命題の一つではあるのだけど。
「キャラクター」に、命は有るのか否か。
自分的には「どうでも良い」ネタではある。ある種「考える必要が無い」と言う様な、”そこ”に理解があって、動かない。自分の書いた「シークレットオブマリオン」と言う小説の中にも登場するが、人の器有っての人間であり、紙の上にはまあ居られない、そう言う理解。魂は自由で無ければ成らないにしろ、物理的な限界、「体が有る」それはそれとして、現実の枷として受け入れていく事が、”人間性”を育む。
そこは考え方かもしれないが。
ともかく自分の理解と”雅”市場の規約上、漫画は漫画以上には成らない。そこに居るのはどれだけ似ていても本人では無い、”それを模した何か”でしか無く。「それをどう使うか?」が、その作品の価値を決めている、訳だが。
人間は”その”中で暮らす事は出来ないのだ、それは自分の把握ではあるのだけど。
不意に思う所で、例の「ナンバーズ」の最後、「サーティーン」が、いわゆるゲームへの理解を司っている、訳だが。勝手な話かもしれないが”ここ”は去年までは「メタルギア」だったが、今は「美鶴さんの長い妄想」それが置いてある、としている。前者はその悪夢さえ現実と認識してしまうが、後者は「これ漫画ですけど」それで、オチにしてしまう。時代の問題ではあり、ともかく後者で無ければ今は何かの安定は無い、しかし。
その時、初音ミクと結婚しました、とか言う現実の存在に対しては、どうにも冷ややかな視線を向けている、訳で。
「グラディウス」に対して、自分の把握としては「売れるゲームを創りたい」その願いへの解答、と言う視点では見ている。この時、昭和から平成に至って、そして令和になっても、その方法論は大きく異なってしまった。願いその物は変わって無くても、昭和の頃に出来た事は、今は間違いなく妨害される、相手も同じ事を願う時、パワーバランスで負けてしまう場合は50%前後の確率で、ほぼ必ずある。
確実性を願うなら、方法論を変えねばならない、訳だが。
とは言え、「…無理だ」で引き下がる、そこには重い否定感は付いて回る。
空想の中は、如何なる理想も夢想も具現化する環境かもしれないが、その時そこには同じく破綻、それもあったりする。夢の中に居続ける事は出来ない時、そこに有る希望は、実は悪夢の裏返しかもしれないのだ。
新型コロナウイルス、その結末とは果たして?