【潮流・2015.08.15】:いとし子よ
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【潮流・2015.08.15】:いとし子よ
■論説委員・東海右佐衛門直柄
山あいの細い道を上る。雲南市三刀屋の丘に、かやぶき屋根の家はあった。映画にもなった「長崎の鐘」を書いた永井隆の実家だ。
その生涯は映画ファンならずとも多くの人が知っていよう。長崎への原爆投下後、医師として不眠不休の救護に当たった。焼け跡で妻の骨とロザリオを拾い、6年後に幼い2人の子どもを残して世を去る。
天皇が永井に会ったのは49年5月27日。戦後に全国を訪れた「戦後巡幸」の一環で長崎を訪問した際のことだった。当時の朝日新聞記事などによると、永井はベッドに横たわったまま15歳の長男、9歳の長女とともに面会。「どうです病気は」と声をかけられ、永井が「おかげさまで元気でおります」と答えた。天皇は「どうか早く回復することを祈っています。著書は読みました」と語り、永井は「手の動く限り書き続けます」と応じた。永井は同年2月、「長崎の鐘」を天皇と明仁皇太子に献上していた。
永井は著書「いとし子よ」で「何というありがたいお言葉だろう。(略)あまりにももったいない次第であった」と天皇と面会した感激を記している。
日本国憲法にひときわ熱い思いを持っていたことはどこまで知られているか。読み取れるのが「いとし子よ」(アルバ文庫・サンパウロ刊)の一文である。
子どもたちに、こう語り掛ける。戦争を始めた大義はすぐに消え、戦後にようやく人々はむごい結末に気付いたのだと。そして憲法の非戦の誓いは「戦争の惨禍に目覚めたほんとうの日本人の声なのだ」。
続く言葉は今を見通していたように思える。「国際情勢次第では、日本人の中から、憲法を改めて戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ者が出ないともかぎらない」「もっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない」
死の2年前である。幼いわが子への遺言でもあったのだろう。「誠一(まこと)よ、カヤノよ、たとい最後の二人となっても、どんなののしりや暴力を受けても、きっぱりと戦争絶対反対を叫び続け、叫び通しておくれ!」とも。
故人となった2人の生きざまを見ると訴えは継がれていよう。誠一さんは時事通信の記者として世界を股に掛け、長崎で永井隆記念館長になる。「カヤノ」こと茅乃さんも父の訴えを広める活動を続けた。
終戦70年にして今、憲法9条を骨抜きにしかねない政治の動きが進んでいる。
私にも2人の「いとし子」がいる。帰宅後、静かに寝顔に見入る。この子たちが大人になる時代、戦争の惨禍を繰り返してはならない。そう思いを新たにする。
(2015年8月15日朝刊掲載)