goo blog サービス終了のお知らせ 

あげちうのブロマガ

あげちうの日々の色々な事

民主主義の選択と物理の判断

2021-07-31 14:45:58 | 日記

ちょっとした疑問と、問いではある。

 

PR動画が?二つあって。

これ(A)と、

これ(B)。

ともかく感覚で「何故か採用枠は一つしかない」、という事態を前に、AとB、どっち?と言う問い。共に或いは目指す事は同じでも、そこには実際は、差がある。

ここに有る「最後の差」が、その「白と黒のサイコロ」か、「二つの等価なサイコロ」か?ではあって。

かなり主観だ、Bの方は、”作者的には”洒落で流れても問題は無い、しかし、それを支持者が納得しない、という混沌が重くある。

理解?としては、Bは状況を、現状のまま改善しよう、そう言う方向性だが、Aは何かを根本的に変えよう、そう言う感覚ではある。

それが結局は、民主主義を最優先にするか、それとも、ではあり。

納得は、無い。

”ここ”としては断言し得る感覚だ。「現状のままで先は無い」何かの根本的な改善が必要だ、が。その時?それまでのシステムで採用された人々は、立場に疑問は出てくる。それまでの恩義?その他もそのまま残った上で、問題のある体制か前任者を糾弾し、排除し得るか?と言うとそこには重い否定感がある。

個人的には、優先はA、しかし、多数決的にはB、そしてBだとちょっと先が無い、妙な何か。

Aの方は、自分も創ってる時に?か、些細な疑問?否定、そう言うのは感じていたのだけど。

それは今も、具体的に何なのか?は、ちょっと良く解ってない。

ともかくAの方は、Bにとってのタブーに踏み込んでいる、気はする。「そこは否定しちゃいけない」部分を”平然と否定してる”訳だ。この嘘予告祭が企画されたのも、Aへのアンチテーゼかカウンター的な…実際には、そう言う感じかもしれない。

理解ではこの二つは、結論では戦争に成らない、両方とも下げてしまうから、だが。作者の一存だけで決まる話?と言うとそこには、疑問は少しある。何にせよ、「表側」で活躍するには既存の体制に認められるか、それとも破壊し刷新する、しかない。今まで通りは「増えない」、切り捨ては発生する、それを隠して続ける事は出来ない、が。

Bの方は、その上で打開を目指した?訳だ、まだ、不可能と決まった訳でもない、のかも?

今までは、飯塚幸三氏を犯罪者扱いする事は、自身の終わりをも意味した。

そこは変わったとしても、何かの問題は残っている。

 


失った月日と願いと残り火

2021-07-31 09:09:55 | 日記

すいません、頭悪かったです。

と、「民主主義が」そう言うか否か?と言う、状況としては”そんな部分”も有る。

思想と思想の衝突?と言うニュアンスには成っている。民主主義は、結局は一夫一婦絶対論、最大多数派だからだ、そこに陥る訳だが、そこに問題が残ってる。

「白と黒のサイコロ、どっちが男?」或いは。

自分は自分の事を「白だ」と認識してるのに「お前は黒です」と、そう言われるのはストレスである。とは言え?相手の方もそれは同じで、主観として是非を問われる時、どっちにしろ何処かで「私は善だがお前は悪だ」そう言う判断をされる事には、成る。そこで、夫婦は他者に理解出来ない感覚で、破綻してしまう訳で。

一応この時?「二つの等価なサイコロ」その視点では、この破綻は起きない。二人を「同じ意見」として見て、その上での衝突?という事に成る。どっちが黒?と言う理解は”ここ”では起きない。「性別の混乱」は少し発生するが、例外条件、「女性と女性の場合は?」とか、”その”介入が、断定の様なモノを破壊はしてしまう。安定するのは「二つの等価なサイコロ」そこだけだ。

白と黒のサイコロが、民主主義であり、二つの等価なサイコロ、それは紛争解決機構、その信仰ではある。

その結果だけ見るなら?民主主義は、「大賀さん」その判断の前に屈せねばならない訳だ、自身の判断は、紛争解決機構よりも正しくない、その。

その時、民主主義?その絵的には、「紛争解決機構」それが夫、民主主義の判断、それは妻、という絵には、成る。


「間違い」と言う、その様かもしれない。今まで、民主主義を最上位にして来た時、この感覚が逆だった、と言う言い方には成るだろうか。今まで、紛争解決機構の結果、”それ”はあくまでも忠言に過ぎなかった。日本では平成に入って「昭和天皇」その枷が消えた事から、状況は極端に悪化していく。その結果、状況に責任は問われ、現在の問題になる。

民主主義の結果より、「大賀さん」紛争解決機構の判断、その方が”上”である。
それは倫理と言うか、「良識」と言うかそれも、「妻は夫に従うべき」そこには帰結していく。

不満は残っている。

ともかく?「夫は妻の、家族の願いを叶える為に働いているし、働くべきだ。故に妻は、家族は、その家長を尊重し、支えねばならない」そう言う良識へと、帰結はする。

結果的には、民主主義は、責任の問題としても「同意せねばならない」訳だが。
今迄の様な、物理を無視した様な感情論での行動、それは許されなくなる、訳だ。

ここまでの過失を積み重ねねば、解らなかった話か?と、そこは疑問には成る。とは言え、「民主主義」責任は”そこ”に集中していく、それも視野範囲では…現実ではあり。

「こちら」の言う事には従って頂く。

”ここ”が「神様」だ。

初音ミクの前で、弱音ハクが彼女を窘めてる光景、そう見るか否か、ではある。

初音ミクの方が、先には誕生したのだが。



使用イメージ
https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im10786329
https://publicdomainq.net/kamisaka-sekka-0055045/

 


0%の向こうに有る未来

2021-07-30 10:23:39 | 日記

何故か、有り触れた誤認だ。

「誰かが、自身らに都合の悪い創作を、どうにかして売れなくしている」

カウンタ制御が、相応の”それ”に成り得る現実は…有って。だから、「出来ない」それは、言えない。そして?もしそうなら、自分の創作が売れない理由は全て説明できる、”誰か”が、自分のそれを売れなくしているのだ、本当なら。

実感的にも、ここには相応の、道理?説得力、そう言うのは、ある。

それへの疑念が残る限りは、まだ、独裁創作への執着、それは消えないのかも。


自分の創作が、売れた事が無い、訳では無い。

以前にも掲載したが、創ったゲームが雑誌掲載されグランプリ入選、また幾つかの作品が入選し、数万円の賞金、そう言う事は、ある。

「認められた事はある」訳だ。

その上で現状、というそこには、不明瞭な何かはある、訳だが。


平成に入っての、その敵意の向く先を見ていく時、”ここ”には集中はする。
「認められた」奴と、そうでない奴の境目、ともかく後者は前者へ否定的な視線を向けている、敵意でさえ有る。

理由は、経緯の中で判明はしつつある。まず、昭和天皇は「王の権威」だった。物理法則と最も合致する一人。物理法則が一つしかない時、それに合致する個性、それも一人しか居ない。”それ”の死去に伴い、「認証」それが弱まった。残っていた昭和天皇の影響は、数年で消える、「認められた」のは、その間の出来事ではある。そして、次の王の権威が求められ、”それ”は、その「認められない人々」その中にはもちろん居なかった。

最終的には結局、昭和天皇の死後にか、その影響範囲で「認められたモノ」その中の誰か、という事には成る訳だが、理解では”それ”が「ここ」に来ていた。

”ここ”の理解では、だ。それ以降、”ここ”は隠蔽され、秘匿される事になる。”ここ”を「認めない」という状況は、不意に発生してしまう訳だがしかし。問題は、「だったら、自力で売れる物を創って売れば良いじゃないか」これが出来なかった事、だ。

解った事は、創作とは、「まず問題ないオーダーが無いのなら、独裁者の立候補に過ぎない」という、結果ではある。

”それ”は例え王の権威であろうと、だ。そして、その「問題ないオーダー」を誰が出すのか?と言うと、「王の権威」だった、昭和の頃は。

昭和の名作として残る、恐らくその全てが、”そうやって”誕生していた。

という結果として?”ここ”の創作が売れない?それには、”理由”は言える。
迂闊に認めれば、それは昭和の「悪夢」その再来であり、スターウォーズの皇帝を否定するなら、それの発露は認められない。一人で創る限り、それは利益性には届かない。

”ここ”もこの時、出口は見えにくい訳だが。外もまた、じり貧ではある。”ここ”のアイディア、意向、それを下敷きにしない限りは、利益性は無い。創作が売れないと?経済は壊滅的に悪化していく、平成の頃の様に。

今もまだ妥協点は見いだせず、結局は今の、新型コロナウイルス、その発生を招いた。

不幸と言うか、シンクロしていく感覚はある。”認めた”ら、何もかも終わりだ、目指した、理想とする「世界」は滅ぶ。しかし、このままでは。

ともかくまだ、飯塚幸三氏は、「私はアクセルを踏んでいない」なのに車が勝手に暴走したんだ!それを言い続けては居る。そして、”それ”を言い張る事は出来る。そして、可能性が無い、とも言えない。自身を排除したいと思うなら?それは方法論の一つだ。誰かが。

可能性が0でも、それは、問題に成らないのでは。

「独裁創作が認められる世界を!」

それは、今も、何かの甘美な理想として、前線を鼓舞し続けている。

特攻をも選択肢にして。

 


使用イメージ
https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im10786329
https://publicdomainq.net/joseph-stella-0055733/

 


そこに有る物とそこに無い物

2021-07-29 08:48:45 | 日記

屁理屈は続く。

ゲームセンターのゲームに100円を入れて、結果で”100円以上の物”が手に入るなら、それを売れば、投資したお金以上の利益は出る、訳だ。その中から?また、100円を投入して、ゲームを遊べばいい。生活費を考えても、それはループし、状況を維持し続ける事が出来る。

「と言うのが良いゲーム」では、ある。
別にゲームだけではなく、音楽、小説その他もろもろ、創作への基本的な需要と要求。

”そう言うの”を創らないと?ゲームセンターとしても、維持は出来ない訳で。

「得られた物を売る」と言うそれは、色々な絵はある。イラストのネタにするなり、基本的には「仕事の活力」その意味、”そう言う物”ではあろうか?それを職場で「消費」する事で、得られる給与にフィードバックしていく訳だが。「自信」と言うのは重要な価値だ、「自分は出来る」やった事がある、結構上手い、そう言うのは、何だか自分を支えてくれる、自分の必要性を自分で理解出来る、と言うべきか。漫画やアニメの様な創作とは異なる点だ、ゲームは「自分で実際に実証する」という部分で、パーソナルではありつつ、フィードバック効果は他のメディアよりも数段、高い。

需要はある。

ただ、それだけに、難しさはあって。

「それ、貴方の主観ですよね?」

努力すれば叶わない夢は無い、とか、それは或いは妄想か希望に過ぎないのでは。

そう言うネタで創ると、あまりプレイヤーは「面白い」とは思わない。それよりは、むしろ失敗の体験例を語った方がウケるくらい。だから、か?初期のテレビゲーム、それは結局の所、「そのゲームを創れるスキルを身に付けるまで」の、多くは”そう言う体験記”だったりするのが、現実ではある。

それは、そんなにいらない。
決定版が「グラディウス」だが、それも結論で言えば目的には到達しなくなっている。
時代が変わったから、だが。

だからこそ、その中でスーパーマリオブラザーズだとか、一般人向けの「格言」で描かれた作品が、名作と言う流れには成っていく訳だけども。朝、会社に出向く、それは社長と言うか、”それ”により家族と引き離される光景だ。何としても家族と再会せねば!しかしそれに必要なのは、攻撃性ではなく回避力だったりはする。お金ももちろん必要だ、ともかく社長から要求された仕事を熟さねば、家には帰れない、「普通」は。

とは言え、こういうネタを、「若い奴」に求める方が無理がある訳だが。

昭和の頃は、「昭和天皇」と言う王の権威が居て、”それ”による供給で、日本は随分潤った。ともかく今、”それ”と同じ形を形成出来ないと、期待される「価値」はそこに生成出来ない。そして生成しない限りは売れない、訳だがしかし。

この時形成される「価値」は、多くが「独裁者」には”苦痛な何か”でしかない。もっと自由を!その先に有るのはでも、「楽しかったですか?」それは良かった、お代はこれだけです、そんな笑顔だけだ。

自分は今も、この壁を超えられてはいない。

目的を考えたら?ここを超える必要は無い、それも大きい。

ただ、昭和の?多くの創作者はこの壁を超えている。もちろんそれは、飯塚幸三氏の様にフレンチを食べるために母子2人を生贄に轢き殺す、という、マクロではそんな絵として、だ。今までは、”これ”が問題視される事は少なかった、創作の独裁性の暴力と、末端の犠牲者、その因果関係を繋げる事が難しかったから、だが。今はインターネットが有り…それは即時的な「因果」として、見える様には成って来ていて。

”それ”でも前に進む時、そこに有るのは過失の罠、だ。
そしてそれは、或いは遠からず、自身へと呪いを残す事には成る。

”これ”が出た時点で、止まるべきなのだけど。

それでもそれが「余所の話」である限り、過剰な干渉は内政干渉にはなる。

気づく時には手遅れ、それは良くある話。

「ここ」の言う事は今は多く、創作者には「つまり、夢を諦めろと言う事か?」それでしかない。

諦めるべきか否か、そこはまだ混沌とはしている。


使用イメージ
https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im9324748
https://publicdomainq.net/vilhelm-hammershoi-0056791/

 


神像はただそこに有る

2021-07-28 09:32:48 | 日記

東京五輪の開会式、その是非ではある。

「数多の個の群体、その指向性による打開」だ。それが、”世間”からは非常に強く否定された。

求めていたのは、「苦難を打開し得る強力なリーダー」その誕生、かもしれない。だが、それは描かれなかった。

世間の一人一人が問題意識と、打開への意欲を持ち、自発的な行動の結果として、状況は打開される。

という、それを世間?は否定した…訳だが。


否定した、だろうか?

好評な所は非常に好評、アートスケールでもかなりの高い数値は出ている、いわゆる「名作」と、扱い的には同じレベルのクオリティを、「私が求めたモノじゃない!」的なパワーは拒絶した、訳だが。

そこに有るのは、やっぱり共産主義?では、ある。その頂点の意向?何かの理想、それへの否定でさえ有る。王の到来を待望しない、むしろ否定し、民による共有感にこそ事態の打開を求める。それに対して、”世間”と言えるパワー、それは強い否定を見せた、訳だが。

日本、メダルラッシュは続いている。金メダル数では今、暫定一位でさえあり。また、メダルを獲得する人々は総じて、何かの「清廉さ」を持つような…そんな雰囲気もあって。今までの様な、ただ強さを求める、そう言う粗暴さは微妙に影を潜め、理性的な、或いはいわゆる「木鶏」そう言う雰囲気さえ纏う、それは不意に。

柔道の大野正平氏の試合中、その雰囲気が象徴的、ではある。

代わりに、いわゆるメディアを賑わした選手、つまり「パワーのあるリーダー!」を待望する論調の先駆、その不調は…象徴的でさえあり。それを見るべきだろうか?”神”は、あの開会式を肯定している、のだ。勝つ為に、神の加護は必須だ、その時。

抵抗してきた時代がある、そして、その帰結は今、新型コロナウイルスとしてはある?


以前の「戦場の絆」と言うゲーム、自分は非常に否定的だった。ともかく耐えられないレベルで、「酔う」それは、あまりゲームの問題としては語られない、が。酔わないゲームは全く酔わない事を考えるに、ここには内部的な”理解”が、少し色濃く出ている気はする。そしてそれは、今回の「戦場の絆Ⅱ」にも表れては居ないか。

「現実」とは何か?ではある。

その理解があまりにも物理ともズレているのに、”相手”の断言?は、それを否定させない訳だ。それは結局物理的な異相として、意識の中で問題を起こし…それはストレスに成り、何かの発症を起こす。

その”相手”元凶?そう言うのは今、少し弱まった気は、する。だからこそ、開会式は相応のクオリティ、それを具現化し得た訳で、その後の結果にも繋がっている、しかし。

虚構だとしても、メディアで”世間”を形成し得る何か、それはまだ少し、威容だ。

”ここ”が「神様」を名乗る時、”それ”と等価には成る。
同じ「神様」なら、人々は有利な方を選択する筈、ではある。

それは、事態を打開し得るか?


使用イメージ
https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im6232152
https://publicdomainq.net/ferdinand-bol-0005291/