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あげちうのブロマガ

あげちうの日々の色々な事

とある異空間の正義と現状

2021-12-28 10:14:37 | 日記

オーダー通りに創れ、と言うのは次の仕事の為には大事な話だが。

しかし、そのオーダーとは、何を意味するか?には、混沌がある。


「女子高生が拉致監禁され調教される話」と言われて、どう創るか?だ。

”普通”ではあるまいか、それは、普通に創るなら、「女子高生の拉致監禁が成功し得る計画か状況」を、真剣に考えてしまう事には、成る。それを創って売れなかった、批判された、経歴にも傷が付いた、と言う時、悪いのは誰か?だ。

売れる?様に創るとなると、多くは導入に「いやそれは無い」と言う、そう言う部分を差し込んでその後を全部妄想、という事にした上で求める絵を描いて行く事になる訳だが。「とある学校に女子高生の恰好で潜入捜査中の24歳女性」とか、少なくともこれ以上の「いやそれはおかしい」から入らないと、その後を嘘に出来ない。それを、オーダー側にしろ、受ける側にしろ意識はしてなかった場合、それは誰が悪いのか。


「この物語はフィクションです」は、万能の言い訳に成らない現実はある。

疑問と否定、その行く先に妥当が無いと、これはどうも燻って残る。


オーダー側に、何かの枷を創る事は出来る。それが「ストリード」ではある、問題ないフィルタと採点基準を設定した上で、その”オーダーその物を”査定し、補正、その上で現場に渡す。この結果、オーダー側の過失は消える、とは言う。
その後、最初の問題ある感じに創ろうと、「漫画だから」売れなかった?それはまあ、ヘタだからね、と言う”結果”を「売れなかった」でそこに出せる、訳だが。

「何真面目に拉致監禁計画考えてんの、そんなオーダー誰が出した」

これに現場の納得は有るか?なのかもしれない。

現状、利益性を見るなら、”この”時、オーダー側の物差しに合致していく人々が成果を得て、上に上がっていく事には成る、訳だけど。その時、最初の絵を描いて「下手」と言う評価を受けた人に、それは理解があるだろうか、文章は同じなのだ、なのに。


当時?は、どっちに問題があるのか解らなかった。

今は、「ストリードを使ってない」を基準にして、オーダー側の過失は明確には出来る様には成った。

問題は無い、状態はある。

が、「過失により評価に重篤な欠落が発生した」場合は、今も相変わらず有る。

「自己責任だ」で、今の状態で切り捨てて良いのか?は、少し考える部分。


オーダーとして。

「とある学校に淫魔が現れて女性が襲われている、と言う事から潜入捜査員(24歳女)の女性が、JKの恰好で生徒として潜入するも、直ぐに現れた淫魔に捕まって物陰でひたすらに、結局淫魔には逃げられました」

まで必要か、それともでは、ある。
ストリードを使う限りは、後の結果は…現場の責任なのだけど。

コミケの中から外に出なければ良い、と言う話もあるが。

不健全かつ、多くの願いは多分、”そこ”には無いのだ。

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※年末ですので、本年の更新は今日が最後に成ります。再開は来年の一月二日からを予定しております。

それでは皆様良いお年を。


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一つの栄光と共に

2021-12-27 11:14:28 | 日記

幸いと言うべき、だろうか。

ともかくいわゆる「お金持ち」は、ほぼ間違いなく、お金を目的にして、そこには居ないのだ。


「青天を衝け」めでたく最終回、ネットでも「名作」認定は多く、自分としても最後までちゃんと見てたと言う、近年では珍しい作品ではあって。あらゆる点で、自身の視点でのハイクオリティを維持したままラストまで走り切った感じは、シンプルに「良かった」の一言ではある、のだが。

「と言う訳で、他の人々もこんな感じに」

という…流れには中々入れない、それは、それとして残っていく問題ではある。


思想性のそれも、重くある。ドラマに、その登場人物に何を期待するか?というその時、”それ”は、「渋沢栄一と言う偉人」を求めるか、彼が人間で有ると言うそこを求めるか?で、描き方の是非は大きく変わる。今回のは、個人的には好きな?描き方だった。結局は、渋沢栄一氏という超人一人でどうにかした、と言うのはほぼ無く、徳川慶喜公、そしてその後ろにある徳川幕府300年の蓄積、”それ”を足場にし得た、と言う幸運?こそが、その成功というか、存在の基点ではある訳で。そう言う物だ、個人の力などたかが知れてる。それに渋沢氏本人も、劇中では「合本」その方向性こそを求めた、そう言う物だ、彼の理想、それはそこに有るし、或いは徳川幕府、その想いでもあったろうか。

矛盾もある、結局渋沢栄一氏は、慶喜公に対して崇拝でさえある尊意を持って接していた、彼自身もまた、何かの偉大なる存在…”それ”を求めたと言うのは、ある。その慶喜公でさえ、もちろん大権現様、徳川家康と言う偉人への信仰有ってこその、その様では有って。偉大な存在を求める、それは人のか、原理的な何かとしてはある。

象徴的でさえある?東京オリンピックの開会式を、ネットの多くかは評価しなかった。理解としては”あれ”こそが、個々の能動的な努力の結果としての復興と発展、渋沢栄一氏の理想かもしれないのに、だ。ただ間違いなく、あの開会式の中に、「スター」は居なかった、のだけど。

古い、感覚と思う”それ”を、世間の表面的かもしれないがそれは、まだ求めている。

そして或いは、その存在の欠落と、”それ”がいなければ成り立たない世界の、その後の中で、まだ何かの執着に支配されている、と言うべきか。

大衆は神である。

結局、「彼ら」が買う、利益にならないと、”それ”は続かないのだ。その時、伊人一人でどうにかする、様なそれは…何故か利益に成らない。

自分の理解としては、これはもう断言して良い感じにはなってきた。特に、創作での利益性それは”ここ”にしかない、それは間違いない。「大衆は神である」ここから、その大衆が期待する物を提供しなければ、経済どころか人間性さえ維持出来ない、それが「現実」である。創作は特に、意識せねばならないのだ、が。

売れれば良いんだよ。

そこにはまだ、何かの様々な色がある。


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そこにお金があると言う理解

2021-12-26 11:20:01 | 日記

状況は、相変わらず問題のあるまま変わってないのだが。

それでも、聊かの購買意欲が、と言うのは、立場的には、世間の少しの変化だろうか。


「最下層に居る存在」その現状が、今の自身の状況、と言う把握。

システムを設置した存在、その責務として、その結果を何処に見るか?その帰結にある境遇。

理解としては、”それ”を打開する為に必要なのは、「創作が売れる事」だが、その前にはもちろん、思想としての「神」大衆それが居る。

大衆が買わなければ、それは富の原資に成らない、のだ。

そう言う物をまず創らねばならない、時。「今まで通り」それは、重い問題には成る。今までの世界それが「切り捨て」それを当然と言う理解の中に居たからだが。想定ではもっと、簡単な話だった、売れるか売れないか?の時、売れる方が当然、選択される筈、ではある。

…と、それがそうでも無かった事に、気づく?までには相応の時間は必要になった訳だが。その「大衆」と言う神が採用したモノが、今までどんな結果を招いて来たか?ではあり。そしてそこに有る物が、逆にどれだけの「無理」を可能にして来たか、そう言う物も有り。不可能が可能になった世界、それは一部にとっては理想の世界だった、訳だ。それを或いは漫画の中で、面白いと、肯定してきた、そう言うのも現実としてはある。

そんな、あーだこーだ言っている内に、新型コロナウイルスの登場で、世界は随分変わってしまった、訳だが。

理解としては、「ゲーム実況」それでさえ「お金は創れる」現実があって、それは”今までの感覚”に対して、大きな疑問には成る訳で。まず、”それ”を創らねば話は始まらないのだ、それは本当に今まで、そこに有ったのに気づかなかった何か、の様に、当たり前に、それはそこに有った。

ともかく”それ”をまず見る為に、電気は絶対に必要で。そこに需要が続く限り、そこに利益は発生し続ける訳で。そう言うループが存在する事を、一応は、示せたと言う…そう言うのはある、だろうか。

もちろん、「大衆が求める物を創った」場合には、だが。


「資本論」も結局、「諦める」その理由を失っていた、と言う事だった…ろうか。それはまだ、微妙に残っている感じはする。自身の創った傑作、或いはプラン、”それ”を止めているモノは、理不尽で非道でさえある何かだ、そこに有る”価値”を、自身らの都合だけで、犯罪的に否定して居るのだ、価値も解らない蛮族の様に。そんな連中に支配された世界、それはおかしい。

「私は!」

その最後に、その最後の一言を呟くと言う、それはまだ、少し燻っては居る。


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一つの終わりの中で

2021-12-25 10:34:27 | 日記

「未来を創る」と言う事が、宇宙的な感覚にしろ、正義ではある。

その時、「子供を創る」と言うそこには、もちろん、それはある訳で。


自分にとっても、この辺、既に「痛い話」に成りつつある現実はまあ、重くあるが。

この先に、男女の比率の変動、そう言う絵がまあ、ある。

ともかく逆を考える、女性が多く男性が少ないと?”あぶれる女性”が出てくる。その時の選択とは?

という時、切り捨てを創らない、その視点で、少なからず一夫多妻、それが肯定される、されないと捨てる事になる、その領域がある。それは必要ではある。

…実際には、男性が多く、女性が少ない、と言う方が多い、らしい。

この場合、あぶれる男性は、どうすれば?と言う時、残酷な話として「それはしょうがない」が、まず一つある、生物的に未来を創る事を考えた時、それは別に切り捨てても、問題は少ない。

とは言え、実際にはだから、か。男性側は、生殖可能な期間、と言うのが女性に比べて非常に長い、と言うまあ、差はある。甲斐性さえ有るなら?歳を取っても若い女性を妻に出来る可能性、それはある訳だ。その辺で、平等さ、それはまあ、有るとは言える。


ともかくか、今の問題?として重い部分、「切り捨てられる奴が出る」は、要するに「一夫多妻の一部肯定」その必要性、それを考慮すれば、特に問題には成らない?訳だ、その時、この問題は存在しない。

「民主主義」は、そもそもその考察をしてない、と言うシンプルさはある。”多数決的には”一夫一婦こそ最良である、それ以外は邪悪だ!と言う極論の先で、資本論かが求める「切り捨て」それは、無視出来ない数として発生する訳だが。

”ここ”から先に、人間的な話、と言うのはある、人権的なモノを重視するならどうすべきか?と言うそれがあるだろう、けども。

それを持って「故に今までのは全部ダメだ」とそう断罪して良いか、そこは微妙な話。

とは言え、それはゲームでしかない、殺している訳じゃない、その辺、大賀さんは上手くやってくれるのでは?


そう言う挑戦?をしようか、と言うそれは、残念ながらか、期待する程には上手く行かなかった気は、する。

本来なら、こういう感じで、その辺の考察?かが、燃え尽きるまで続いて行く、筈だったのだが。


森宮のゲーム日誌08 「ダークソウルⅢ編」その2

「死なない」世界の中で、選択は連なり、重なっては行く。

そして、記憶に残る「以前」から、自分が何故”ここ”に来ているのか…その答えもここには、有る。

願いはある、このままでは終われないのだ。自身の願いは、”死”如きで消える物では無い…何度だろうと、それを果たす為には。自身には、その使命がある。邪悪なる醜者如きに、この炎を止める事は出来ない。自分には、「せねばならない事」がある。


…これは、幻影だろうか。

それとも、神の返答だろうか?

切り伏せていく、その先に居たその王もまた、だから、そこに居たのかもしれない。

その、後悔と苦念の剣を自分が引き抜いた時、そこに、一つの返答は有った。

選択は続いて行く、その剣の先に。


なんか、打ち切り漫画みたいになってしまった(;´Д`)。


面白いゲームである事は、まあ間違いも無いのだけども。達成に伴う具現が有り得る、時。それはそれで、何かの深刻な問題と共にある、そう言うのは重い。

十二分売り上げは出ているし。
十二分以上に実況動画は上がっているし。

これ以上必要?と言うそこは重く。
今、”この”オーダーを出した奴の「その先」には誰が居るのか?と言う、そこも重い話としてはある。

オミクロン株は、ともかく数としては無視出来ない、それが増えている。

自分は、何をしていた?ではある。

「諦めの悪さ」は、この話の面倒さでもあろうか。

この先は、無い。


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昔話と今の話

2021-12-24 10:47:06 | 日記

結構、深刻な事態かもしれない。

PS5は何故、今の様な事態に陥ったのか?だ。

今までのゲーム機と、PS5は何が違うのか?ではある。デザインは、非常に特異だ。それでいてその大きさ等を考えた時、内部的には既存のPC、その発展に過ぎないのでは?そんな気には成る。開発コストはそんなに高かったろうか?そこさえ疑問に成る時、問題はデザイン、”そこ”には集中していく、しかし。

デザイナーは、何を考えてこのデザインにしたのか?だ。少なくともPS4から、”ちょっと”変わってしまったそれは間違い、無い。「売れる様に」利益が発生するモノを、それは、ある意味で具現化はした、だろう、しかし。「それ」の意味として、そこに有る物それは、何か。

実際には、「既存の世界への反抗」そんな感じになってしまった、その結果だろうか?

”今まで”そこに有ったゲーム、その殆どが、実際には利益性が無かった、と言う面倒な話がある、「人力発電機を否定して雀荘を如何に維持するか?」をそのテーマにしてしまうから、だ、既存の世界、資本論の環境それはそう言う物だった、だから。「世界を守らねばならない」時、それは「何とかして奴隷を奴隷にし続ける方法は無いか?」”そこ”に注力していく事になる、しかし。その結果は、常にか、今までも、最悪の事態として現れては居る…京都アニメーションのそれもしかり、大阪ビル火災のそれもしかり、だ。

結論として、「今まで通り」それは、もう続かない。

という、それに対して、「従来の」ソフトウェアは、今も抵抗を続けては居る。

”それ”を、より快適な環境で動かしうる、のがPS5である、のだが。その際に有る物、”それ”は、そのソフトウェアに、その作者らに、想定してないような否定、”それ”を重く、向けてしまう。

「なんでこんな事する必要があるの?」

その時、従来を護ると言うそれは、返答として否定されてしまう。

未だに、PS5専用、というそれが無い理由、では無いだろうか。そして、市場に出回っていない、その原理では無いのか?だ。そのデザインの「理由」それが、今の事態を産んでいる。そして、”それ”への興味、それは相変わらず続いては居るのだ、必要である、より高度な環境で”それ”を動かす為には。今まで興味もなかった人々さえ、PS5は良くも悪くも視線を向けさせてしまった、そう言う面は重くあり。

その疑問の洪水を前に、設計者らは、実は耐えられていない、のかもしれない。

「売れる」それは至上命題だ、しかしその為に必要な事は?自身らの”今まで”さえも否定し断罪する、そう言う物に為ってしまう現実は、不意にそこに、対価と共に発生した、かも。それを前に、何かの選択として。

生贄を肯定しては、そこに利益は発生しない。

”それ”を持って贖罪には成らない、そう言う事はある。

「今まで」を、肯定し得るか、否か。

そしてそれは、自分にとって、改善か、或いは、だ。

その道の先に有る物、それは。


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