ケルトといえば、もはや俊輔のセルティックが代名詞。
で、日本でケルトというと、なんだかメルヘンチックで、ロマンチックな童話的世界を思い浮かべがちですが・・・・
それはまったくの誤りであって(そこまでかどうかは・・?)、ロマン主義の時代にイギリス人がガリアの伝説的詩人「オシアン」の作品と称するでっち上げの偽作でもってそのようなイメージを作り上げたんだそうです。
ケルト人というと、僕も独特の神話や、アニミズム、動物崇拝、アーサー王、森と妖精・・・そんなころぼっくる的イメージが湧きますが。
それらのイメージがでっちあげだったとは。
またヨーロッパ人が、現実というか、目に見えるものをいかに忠実に作品として仕上げるか、という「具象化」が芸術として尊ばれるのに比し、ケルト人はそのようなものにはまったく価値観を持たず、自然の形態や具象化にこだわらなかったそうです。
むしろ、計測したり、写し取ることが奇異に映り、それよりも流れ行くさま、移ろい行く過程、そんな宇宙の根本原理を重んじたそうです。
その証左として、ケルトの渦巻き模様には「反転しひねれながら無限に連続・増殖するかたち」が一貫して守られているのだそうです。
というと、日本人固有のわび・さびや、もののあわれ観、仏教の空(くう)、東洋の太極思想、陰陽道などが連想されますが、いわゆる陰陽の明確な二分割、あるいは三分割ではなく、永遠に続く無限の要素があるそうです。
ってことは、イスラムのアラベスク・・・?
またケルト人は文字を持たず、文字にすることをふさわしくないとむしろ避けていたようで、圧倒的記憶による伝承口承による文化継承だったそうです。
そのどのあたりでブライアン・フェリーがケルト文化に通じるのかは僕には不明です。
しかし彼のデカダンスの場合、いわゆるキリスト教懐疑主義だとか芸術至上主義ではなく、ただ頽廃的、非道徳的という意味でのデカダンス・・・といったらよいのでしょうか?
滅び行く、壊れ行く中世のお城的なイメージがあります。
そこにインテンショナルなB級性を加味して、趣味良きチープさと独特のけばけばしさを出していると、僕は感じます。
で、日本でケルトというと、なんだかメルヘンチックで、ロマンチックな童話的世界を思い浮かべがちですが・・・・
それはまったくの誤りであって(そこまでかどうかは・・?)、ロマン主義の時代にイギリス人がガリアの伝説的詩人「オシアン」の作品と称するでっち上げの偽作でもってそのようなイメージを作り上げたんだそうです。
ケルト人というと、僕も独特の神話や、アニミズム、動物崇拝、アーサー王、森と妖精・・・そんなころぼっくる的イメージが湧きますが。
それらのイメージがでっちあげだったとは。
またヨーロッパ人が、現実というか、目に見えるものをいかに忠実に作品として仕上げるか、という「具象化」が芸術として尊ばれるのに比し、ケルト人はそのようなものにはまったく価値観を持たず、自然の形態や具象化にこだわらなかったそうです。
むしろ、計測したり、写し取ることが奇異に映り、それよりも流れ行くさま、移ろい行く過程、そんな宇宙の根本原理を重んじたそうです。
その証左として、ケルトの渦巻き模様には「反転しひねれながら無限に連続・増殖するかたち」が一貫して守られているのだそうです。
というと、日本人固有のわび・さびや、もののあわれ観、仏教の空(くう)、東洋の太極思想、陰陽道などが連想されますが、いわゆる陰陽の明確な二分割、あるいは三分割ではなく、永遠に続く無限の要素があるそうです。
ってことは、イスラムのアラベスク・・・?
またケルト人は文字を持たず、文字にすることをふさわしくないとむしろ避けていたようで、圧倒的記憶による伝承口承による文化継承だったそうです。
そのどのあたりでブライアン・フェリーがケルト文化に通じるのかは僕には不明です。
しかし彼のデカダンスの場合、いわゆるキリスト教懐疑主義だとか芸術至上主義ではなく、ただ頽廃的、非道徳的という意味でのデカダンス・・・といったらよいのでしょうか?
滅び行く、壊れ行く中世のお城的なイメージがあります。
そこにインテンショナルなB級性を加味して、趣味良きチープさと独特のけばけばしさを出していると、僕は感じます。