まだ書く事のある理不尽はある。
今のままだと、例え「イメージ素材館」が実現した、としても。先のA氏、それは”その”評点構造にそのまま組み込まれてしまう、可能性が高い。目的が、或いは「独裁創作による犠牲」を出さない事に集中するから、だ。「他人がどれだけ犠牲になろうが関係ないだろ?!」と言う意見と、ひき逃げ殺人を犯したとしても犠牲を避けようとする”それ”と、事実である場合、どっちが正しい?と言うと、状況的に”後者”だ。その結果、前者は後者を超えられず、A氏は流れとして、その評点システムに組み込まれてしまう。
…だとしたら、「今と大差ない」のだが。
そもそも?B氏を陥れた存在が、そんな邪悪をしなければ、この事態は起きなかったかもしれない。罰するべきは”そこ”ではある、のだろうけど。結局”それ”があの、「中華思想の皇帝」或いは「朝鮮王朝の末裔」その方向ではあり。そして「中華思想の皇帝」その元凶となった”それ”は或いはもう、因果の結果で病を患いこの世を去っている、可能性がある。「大賀さん」その存在は、その邪悪を消した、だからこそ今、この辺の話が出てきたのだけど。「独裁創作は利益にならない」と言うよりも、「それは人を殺す」と、事実と共に語られた方がパワフルだ。「正義は勝つ」時、自分の声は、その後者の声に負けてしまう、後者の方が、今の状況ではまだ優先される訳だ。
理不尽なのか道理の結末か、良く解らない。
自分はかなりこの状況で損害を加速している気はする、が。過去を見れば、独裁創作にどれだけ傾倒してきたか?と言う点はあり、今でも、「ちょっとくらい」が主観的な大惨事の起点になったりする事はまま、ある。決して自分に何の責任も無い、訳でも無い訳だが。そうは言っても、理不尽は否定出来ず、不満は蓄積しつつ、状況は膠着してる。
帰結は今、自分の敷いた”雅”市場そのシステム故だ。だとしたら、後は神のみぞ知るなのだけど。
「正義は勝つ」のだ。
その時、自称する正義程、胡散臭い物は無い訳で。
ともかく一年に渡って”描かされ続けた”漫画が全く売れなかった、その責任は何処に?と言う命題の方が、今は重いのだった。
もちろんその作者にしたって、ストリードの連携、”それは拒絶した”のだけど。
そしてもしかしたらA氏はむしろ、この環境で実は「上手くやった」のだ。
そして或いは今は逆に、創作者がそれに向かない事をむしろ否定するのかもしれない。
神は何故か今も、A氏の方を向いている。
この事例は有ったのか、無かったのか。