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路地裏のバーのカウンターから見える「偽政者」たちに荒廃させられた空疎で虚飾の社会。漂流する日本。大丈夫かこの国は? 

 路地裏のバーのカウンターから見える「偽政者」たちに荒廃させられた空疎で虚飾の社会。漂流する日本。大丈夫かこの国は? 

【社説・12.12】:被団協平和賞演説 核廃絶の決意発信した

2024-12-12 04:00:50 | 【ノーベル賞(物理学・化学・生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野...

【社説・12.12】:被団協平和賞演説 核廃絶の決意発信した

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【社説・12.12】:被団協平和賞演説 核廃絶の決意発信した 

 核廃絶と被爆者救済の訴えに国際社会は真摯に向き合わなければならない。とりわけ日本は唯一の戦争被爆国として核廃絶に向け先導的役割を果たすべきである。

 日本原水爆被害者団体協議会(被団協)にノーベル平和賞が授与された。代表委員の田中熙巳(てるみ)さんは受賞演説で、ロシアによる核威嚇、イスラエルの閣僚による核兵器使用への言及について「市民の犠牲に加えて『核のタブー』が壊されようとしていることに限りない悔しさと憤りを覚える」と述べた。

 数万人もの人命を一瞬で奪い、その後も放射能被害が被爆者の心身をむしばむ。残虐な兵器であるゆえ、為政者は「核のボタン」を押してはならない。この「核のタブー」が揺らいでいることへの危機感を表明したのである。

 同様に、フリードネス・ノーベル賞委員長も、被団協の平和賞受賞理由に「核のタブー」確立への貢献を挙げつつ、核使用が現実味を帯びていることに危機感を示した。

 授賞式が「核のタブー」を守り、核廃絶の決意を発信する場となった意義は大きい。

 核威嚇は国際社会に対する許しがたい脅しである。核抑止力の均衡ではなく核廃絶による平和構築こそが国際社会が目指すべき姿だ。身を持って核兵器の恐怖を知る被爆者らの言葉を核保有国は重く受け止めるべきである。

 被団協が発足したのは1956年である。背景には54年3月に起きた「第五福竜丸事件」を契機とした原水爆反対運動の高まりがあった。

 被団協が掲げる基本要求は核兵器の廃絶と原爆被害への国家補償である。この運動が「核のタブー」の確立につながった。被団協が提案し、各国の被爆者団体に広がった「核兵器の禁止・廃絶を求める国際署名」は2017年の核兵器禁止条約に結実した。

 しかし、被団協が掲げる要求と距離を置いているのが、他ならぬ被爆国日本であることは極めて残念である。

 日本政府は依然として核兵器禁止条約に批准していない。被爆地である広島市、長崎市が求めている核兵器禁止条約締約国会議へのオブザーバー参加にも明確な態度を示していない。そればかりか石破茂首相は米国と日本の「核共有」に言及した。核抑止力への執着は被爆国の取るべき態度ではない。

 受賞講演の中で田中さんは「何十万人という死者に対する補償は一切なく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けている」と述べた。この訴えを政府は無視してはならない。

 被団協の平和賞受賞は、核戦争回避への努力と核廃絶への決意を国際社会に強く迫るメッセージとなった。政府はこのメッセージを受け止め、締約国会議へのオブザーバー参加と条約批准に踏み切るべきである。そのことが被爆国の責務である。

 元稿:琉球新報社 主要ニュース 社説・解説・コラム 【社説】  2024年12月12日  04:00:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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《社説②・12.12》:国際社会と核兵器 被爆者の声を廃絶の糧に

2024-12-12 02:01:40 | 【ノーベル賞(物理学・化学・生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野...

《社説②・12.12》:国際社会と核兵器 被爆者の声を廃絶の糧に

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:《社説②・12.12》:国際社会と核兵器 被爆者の声を廃絶の糧に

 核のリスクはかつてなく高まっている。国際社会は未来に対する責任を共有しなければならない。

 「人類が核で自滅することのないように」。ノーベル平和賞授賞式で日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の田中熙巳(てるみ)さんは警鐘を鳴らした。

 世界の指導者が耳を傾けるべき被爆者の言葉である。

ノーベル平和賞の授賞式で演説する日本被団協の田中熙巳代表委員=オスロで2024年12月10日午後1時50分、猪飼健史撮影

 ウクライナ攻撃を続けるロシアは核の脅しを繰り返し、使用のハードルを下げている。中国は長射程の戦略核を増強し、北朝鮮は戦術核の開発に乗り出す。 

 いずれの国も核戦力を重要な軍事戦略に位置付ける。

 これに対し、米国は3カ国に同時に対抗できる態勢を検討するという。通常兵器の強化に加え、核弾頭の配備増も視野に入れる。

 懸念を増大させているのが、大統領に復帰するトランプ氏だ。1期目では、イランの核開発を制限する核合意から離脱し、ロシアとの中距離核戦力(INF)全廃条約を破棄した。 

 核戦力の強化を宣言し、北朝鮮への核攻撃すら示唆した。危機感を強めた議会は大統領の核使用権限を制限しようとした。

 強硬姿勢に変化はない。大統領が核使用を命じても糾弾されるべきではないと主張する。地下核実験を再開するとの観測も流れる。 

 負の連鎖を断ち切るには、対話で解決策を探るほかにない。

 米露間の軍縮条約である新戦略兵器削減条約(新START)は、次期政権発足から約1年後の2026年2月に期限を迎える。

 延長で合意し、核兵器の配備を増やさないようにすることが欠かせない。

<picture><source srcset="https://cdn.mainichi.jp/vol1/2024/12/12/20241212ddm005070134000p/9.webp?1" type="image/webp" />ノーベル平和賞の授賞式を前に記念撮影する日本被団協の田中熙巳代表委員(前列中央)とメンバーら=オスロで2024年12月10日、猪飼健史撮影</picture>
ノーベル平和賞の授賞式を前に記念撮影する日本被団協の田中熙巳代表委員(前列中央)とメンバーら=オスロで2024年12月10日、猪飼健史撮影

 国際社会の取り組みも重要だ。今秋の国連総会では、核戦争が人類と地球に与える被害を予測する専門家パネルの設置が決まった。 

 その甚大さを想像し、各国首脳が話し合えば、使ってはならないという「核のタブー」を共有できるはずだ。

 核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)に続く被団協の平和賞受賞は草の根の力を見せつけた。廃絶の世論をさらに広げたい。

 「歯止めなき核の世界」の現実を「核なき世界」の理念に引き戻す。それを後押しするのが唯一の戦争被爆国である日本の責務だ。

 元稿:毎日新聞社 朝刊 主要ニュース 社説・解説・コラム 【社説】  2024年12月12日  02:01:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【紀藤正樹弁護士】:「この発言は予定外」ノーベル平和賞授賞式で被団協の田中代表委員が日本政府批判

2024-12-11 09:35:30 | 【ノーベル賞(物理学・化学・生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野...

【紀藤正樹弁護士】:「この発言は予定外」ノーベル平和賞授賞式で被団協の田中代表委員が日本政府批判

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【紀藤正樹弁護士】:「この発言は予定外」ノーベル平和賞授賞式で被団協の田中代表委員が日本政府批判

 弁護士の紀藤正樹氏が10日までにX(旧ツイッター)を更新。被爆者の立場から核兵器の廃絶を訴えてノーベル平和賞を受けた日本原水爆被害者団体協議会(被団協)を代表して田中熙巳代表委員が10日、ノルウェー・オスロで行われた授賞式で述べた言葉に、「この発言は予定外だったんですね」とつぶやいた。

紀藤正樹氏(2022年7月撮影)

 田中氏は、スピーチの中で当初予定に無かった文言を付け加えた。1994年(平6)に制定された被爆者援護法に触れ、「何十万という死者に対する補償は全くなく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けています」と訴えた。これは事前に配布された文案通りだった。

 この後に、「もう一度繰り返します」と話し出した。「原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府は全くしていないという事実をお知りいただきたいと思います」と予定外の言葉を付け加えて、政府の姿勢を批判していた。

 元稿:日刊スポーツ社 主要ニュース 社会 【話題・日本原水爆被害者団体協議会(被団協)・ノーベル平和賞受賞】  2024年12月11日  09:35:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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《斜面・12.11》:隻眼の思想を世界に

2024-12-11 09:31:30 | 【ノーベル賞(物理学・化学・生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野...

《斜面・12.11》:隻眼の思想を世界に

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:《斜面・12.11》:隻眼の思想を世界に

 英国の山荘に日本からヒバクシャが訪れた。1957年夏。56歳の哲学者、森滝市郎さん(1901~94年)である。前年に発足した日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の代表委員で、後に初代理事長となった反核運動の牽(けん)引者だ

 ◆迎えた老紳士は55年、アインシュタインら著名な科学者らとともに核廃絶を訴える宣言をまとめた哲学者バートランド・ラッセル(1872~1970年)、85歳。2人は核と人類の未来について語り合った。そのやりとりを森滝さんが書き残している

 ◆ラッセルが聞いた。広島の人々は米国への恨みや憎しみが強いか、

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 元稿:信濃毎日新聞社 朝刊 主要ニュース 社説・解説・コラム 【斜面】  2024年12月11日  06:00:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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《余録・12.11》:死んだ兄と自分を取り違えた新聞の訃報に…

2024-12-11 02:02:30 | 【ノーベル賞(物理学・化学・生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野...

《余録・12.11》:死んだ兄と自分を取り違えた新聞の訃報に…

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:《余録・12.11》:死んだ兄と自分を取り違えた新聞の訃報に…

 死んだ兄と自分を取り違えた新聞の訃報に「死の商人」の見出しがあった――。ダイナマイトを発明したノーベルが平和賞を作ったきっかけとされる逸話だが、確たる証拠はないという。より確かなのは元秘書のオーストリア人女性の影響だ

 ▲反戦小説「武器を捨てよ!」(1889年)で名声を得て平和運動にまい進したベルタ・フォン・ズットナー。晩年まで交流したノーベルは死の3年前に「普遍の平和に貢献した男性か女性への賞」を創設する考えを伝えた

女性初のノーベル平和賞受賞者でノーベルとも親交があった平和活動家のベルタ・フォン・ズットナー=オーストリア大使館提供

 ▲1905年に女性初の平和賞を受賞し、第一次大戦直前に亡くなった。飛行機の誕生で空も戦場になると警鐘を鳴らした予言的評論「空の野蛮化」は2度の大戦で現実化した。広島と長崎への原爆投下は究極の姿だ

<picture>オスロ郊外の空港に到着し、取材に応じる日本被団協代表団の(手前から)田中熙巳さん、箕牧智之さん、田中重光さん=2024年12月8日、共同</picture>

 オスロ郊外の空港に到着し、取材に応じる日本被団協代表団の(手前から)田中熙巳さん、箕牧智之さん、田中重光さん=2024年12月8日、共同

 ▲日本原水爆被害者団体協議会へのノーベル平和賞の授賞式がオスロで行われた。長崎で被爆した代表委員の田中熙巳(てるみ)さんは受賞演説で「核兵器も戦争もない世界」に向けた協力を訴えた。過去の平和活動家たちの思いと重なる

 ▲「欧州が廃虚と失敗の見本となるか。危機を回避し、平和と法の時代に入るか」。約120年前に世界大戦回避を求めたズットナーの願いはかなわなかった

 ▲核戦争を回避できなければ人類の失敗だ。「思想は決して滅びず目的が達成されるまでさすらい続ける」。ズットナーをたたえた同郷の作家、ツバイクの言葉だ。田中さんが求めた「原爆体験者の証言の場」を通じ、被爆者の思いが世界へ若い世代へと広がることに希望を託したい。

 元稿:毎日新聞社 東京朝刊 主要ニュース 社説・解説・コラム 【余録】  2024年12月11日  02:03:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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《クローズアップ・12.11》:ヒバクシャ、託す未来 ノーベル賞 核、タブーから廃絶へ

2024-12-11 02:02:10 | 【ノーベル賞(物理学・化学・生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野...

《クローズアップ・12.11》:ヒバクシャ、託す未来 ノーベル賞 核、タブーから廃絶へ

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:《クローズアップ・12.11》:ヒバクシャ、託す未来 ノーベル賞 核、タブーから廃絶へ

 広島、長崎への原爆投下から80年になるのを前に、自らの凄絶(せいぜつ)な体験を証言しながら、核兵器の廃絶を訴えてきた日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)にノーベル平和賞が10日贈られた。その称賛は被爆者の努力を次の世代につなぐ力になるのか。受賞は核を巡る厳しい世界の情勢にどんな影響を与えるのか。

ノーベル平和賞授賞式で演説する日本被団協の田中熙巳代表委員=オスロで10日午後1時35分、猪飼健史撮影

ノーベル平和賞授賞式で演説する日本被団協の田中熙巳代表委員=オスロで10日午後1時35分、猪飼健史撮影

 「これからは、私たちがやってきた運動を、次の世代のみなさんが、工夫して築いていくことを期待している」。日本被団協の田中熙巳(てるみ)代表委員(92)が受賞演説に込めたのは、将来を担う世代への希望だ。

 ■この記事は有料記事です。残り3132文字(全文3383文字)

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 元稿:毎日新聞社 東京朝刊 主要ニュース 社説・解説・コラム 【クローズアップ】  2024年12月11日  02:00:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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《質問なるほドリ・12.11》:ノーベル平和賞って? 化学者の遺言で創設 選考過程50年後公開=回答・高木香奈

2024-12-11 02:02:00 | 【ノーベル賞(物理学・化学・生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野...

《質問なるほドリ・12.11》:ノーベル平和賞って? 化学者の遺言で創設 選考過程50年後公開=回答・高木香奈

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:《質問なるほドリ・12.11》:ノーベル平和賞って? 化学者の遺言で創設 選考過程50年後公開=回答・高木香奈 

 なるほドリ 今年のノーベル平和賞が日本原水爆被害者団体協議会(にほんげんすいばくひがいしゃだんたいきょうぎかい)(日本被団協)に贈(おく)られたね。そもそも、どうして平和賞があるの?

<picture><source srcset="https://cdn.mainichi.jp/vol1/2024/12/11/20241211ddm001010100000p/9.webp?1" type="image/webp" />ノーベル平和賞の受賞決定を聞いた日本被団協の箕牧智之代表委員=広島市役所で10月11日、安徳祐撮影</picture>
ノーベル平和賞の受賞決定を聞いた日本被団協の箕牧智之代表委員=広島市役所で10月11日、安徳祐撮影

 記者 ノーベル賞を創設した化学者アルフレッド・ノーベルの遺言(ゆいごん)だからです。遺言では、遺産(いさん)を使って賞を創設し、授与すべき対象の一つに「国家間の友好関係や軍備(ぐんび)の削減(さくげん)・廃止、平和会議の開催(かいさい)・推進(すいしん)のために最大または最善の貢献(こうけん)をした人物」を挙げました。

 ■この記事は有料記事です。残り550文字(全文803文字)

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 元稿:毎日新聞社 東京朝刊 主要ニュース 社説・解説・コラム 【質問なるほドリ】  2024年12月11日  02:00:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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《日本被団協・ノーベル平和賞受賞》:「共に頑張りましょう」 田中熙巳さんが演説に込めた核兵器なき世界

2024-12-10 23:03:30 | 【ノーベル賞(物理学・化学・生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野...

《日本被団協・ノーベル平和賞受賞》:「共に頑張りましょう」 田中熙巳さんが演説に込めた核兵器なき世界

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:《日本被団協・ノーベル平和賞受賞》:「共に頑張りましょう」 田中熙巳さんが演説に込めた核兵器なき世界

 核兵器は人類とは共存させてはならない――。ノルウェー・オスロで10日、開かれた日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)へのノーベル平和賞の授賞式。田中熙巳(てるみ)代表委員(92)は世界に向けて発信するメッセージにその願いを込めた。

ノーベル平和賞の授賞式当日を迎えた日本被団協の田中熙巳代表委員(中央)=オスロで2024年12月10日、猪飼健史撮影

 「人類が核兵器で自滅することのないように。核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう」

 田中さんは時折、手元の原稿に目を落としながら、力強く言葉を重ねた。約21分にわたる演説を終えると、会場の人々はスタンディングオベーションでたたえた。

 10月11日に平和賞受賞が決まってから、生活は「めまぐるしくなった」。1人暮らしをする埼玉県新座市の自宅で演説内容を考え、国内外のメディアの取材に応じた。疲労が重なったためだろうか「初めて風邪で病院を受診した」という。 

 演説の原稿執筆に当たっては「周りがいろいろプレッシャーをかける。気が重くなって、完成したと思ったら夢だったこともあった」と振り返る。事務局や他の役員らの協力も得ながら1カ月以上かけて完成させた。

<picture><source srcset="https://cdn.mainichi.jp/vol1/2024/12/10/20241210k0000m040247000p/9.webp?1" type="image/webp" />ノーベル研究所を訪れ、芳名帳に記帳する日本被団協の田中熙巳代表委員=オスロで2024年12月9日、NTBロイター</picture>
ノーベル研究所を訪れ、芳名帳に記帳する日本被団協の田中熙巳代表委員=オスロで2024年12月9日、NTBロイター

 演説には、自身の1945年8月9日の体験も盛り込んだ。軍人だった父が亡くなり、旧満州(現中国東北部)から長崎に引っ越して旧制中学に通っていた13歳のとき、爆心地から約3・2キロの自宅で被爆した。親族を捜して母と爆心地付近に入り、焼け死んだ人や水を求めて川で息絶えた人たちの無数の遺体を目にした。伯母ら親族5人を失った。

 「その時目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした。誰からの手当ても受けることなく苦しんでいる人々が何十人何百人といました。たとえ戦争といえどもこんな殺し方、傷つけ方をしてはいけないと、強く感じました」

 戦後、頼れる人がいない一家の暮らしは経済的に困窮した。それでも大学進学を目指して上京。働きながら毎年大学受験に挑み、東京理科大に入学した。当時は被爆者という意識は薄かったが、長崎の同級生が白血病で亡くなったことをきっかけに被爆者健康手帳を取得した。 

 卒業後は東北大の研究者となり、宮城県の被爆者団体の扉をたたいた。東北大を定年退官すると、日本被団協の活動に本腰を入れるため埼玉県に移り住んだ。

 事務局長を通算20年務め、米ニューヨークの国連本部での原爆展も実現させた。そして、2017年に代表委員に就任した。

 演説には、自分たちの願いを受け継いでほしいという思いも盛り込んだ。「原爆被害者の現在の平均年齢は85歳。10年先には直接の体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれません。これからは、私たちがやってきた運動を、次の世代のみなさんが、工夫して築いていくことを期待しています」

 田中さんは若い世代に向けてオンライン会議も積極的に活用する。今春には被爆証言をしながら世界各地に寄港するNGO「ピースボート」の船に約1カ月乗船した。

<picture><source srcset="https://cdn.mainichi.jp/vol1/2024/12/10/20241210mpj00m040003000p/9.webp?1" type="image/webp" />ノーベル平和賞授賞式を前に記者会見する田中熙巳さん=東京都千代田区で2024年12月2日午後3時37分、長谷川直亮撮影</picture>
ノーベル平和賞授賞式を前に記者会見する田中熙巳さん=東京都千代田区で2024年12月2日午後3時37分、長谷川直亮撮影

 時には、つえを片手に署名提出のために東京・永田町に出向く。政治家が非核三原則の見直しに言及する度に危機感と憤りをあらわにしてきた。 

 ノーベル平和賞の授賞式には7年前にも出席したことがあった。17年のNGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)への授賞式。カナダ在住の被爆者、サーロー節子さん(92)の演説を間近で聞いた。演説中、田中さんは涙をこらえながら、核兵器がこの世からなくなるまで力を尽くそうと誓い合い、道半ばで逝った先人や仲間たちの姿を思い浮かべた。

 今度は田中さんがその場所に立った。同じく代表委員の田中重光さん(84)、箕牧智之(みまきとしゆき)さん(82)が壇上で見守る中、世界の人々にこう呼びかけた。

 「みなさんがいつ被害者になってもおかしくないし、加害者になるかもしれない。核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたい」【椋田佳代】

 元稿:毎日新聞社 主要ニュース 社会 【話題・日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞授賞】  2024年12月10日  23:03:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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《被団協・ノーベル平和賞授賞》:「国家補償していない」 田中熙巳さん、受賞演説で「予定外」発言

2024-12-10 22:50:30 | 【ノーベル賞(物理学・化学・生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野...

《被団協・ノーベル平和賞授賞》:「国家補償していない」 田中熙巳さん、受賞演説で「予定外」発言

『漂流する日本の羅針盤を目指して』:《被団協・ノーベル平和賞授賞》:「国家補償していない」 田中熙巳さん、受賞演説で「予定外」発言

 被爆者の立場から核兵器廃絶を国内外に訴えてきた日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)へのノーベル平和賞授賞式が10日、ノルウェーのオスロ市庁舎で開かれた。

ノーベル平和賞を受賞した日本被団協の(右端から)箕牧智之さん、田中重光さん、田中熙巳さん=オスロで2024年12月10日午後1時28分、猪飼健史撮影

 日本被団協を代表し、長崎で被爆して親族5人を亡くした田中熙巳(てるみ)代表委員(92)は受賞演説で、当初予定にない言葉を加える場面があった。

 田中さんは1994年に制定された被爆者援護法に触れる中で、「何十万という死者に対する補償は全くなく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けています」と訴えた。

 ここまでは報道機関に対して事前に配布された文案と同じだったが、田中さんは直後に「もう一度繰り返します」と切り出した。

 そして、田中さんは正面を真っすぐ見ながら「原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府全くしていないという事実お知りいただきたいと思います」と強調。「予定外」の訴えを追加し、国家補償を認めていない政府姿勢2度にわたって批判した。【安徳祐(オスロ)、面川美栄】

 元稿:毎日新聞社 主要ニュース 社会 【話題・日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)へのノーベル平和賞授賞式】  2024年12月10日  22:50:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。
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【被団協ノーベル平和賞】:「皆さんの努力が実ったよ」、代表委員の田中熙巳さん演説

2024-12-10 22:42:30 | 【ノーベル賞(物理学・化学・生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野...

【被団協ノーベル平和賞】:「皆さんの努力が実ったよ」、代表委員の田中熙巳さん演説

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【被団協ノーベル平和賞】:「皆さんの努力が実ったよ」、代表委員の田中熙巳さん演説 

 「核なき世界へ話し合いを」。被爆の実相を長年伝えてきた日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が10日、ノーベル平和賞を授賞され、代表委員の田中熙巳(てるみ)さん(92)が核廃絶に向けたメッセージを発信した。来年で原爆投下、終戦から80年。被爆者運動を続けて志半ばで逝った先人たち、広島や長崎にいる全ての被爆者への思いを込めた。

メダルと賞状を授与された田中熙巳さん(左から2人目)ら代表委員3氏とフリードネス委員長=10日午後、オスロ(木下倫太朗撮影)

 「人類が核兵器で自滅することのないように。核兵器も戦争もない世界を求めて共に頑張りましょう」。田中さんが力強く呼び掛けると、会場のオスロ市庁舎は割れんばかりの拍手に包まれた。

 田中さんは13歳だった昭和20年8月9日、長崎の爆心地から3・2キロの自宅で被爆した。演説では祖父や伯母ら親族5人を亡くし、自ら荼毘(だび)に付したことにも触れ、「人間の死とはとても言えないありさま。たとえ戦争といえどもこんな殺し方、傷つけ方をしてはいけない」と語った。

 終戦後、東北大の工学系研究者として移り住んだ仙台で被爆者運動に参加したが、健康に問題のない自分が表立って活動するのは避け、「大変な方々のお手伝いがしたい」と裏方に徹した。

 だが、一緒に世界を回った仲間が次々と亡くなると、自らも証言者として前面に立つように。平成27(2015)年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議では、被爆者を代表して米ニューヨークの国連本部で演説し、「核兵器廃絶をもう待てない」と各国に迫った。

 被団協の事務局長を2度にわたり計20年務め、平成29年に代表委員に就任。今回の受賞で被団協の長年の核廃絶活動が改めて世界に認められる形となったが、過去には有力候補とされながら受賞を逃したこともあった。「被団協はもう(ノーベル平和賞を)もらえないだろうとあきらめていた」と本心も明かす。 

 授賞式で演説した約20分の原稿は、10月11日の受賞決定後、1カ月ほどかけて完成させた。世界中に注目される舞台で、被爆者として何を伝えるか。一番に浮かんだのは、昭和31年の被団協設立以降、核なき世界の実現を目指しながら、道半ばで亡くなった先人や仲間らの顔だった。

 国連軍縮総会など世界を舞台に多くの先人らが核廃絶を訴えてきた。こうした被団協の歴史や活動に触れた上で、「核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いです」と訴えた。

 来年で戦後80年となる中、被爆者の高齢化や、被爆の実相を次世代にどう受け継ぐかが課題だ。9日の記者会見で「若い人たちが核兵器のことを真剣に考えていないのではないか」と懸念を示した田中さん。授賞式では「10年先には直接の体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれません。これからは、私たちがやってきた運動を、次の世代の皆さんが、工夫して築いていくことを期待しています」と若者に訴えた。

 被団協では最高齢の92歳だが、空路の長旅もいとわず北欧まで出向いた。「言葉として伝わっても、中身まで伝わらないことがある」からこそ、現地で、肉声で、核廃絶への思いを伝えたかったと言い切る。

 授賞式では先人らの遺影も見守った。「(受賞が)10年早かったら喜びが共有できた」と残念がる一方、長年にわたる先人たちの運動が受賞につながったと確信する。

 「あなたたちに対する受賞でもある。皆さんの努力がここまで実ったよ」

 (オスロ 木下倫太朗、写真も)

 元稿:産経新聞社 主要ニュース ライフ 【学術・アート・日本原水爆被害者団体協議会(被団協)・ノーベル平和賞】  2024年12月10日  22:42:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【被団協ノーベル平和賞】:核廃絶と核抑止は両立可能、専制勢力に「使わせぬ」手立てを

2024-12-10 22:33:30 | 【ノーベル賞(物理学・化学・生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野...

【被団協ノーベル平和賞】:核廃絶と核抑止は両立可能、専制勢力に「使わせぬ」手立てを

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【被団協ノーベル平和賞】:核廃絶と核抑止は両立可能、専制勢力に「使わせぬ」手立てを  

 核兵器の廃絶を訴えてきた日本原水爆被害者団体協議会(被団協)がノーベル平和賞を授与された。悲劇的な被爆の体験を語り継ぎ、核兵器のない世界の実現を訴えてきた被団協の長年にわたる活動は、各国に核兵器の使用を思いとどまらせる「防波堤」の役割を果たしてきた。

ノーベル平和賞の授賞式で演説を終え拍手を受ける被団協代表委員の田中熙巳さん(左から2人目)=10日、オスロ(共同)

 被団協が核兵器使用は人道に反する大罪であるとの共通認識を定着させるのに貢献した意義は大きい。

 一方で、2大核保有国である米国とソ連を軸に東西両陣営が対立した冷戦期から現在に至るまで核戦争が起きなかったのは、核攻撃を受けた場合は核兵器で反撃する立場を示すことで相手の核使用を押しとどめる、核抑止政策が有効に機能してきたためでもある。

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 元稿:産経新聞社 主要ニュース 国際 【国際問題・欧州・ロシア・日本原水爆被害者団体協議会(被団協)・ノーベル平和賞】  2024年12月10日  22:33:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【被団協ノーベル平和賞】:オスロで授与 田中熙巳代表委員、演説で核廃絶の思い訴え

2024-12-10 22:05:30 | 【ノーベル賞(物理学・化学・生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野...

【被団協ノーベル平和賞】:オスロで授与 田中熙巳代表委員、演説で核廃絶の思い訴え

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【被団協ノーベル平和賞】:オスロで授与 田中熙巳代表委員、演説で核廃絶の思い訴え 

 【オスロ=黒瀬悦成】世界に被爆の実相を伝えてきた日本原水爆被害者団体協議会(被団協)へのノーベル平和賞の授賞式が10日、ノルウェーの首都オスロで開かれた。

 10日午後1時(日本時間同9時)からオスロ市庁舎で開かれた授賞式では、被団協を代表して代表委員の田中熙巳(てるみ)さん(92)、田中重光さん(84)、箕牧智之(みまき・としゆき)さん(82)の3人が登壇し、メダルと賞状を受け取った。

10日、ノルウェーの首都オスロで、ノーベル平和賞の授賞式に臨む被団協代表委員の(左から)田中熙巳さん、田中重光さん、箕牧智之さん(共同)

10日、ノルウェーの首都オスロで、ノーベル平和賞の授賞式に臨む被団協代表委員の(左から)田中熙巳さん、田中重光さん、箕牧智之さん(共同)

 その後、田中熙巳さんが演説し、「核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いです」と述べた上で「人類が核兵器で自滅することのないように。核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう」と訴えた。

 また、ウクライナを侵略したロシアによる核威嚇などにも言及し、「市民の犠牲に加えて『核のタブー』が崩されようとしていることに限りない口惜しさと怒りを覚えます」と述べた。

 また、被爆者らの高齢化を踏まえ「これからは私たちがやってきた運動を、次の世代のみなさんが工夫して築いていくことを期待しています」と呼びかけた。

 授賞式には韓国とブラジルの在外被爆者を含む被爆者や被爆2世ら計30人が出席した。10日夜には晩餐会も催される。田中熙巳さんらは11日、ノルウェーのストーレ首相らと面会する。

 被団協への賞金は1100万スウェーデンクローナ(約1億5千万円)。

 被団協は広島、長崎への原爆投下の被害者でつくる全国組織として1956年に結成され、日本国内にとどまらず、世界各地で原爆の写真展開催や被爆者の証言活動などを展開してきた。

 日本の個人や団体への平和賞の授与は、非核三原則などを理由に1974年に受賞した佐藤栄作元首相に次いで50年ぶり2例目。海外では「核兵器なき世界」を訴えたオバマ米大統領(当時)が2009年に受賞した。17年には非政府組織(NGO)「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)が受賞している。

 元稿:産経新聞社 主要ニュース 国際 【欧州・ロシア・日本原水爆被害者団体協議会(被団協)・ノーベル平和賞】  2024年12月10日  22:05:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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《日本被団協》:「核も戦争もない世界を共に」、ノーベル平和賞受賞演説

2024-12-10 22:02:30 | 【ノーベル賞(物理学・化学・生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野...

《日本被団協》:「核も戦争もない世界を共に」、ノーベル平和賞受賞演説

『漂流する日本の羅針盤を目指して』:《日本被団協》:「核も戦争もない世界を共に」、ノーベル平和賞受賞演説

 被爆者の立場から核兵器廃絶を国内外に訴えてきた日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)へのノーベル平和賞授賞式が10日、ノルウェーのオスロ市庁舎で開かれた。日本被団協を代表して田中熙巳(てるみ)代表委員(92)が受賞演説し、「核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけない」と呼びかけた。ウクライナや中東での戦争を巡る国際情勢に触れ、「『核のタブー』が壊されようとしていることに限りない口惜しさと憤りを覚える」と警鐘を鳴らした。

<picture><source srcset="https://cdn.mainichi.jp/vol1/2024/12/10/20241210k0000m040309000p/9.webp?2" type="image/webp" />ノーベル平和賞授賞式で演説する日本被団協の田中熙巳代表委員=オスロで2024年12月10日午後1時35分、猪飼健史撮影</picture>
ノーベル平和賞授賞式で演説する日本被団協の田中熙巳代表委員=オスロで2024年12月10日午後1時35分、猪飼健史撮影

 授賞式は10日午後1時(日本時間10日午後9時)に開会。演説で田中さんは、戦争を開始した国の責任で被害者に償う「国家補償運動」と「原水爆禁止運動」を被団協の活動の2本柱として紹介し、「『核のタブー』形成に大きな役割を果たした」と強調した。

 1945年8月9日に長崎で被爆した自らの体験を紹介し、「一発の原子爆弾は私の身内5人を無残な姿に変え一挙に命を奪った」と無念の思いを語った。戦後の被爆者は「沈黙を強いられ、日本政府からも見放され、孤独と病苦と生活苦、偏見と差別に耐え続けた」と長年の苦節を振り返った。

 その上で、被団協として取り組んできた世界での被爆証言が核兵器禁止条約成立(2017年)に寄与したことを「大変大きな喜び」と表現。一方、ただちに発射できる核弾頭が世界に4000発も存在する現状を指摘し、「人類が核兵器で自滅することがないように。核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう」と演説を締めくくった。 

 ノーベル賞委員会のヨルゲン・バトネ・フリードネス委員長がスピーチし、「核兵器が二度と使われてはならないという理由を身をもって立証してきた」とたたえた。

 壇上には田中さんに加え、いずれも被団協代表委員で、長崎原爆被災者協議会会長の田中重光さん(84)、広島県原爆被害者団体協議会理事長の箕牧智之(みまきとしゆき)さん(82)も登壇。田中重光さんがメダルを、箕牧さんが賞状を受け取った。

 被団協は56年の結成以降、被爆者による唯一の全国組織として国内外で被爆体験の証言などに取り組んできた。【オスロ安徳祐】

 ◇ノーベル平和賞演説要旨

 田中熙巳(てるみ)・日本被団協代表委員(92)の演説内容の要旨は次の通り。

 【冒頭】

 1956年8月に日本被団協を結成した。生きながらえた原爆被害者は歴史上未曽有の非人道的な被害を繰り返すことがないようにと、運動してきた。 

 運動は「核タブー」の形成に大きな役割を果たしたことは間違いない。しかし、ウクライナ戦争におけるロシアによる核の威嚇、パレスチナ自治区ガザ地区にイスラエルが執拗(しつよう)な攻撃を続ける中、市民の犠牲に加えて「核のタブー」が壊されようとしていることに限りない口惜しさと憤りを覚える。

 【被爆体験】

 私は長崎で、13歳の時に爆心地から東に3キロ余り離れた自宅で被爆した。一発の原子爆弾は身内5人を無残な姿に変え命を奪った。

 そのとき目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまだった。戦争といえどもこんな殺し方、傷つけ方をしてはいけないと強く感じた。

 【過去の運動と成果】

 日本被団協は結成宣言で「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう」と表明し、「核兵器の廃絶と原爆被害に対する国の補償」を求めて立ちあがった。

 1994年12月、「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」が制定されたが死者への補償はなく、政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを続けている。

 2016年4月、日本被団協の提案で世界の原爆被害者が呼びかけた「核兵器の禁止・廃絶を求める国際署名」は大きく広がった。17年7月に122カ国の賛同を得て、「核兵器禁止条約」が制定されたことは大きな喜びだ。

 【未来への願い】

 核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いだ。

 原爆被害者の平均年齢は85歳。10年先には直接の体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれない。私たちの運動を、次の世代が工夫して築いていくことを期待している。

 核兵器禁止条約のさらなる普遍化と核兵器廃絶の国際条約の策定を目指してほしい。核兵器国とそれらの同盟国の市民の中に、核兵器は人類と共存できない、共存させてはならないという信念が根付き、自国政府の核政策を変えさせる力になるよう願っている。

 人類が核兵器で自滅することのないように。核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張ろう。

 元稿:毎日新聞社 主要ニュース 社会 【話題・日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞授賞】  2024年12月10日  22:02:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。
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《日本被団協・ノーベル平和賞受賞》:「核と人類、共存させてはならない」、田中熙巳さん演説全文

2024-12-10 22:00:30 | 【ノーベル賞(物理学・化学・生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野...

《日本被団協・ノーベル平和賞受賞》:「核と人類、共存させてはならない」、田中熙巳さん演説全文

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:《日本被団協・ノーベル平和賞受賞》:「核と人類、共存させてはならない」、田中熙巳さん演説全文

 ノーベル賞委員会が事前に公表した日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の田中熙巳(てるみ)代表委員(92)の演説の内容は次の通り。

ノーベル平和賞授賞式で演説する日本被団協の田中熙巳代表委員=オスロで2024年12月10日午後1時35分、猪飼健史撮影

                   ◇

 国王・王妃両陛下、皇太子・皇太子妃両殿下、ノルウェー・ノーベル委員会のみなさん、ご列席のみなさん、核兵器廃絶をめざしてたたかう世界の友人のみなさん、ただいまご紹介いただきました日本被団協の代表委員の一人の田中熙巳でございます。本日は受賞者「日本被団協」を代表してあいさつをする機会を頂きありがとうございます。 

 私たちは1956年8月に「原水爆被害者団体協議会」(日本被団協)を結成しました。生きながらえた原爆被害者は歴史上未曽有の非人道的な被害をふたたび繰り返すことのないようにと、二つの基本要求を掲げて運動を展開してきました。一つは、日本政府の「戦争の被害は国民が受忍しなければならない」との主張に抗(あらが)い、原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならないという運動。二つは、核兵器は極めて非人道的な殺りく兵器であり人類とは共存させてはならない、すみやかに廃絶しなければならない、という運動です。

 この運動は「核のタブー」の形成に大きな役割を果たしたことは間違いないでしょう。しかし、今日、依然として1万2000発の核弾頭が地球上に存在し、4000発が即座に発射可能に配備がされているなかで、ウクライナ戦争における核超大国のロシアによる核の威嚇、また、パレスチナ自治区ガザ地区に対しイスラエルが執拗(しつよう)な攻撃を続ける中で核兵器の使用を口にする閣僚が現れるなど、市民の犠牲に加えて「核のタブー」が崩されようとしていることに限りない口惜しさと怒りを覚えます。

<picture><source srcset="https://cdn.mainichi.jp/vol1/2024/12/10/20241210k0000m040227000p/9.webp?1" type="image/webp" />ノーベル平和賞の授賞式を前に記念撮影する日本被団協の田中熙巳さん(前列左から5人目)、箕牧智之さん(同6人目)、田中重光さん(同7人目)ら=オスロで2024年12月10日、猪飼健史撮影</picture>
ノーベル平和賞の授賞式を前に記念撮影する日本被団協の田中熙巳さん(前列左から5人目)、箕牧智之さん(同6人目)、田中重光さん(同7人目)ら=オスロで2024年12月10日、猪飼健史撮影

 私は長崎原爆の被爆者の一人です。13歳の時に爆心地から東に3キロ余り離れた自宅で被爆しました。

 1945年8月9日、爆撃機1機の爆音が突然聞こえるとまもなく、真っ白な光で体が包まれました。その光に驚愕(きょうがく)し2階から階下にかけおりました。目と耳をふさいで伏せた直後に強烈な衝撃波が通り抜けて行きました。その後の記憶はなく、気がついた時には大きなガラス戸が私の体の上に覆いかぶさっていました。ガラスが一枚も割れていなかったのは奇跡というほかありません。ほぼ無傷で助かりました。

 長崎原爆の惨状をつぶさに見たのは3日後、爆心地帯に住んでいた二人の伯母の家族の安否を尋ねて訪れた時です。わたしと母は小高い山を迂回(うかい)し、峠にたどり着き、眼下を見下ろして愕然(がくぜん)としました。3キロ余り先の港まで、黒く焼き尽くされた廃墟(はいきょ)が広がっていました。煉瓦(れんが)造りで東洋一を誇った大きな教会・浦上天主堂は崩れ落ち、みるかげもありませんでした。 

 麓(ふもと)に降りていく道筋の家はすべて焼け落ち、その周りに遺体が放置され、あるいは大けがや大やけどを負いながらもなお生きているのに、誰からの救援もなく放置されている沢山の人々。私はほとんど無感動となり、人間らしい心も閉ざし、ただひたすら目的地に向かうだけでした。

 一人の伯母は爆心地から400メートルの自宅の焼け跡に大学生の孫の遺体とともに黒焦げの姿で転がっていました。 

 もう一人の伯母の家は倒壊し、木材の山になっていました。祖父は全身大やけどで瀕死(ひんし)の状態でしゃがんでいました。伯母は大やけどを負い私たちの着く直前に亡くなっていて、私たちの手で荼毘(だび)にふしました。ほとんど無傷だった伯父は救援を求めてその場を離れていましたが、救援先で倒れ、高熱で1週間ほど苦しみ亡くなったそうです。一発の原子爆弾は私の身内5人を無残な姿に変え一挙に命を奪ったのです。

 その時目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした。誰からの手当ても受けることなく苦しんでいる人々が何十人何百人といました。たとえ戦争といえどもこんな殺し方、傷つけ方をしてはいけないと、強く感じました。

 長崎原爆は上空600メートルで爆発。放出したエネルギーの50%は衝撃波として家屋を押しつぶし、35%は熱線として屋外の人々に大やけどを負わせ、倒壊した家屋のいたるところで発火しました。多くの人が家屋に押しつぶされ焼き殺されました。残りの15%は中性子線やγ線などの放射線として人体を貫き内部から破壊し、死に至らせ、また原爆症の原因を作りました。

<picture><source srcset="https://cdn.mainichi.jp/vol1/2024/12/10/20241210k0000m040247000p/9.webp?1" type="image/webp" />ノーベル研究所を訪れ、芳名帳に記帳する日本被団協の田中熙巳代表委員=オスロで2024年12月9日、NTBロイター</picture>
ノーベル研究所を訪れ、芳名帳に記帳する日本被団協の田中熙巳代表委員=オスロで2024年12月9日、NTBロイター

 その年の末までの広島、長崎両市の死亡者の数は、広島14万人前後、長崎7万人前後とされています。原爆を被爆しけがを負い、放射線に被ばくし生存していた人は40万人あまりと推定されます。

 生き残った被爆者たちは被爆後7年間、占領軍に沈黙を強いられ、さらに日本政府からも見放され、被爆後の十年余を孤独と、病苦と生活苦、偏見と差別に耐え続けました。

 1954年3月1日のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって、日本の漁船が「死の灰」に被ばくする事件が起きました。中でも第五福竜丸の乗組員23人全員が被ばくして急性放射能症を発症、捕獲したマグロは廃棄されました。この事件が契機となって、原水爆実験禁止、原水爆反対運動が始まり、燎原(りょうげん)の火のように日本中に広がったのです。3000万を超える署名に結実し、1955年8月「原水爆禁止世界大会」が広島で開かれ、翌年第2回大会が長崎で開かれました。この運動に励まされ、大会に参加した原爆被害者によって1956年8月10日「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)」が結成されました。

 結成宣言で「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう」との決意を表明し、「核兵器の廃絶と原爆被害に対する国の補償」を求めて運動に立ち上がったのです。

 運動の結果、1957年に「原子爆弾被爆者の医療に関する法律」が制定されます。しかし、その内容は、「被爆者健康手帳」を交付し、無料で健康診断を実施するほかは、厚生大臣が原爆症と認定した疾病に限りその医療費を支給するというささやかなものでした。

 1968年「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」が制定され、数種類の手当を給付するようになりました。しかしそれは社会保障制度であって、国家補償は拒まれたままでした。 

1985年、日本被団協は「原爆被害者調査」を実施しました。この調査で、原爆被害はいのち、からだ、こころ、くらしにわたる被害であることを明らかにしました。命を奪われ、身体にも心にも傷を負い、病気があることや偏見から働くこともままならない実態がありました。この調査結果は、原爆被害者の基本要求を強く裏付けるものとなり、自分たちが体験した悲惨な苦しみを二度と、世界中の誰にも味わわせてはならないとの思いを強くしました。

<picture><source srcset="https://cdn.mainichi.jp/vol1/2024/12/10/20241210k0000m040315000p/9.webp?2" type="image/webp" />長崎市で開かれた第2回原水爆禁止世界大会=1956年8月</picture>
長崎市で開かれた第2回原水爆禁止世界大会=1956年8月

 1994年12月、2法を合体した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」が制定されましたが、何十万人という死者に対する補償は一切なく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けてきています。

 これらの法律は、長い間、国籍に関わらず海外在住の原爆被害者に対し、適応されていませんでした。日本で被爆して母国に帰った韓国の被爆者や、戦後アメリカ、ブラジル、メキシコ、カナダなどに移住した多くの被爆者は、被爆者特有の病気を抱えながら原爆被害への無理解に苦しみました。それぞれの国で結成された原爆被害者の会と私たちは連帯し、ある時は裁判で、あるときは共同行動などを通して訴え、国内とほぼ同様の援護が行われるようになりました。

 私たちは、核兵器のすみやかな廃絶を求めて、自国政府や核兵器保有国ほか諸国に要請運動を進めてきました。

 1977年国連NGOの主催で「被爆の実相と被爆者の実情」に関する国際シンポジウムが日本で開催され、原爆が人間に与える被害の実相を明らかにしました。このころ、ヨーロッパに核戦争の危機が高まり、各国で数十万人の大集会が開催され、これら集会での証言の依頼などもつづきました。

 1978年と1982年にニューヨーク国連本部で開かれた国連軍縮特別総会には、日本被団協の代表がそれぞれ40人近く参加し、総会議場での演説のほか、証言活動を展開しました。

 核兵器不拡散条約の再検討会議とその準備委員会で、日本被団協代表は発言機会を確保し、あわせて再検討会議の期間に、国連本部総会議場ロビーで原爆展を開き、大きな成果を上げました。

 2012年、NPT(核拡散防止条約)再検討会議準備委員会でノルウェー政府が「核兵器の人道的影響に関する会議」の開催を提案し、2013年から3回にわたる会議で原爆被害者の証言が重く受けとめられ「核兵器禁止条約交渉会議」に発展しました。

 2016年4月、日本被団協が提案し世界の原爆被害者が呼びかけた「核兵器の禁止・廃絶を求める国際署名」は大きく広がり、1370万を超える署名を国連に提出しました。2017年7月7日に122カ国の賛同をえて「核兵器禁止条約」が制定されたことは大きな喜びです。

 さて、核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いです。

 想像してみてください。直ちに発射できる核弾頭が4000発もあるということを。広島や長崎で起こったことの数百倍、数千倍の被害が直ちに現出することがあるということです。みなさんがいつ被害者になってもおかしくないし、加害者になるかもしれない。ですから、核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたいと思うのです。

 原爆被害者の現在の平均年齢は85歳。10年先には直接の体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれません。これからは、私たちがやってきた運動を、次の世代のみなさんが、工夫して築いていくことを期待しています。

 一つ大きな参考になるものがあります。それは、日本被団協と密接に協力して被団協運動の記録や被爆者の証言、各地の被団協の活動記録などの保存に努めてきた「NPO法人・ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」の存在です。この会は結成されてから15年近く、粘り強く活動を進めて、被爆者たちの草の根の運動、証言や各地の被爆者団体の運動の記録などをアーカイブスとして保存、管理してきました。これらを外に向かって活用する運動に大きく踏み出されることを期待します。私はこの会が行動を含んだ、実相の普及に全力を傾注する組織になってもらえるのではないかと期待しています。国内にとどまらず国際的な活動を大きく展開してくださることを強く願っています。

 世界中のみなさん、「核兵器禁止条約」のさらなる普遍化と核兵器廃絶の国際条約の策定を目指し、核兵器の非人道性を感性で受け止めることのできるような原爆体験者の証言の場を各国で開いてください。とりわけ核兵器国とそれらの同盟国の市民の中にしっかりと核兵器は人類と共存できない、共存させてはならないという信念が根付き、自国の政府の核政策を変えさせる力になるよう願っています。

 人類が核兵器で自滅することのないように!!

 核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう!!

 ⓒノーベル財団、ストックホルム、2024年

 元稿:毎日新聞社 主要ニュース 社会 【話題・日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞授賞】  2024年12月10日  22:00:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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《日本被団協》:「核のタブー形成に大きな役割」、ノーベル平和賞演説

2024-12-10 21:38:30 | 【ノーベル賞(物理学・化学・生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野...

《日本被団協》:「核のタブー形成に大きな役割」、ノーベル平和賞演説

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:《日本被団協》:「核のタブー形成に大きな役割」、ノーベル平和賞演説

 被爆者の立場から核兵器廃絶を国内外に訴えてきた日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)へのノーベル平和賞授賞式が10日、ノルウェーのオスロ市庁舎で始まった。

 日本被団協を代表し、長崎で被爆して親族5人を亡くした田中熙巳(てるみ)代表委員(92)が受賞演説に臨み、日本被団協の運動について「『核のタブー』の形成に大きな役割を果たしたことは間違いない」と述べた。

ノーベル平和賞を受賞した日本被団協の(右端から)箕牧智之さん、田中重光さん、田中煕巳さん=オスロで2024年12月10日午後1時28分、猪飼健史撮影

 そのうえで、「今日、依然として1万2000発の核弾頭が地球上に存在し、4000発が即座に発射可能に配備されている」と指摘。ロシアによるウクライナ侵攻やパレスチナ自治区ガザ地区へのイスラエルの攻撃に触れ、「市民の犠牲に加えて『核のタブー』が崩されようとしていることに限りない口惜しさと怒りを覚える」と訴えた。

 授賞式には、約30人で構成される日本被団協の代表団などが出席。代表団は、被団協役員を務める広島、長崎原爆被害者のほか、韓国やブラジルに住む被爆者らも含まれる。

 広島の箕牧智之(みまきとしゆき)さん(82)と長崎の田中重光さん(84)の代表委員2人が代表してメダルと賞状を受け取った後、田中熙巳さんが受賞演説のため登壇した。

 日本の平和賞受賞は、非核三原則を表明した佐藤栄作元首相が1974年に選ばれて以来、50年ぶり2度目。【安徳祐(オスロ)、高木香奈】

 ◆ノーベル平和賞受賞演説要旨

 田中熙巳(てるみ)・日本被団協代表委員(92)の演説内容の要旨は次の通り。

 【冒頭】

 1956年8月に日本被団協を結成した。生きながらえた原爆被害者は歴史上未曽有の非人道的な被害を繰り返すことがないようにと、運動してきた。

 運動は「核タブー」の形成に大きな役割を果たしたことは間違いない。しかし、ウクライナ戦争におけるロシアによる核の威嚇、パレスチナ自治区ガザ地区にイスラエルが執拗(しつよう)な攻撃を続ける中、市民の犠牲に加えて「核のタブー」が壊されようとしていることに限りない口惜しさと憤りを覚える。 

 【被爆体験】

 私は長崎で、13歳の時に爆心地から東に3キロ余り離れた自宅で被爆した。一発の原子爆弾は身内5人を無残な姿に変え命を奪った。

 そのとき目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまだった。戦争といえどもこんな殺し方、傷つけ方をしてはいけないと強く感じた。

 【過去の運動と成果】

 日本被団協は結成宣言で「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう」と表明し、「核兵器の廃絶と原爆被害に対する国の補償」を求めて立ちあがった。

 1994年12月、「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」が制定されたが死者への補償はなく、政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを続けている。

 2016年4月、日本被団協の提案で世界の原爆被害者が呼びかけた「核兵器の禁止・廃絶を求める国際署名」は大きく広がった。17年7月に122カ国の賛同を得て、「核兵器禁止条約」が制定されたことは大きな喜びだ。

 【未来への願い】

 核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いだ。

 原爆被害者の平均年齢は85歳。10年先には直接の体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれない。私たちの運動を、次の世代が工夫して築いていくことを期待している。

 核兵器禁止条約のさらなる普遍化と核兵器廃絶の国際条約の策定を目指してほしい。核兵器国とそれらの同盟国の市民の中に、核兵器は人類と共存できない、共存させてはならないという信念が根付き、自国政府の核政策を変えさせる力になるよう願っている。

 人類が核兵器で自滅することのないように。核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張ろう。

 元稿:毎日新聞社 主要ニュース 社会 【話題・日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞授賞】  2024年12月10日  21:38:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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