王の権威それは、確かに或いは最大公約数的な安定を選ぶのかもしれないが。
それでも、そこに居るのはあくまでも、一人なのだ。
「果たしてソフトウェアのダウンロード販売は、本当に小売店潰しなのか?」
と、いきなりか少し考える。とは言え慎重にはなりたい、そのすぐ前には「俺がガンダムの作者だ!」とか、”そう言う声”もあった。ガンダムの作者、それは混沌だ。経緯的にも、良く解らない部分は多い。ともかく昭和天皇の意向、それが強く出たのは間違いないだろう、そして同じく現場の感覚もまた。そして、その折衷案的に帰結したフィルムが、今日に至る発展の礎と化した。或いは、願いは一つだ。
戦争の無い世界を。
そこに対して今、それを”誰”が願ったのか?それは、誰も明言はしえない。
だから逆に、「私が作者だ!」と言う、その声にも、誰も反論し得ない部分はあって、バカバカしい事を言っているのに微妙に、そこには一抹の真理?そう言うのも、ある。どんな創作だろうと「作者は居る」のだ、だとしたら、それは可能性としては実在もする。
もちろん今、”それ”を曖昧にしないと、創作は利益性を持てないのだが。
「資本論」にも、実際には欠けた部分かもしれない。結果、この思想は、「資本主義」と「共産主義」それに分化し、今日に至る冷戦的な状態、その元凶とは化した。目指したのは同じ事かもしれないが、解釈かの差で、それは真逆な様相を見せ…核兵器の増設競争にも入った。多分、「どっちが正しい?」を問われた時、そこに返答が無かったから、だろうか。二分の一の答え、それは無い、それを問われた時、”作者”はそこに何を残したか、ともかく今は、その部分は削れているのかも。
作者に聞かねば解らない部分は、結局作者が居なくなった時点で、喪失していて。
それが多分原因で、或いはイスラム教も今も、対立と戦闘は続いている。
誰か一人の主義、正義では、結局は維持出来なくなる状況は、ある。
その時、自分さえもまた、「絶対に正しい」それは、言えない事に、少し考えはする。
例えば小売店にとって、百も二百も販売されるゲームソフトを買うのは、苦痛だ。返品できるならともかく?その在庫は次第に重くなっては行く。そんな物を売らされるよりは、ゲームをダウンロードし得るカード、その方が小売店には有益では?そんな現状は、果たして何かの間違い、それだったろうか。
古き良き、だ。ゲーム屋に行く、壁一面に並んだゲームソフト、それを手に取ったりしてる、そんな時間は、当時は十二分な娯楽だった。その現実はしかし、今に至る結果ではある。売れるゲームソフトを創らなかったから、だろうか、それとも、もっと別の。
過去を見ているよりは、前を見た方が良いのかもしれないのだが。
それで積み上げた負債それは、平成の呪いではある。
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