打開への意欲を持ち、自発的な行動の結果として、状況は打開される。

という、それを世間?は否定した…訳だが。


否定した、だろうか?

好評な所は非常に好評、アートスケールでもかなりの高い数値は出ている、いわゆる「名作」と、扱い的には同じレベルのクオリティを、「私が求めたモノじゃない!」的なパワーは拒絶した、訳だが。

そこに有るのは、やっぱり共産主義?では、ある。その頂点の意向?何かの理想、それへの否定でさえ有る。王の到来を待望しない、むしろ否定し、民による共有感にこそ事態の打開を求める。それに対して、”世間”と言えるパワー、それは強い否定を見せた、訳だが。

日本、メダルラッシュは続いている。金メダル数では今、暫定一位でさえあり。また、メダルを獲得する人々は総じて、何かの「清廉さ」を持つような…そんな雰囲気もあって。今までの様な、ただ強さを求める、そう言う粗暴さは微妙に影を潜め、理性的な、或いはいわゆる「木鶏」そう言う雰囲気さえ纏う、それは不意に。

柔道の大野正平氏の試合中、その雰囲気が象徴的、ではある。

代わりに、いわゆるメディアを賑わした選手、つまり「パワーのあるリーダー!」を待望する論調の先駆、その不調は…象徴的でさえあり。それを見るべきだろうか?”神”は、あの開会式を肯定している、のだ。勝つ為に、神の加護は必須だ、その時。

抵抗してきた時代がある、そして、その帰結は今、新型コロナウイルスとしてはある?


以前の「戦場の絆」と言うゲーム、自分は非常に否定的だった。ともかく耐えられないレベルで、「酔う」それは、あまりゲームの問題としては語られない、が。酔わないゲームは全く酔わない事を考えるに、ここには内部的な”理解”が、少し色濃く出ている気はする。そしてそれは、今回の「戦場の絆Ⅱ」にも表れては居ないか。

「現実」とは何か?ではある。

その理解があまりにも物理ともズレているのに、”相手”の断言?は、それを否定させない訳だ。それは結局物理的な異相として、意識の中で問題を起こし…それはストレスに成り、何かの発症を起こす。

その”相手”元凶?そう言うのは今、少し弱まった気は、する。だからこそ、開会式は相応のクオリティ、それを具現化し得た訳で、その後の結果にも繋がっている、しかし。

虚構だとしても、メディアで”世間”を形成し得る何か、それはまだ少し、威容だ。

”ここ”が「神様」を名乗る時、”それ”と等価には成る。
同じ「神様」なら、人々は有利な方を選択する筈、ではある。

それは、事態を打開し得るか?


使用イメージ
https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im6232152
https://publicdomainq.net/ferdinand-bol-0005291/

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