東京新聞の記事【「9条壊すな」2800人集結 安保法制反対デモ】(http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015051302000129.html)
「「戦争させない」「九条壊すな」とプラカードを掲げて声を上げ、集会後は銀座周辺をデモ行進・・・・・・ルポライターの鎌田慧さんは「愚かな戦争を二度としないよう、戦後七十年、憲法を守り抜いてきた・・・・・・」とあいさつ」。
何度も引用します。城山三郎さん曰く、「日本は先の戦争で、ほとんどすべてを失ってしまった。唯一、得られたのは、憲法九条だけだ」。
『●『城山三郎の昭和』読了(2/3)』
「『大義の末』を書いた城山さんの「強い反戦意識」。
「・・・・・・ 戦争待望論を唱える若い文士がいると聞いて、
鳥肌の立つ思いがする。平和の有難さは失ってみないと
わからない ・・・・・・ 失ってからでは、おそすぎるというのに」」
『●『佐高信の新・筆頭両断』読了(1/2)』
「城山さんは、「・・・言論の自由のない当時の時代や社会、
そして国が強制したのだと強調・・・「九条をね。
とんでもないことだね。だって、日本が負けて得たものは
あれしかない、『戦争をしない』ということしかないんだから」」、
「言論統制が一度始まれば、とめどなく拡大・・・『美化』と
いう形での情報汚染」」
『●「袴田事件の次は狭山事件だ」
『週刊金曜日』(2014年5月23日、992号)』
「【佐高信の新・政経外科第2回/追悼 渡辺淳一様】、
「城山三郎さん・・・「・・・を語る時、勲章拒否と
現行憲法擁護の二点だけは外してほしくない・・・
『戦争で得たものは憲法だけ』と口癖のように・・・
まさに城山さんの遺言というべきでしょう」」。
(http://blog.goo.ne.jp/activated-sludge/e/38fef8e43cb96129b5209ba4f5be0214)」
『●「人道なんてなかった」頃の「戦争できる国」の現実』
「靖国神社にある遊就館の片隅に奇妙な像がある。
潜水服姿で頭には大きなかぶと。両手で長い棒を持ち、
身構えている。先端に付けられているのは機雷である
▼・・・本土決戦を水際で食い止める「人間機雷」の存在は
ほとんど知られていないのだから▼・・・竹ざおの先の機雷を
突き上げて自爆する。「伏龍」と名付けられた
水際特攻隊である▼・・・潜水具には構造的な欠陥があり、
多くの若者が訓練中の事故で命を失った▼当時の
戦争指導者の愚劣さが凝縮されている人間機雷を
考えたのは、参謀として真珠湾攻撃の作戦を
立案した人物だ。・・・▼戦争が長引けば伏龍の要員に
なるはずだった人物に城山三郎さんがいる。
特攻を命じた側に常に厳しい視線を向けた作家の原点
だろう。「日本が戦争で得たのは憲法だけだ」。
城山さんの言葉が重く響く。」
『●城山三郎さんと反戦』
「▼城山さんは「日本は先の戦争で、ほとんどすべてを失ってしまった。
唯一、得られたのは、憲法九条だけだ」と語っていた。戦争体験と憲法が
強く結びついた世代は減っている。憲法への思い入れの少ない若い世代に
城山さんの言葉はどう伝わるのだろうか▼あの戦争で新聞は「旗」を振り、
国民を熱狂させ国を破滅に導いた」
愚かな戦争行為など、御免だ。「人殺し」をさせてはいけない。しかも、それがアベ様ら自己愛バリバリの「死の商人」・「真の意味での非国民」・「ニセ右翼・似非ウヨク」に命じられたのではたまらない。
『●戦争、環境破壊の最たるもの』
「二十世紀の初めごろ、デンマークの陸軍大将が、こんな法律があれば、
戦争をなくせると考えて起草した法案がある。題して
「戦争絶滅受合(うけあい)法案」▼戦争の開始から十時間以内に、
敵の砲火が飛ぶ最前線に一兵卒を送り込む。順序はまず国家元首、
次にその親族の男性、三番目は総理、国務大臣、各省の次官、
そして国会議員(戦争に反対した議員を除く)、戦争に反対しなかった
宗教界の指導者…▼妻や娘は従軍看護師として招集し、最前線の
野戦病院で働く。権力を持つ者から犠牲になるなら、自らは
安全地帯にいてナショナリズムをあおる政治家は姿を消すだろう」
=====================================================
【http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015051302000129.html】
「9条壊すな」2800人集結 安保法制反対デモ
2015年5月13日 朝刊
(安全保障法制に反対する集会で「戦争させない」の
プラカードを掲げる参加者=12日夜、東京都千代田区の
日比谷野外音楽堂で)
集団的自衛権を行使できるようにする新しい安全保障法制への反対集会が十二日、東京・日比谷野外音楽堂で開かれた。参加者約二千八百人(主催者発表)が「戦争させない」「九条壊すな」とプラカードを掲げて声を上げ、集会後は銀座周辺をデモ行進した。
主催したのは、憲法学者や作家らが呼び掛け人の「戦争をさせない1000人委員会」、「解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会」など三つの市民団体。
著名人や野党の国会議員らが壇上で次々とスピーチし、ルポライターの鎌田慧さんは「愚かな戦争を二度としないよう、戦後七十年、憲法を守り抜いてきた。平和な日本を残すため、最後まで頑張り抜こう」とあいさつ。埼玉大名誉教授の暉峻淑子(てるおかいつこ)さんは「心の底から戦争に反対する強い自分の考えを持つことが大事だ」と訴えた。
また日本弁護士連合会の憲法問題対策本部長代行、山岸良太さんは「人と人が殺し合う戦争は、最大の人権侵害だ」と述べた。
客席は高齢者や若者、労働組合のメンバーらさまざまな参加者で埋まった。東京都小金井市の野村昌弘さん(68)は「議論が不十分なまま、安倍政権が重大な法案を通そうとしている。今、声を上げないと」と話した。
=====================================================
東京新聞の二つの記事、【人道なんてなかった 沖縄戦を経験 伊禮進順さん(87)】(http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013081602000116.html)とコラム【筆洗】(http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2013081702000119.html)。
いまも差別され続ける沖縄。
『●子供にもSLAPPする国: 三上智恵監督・映画『標的の村 ~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~』』
『●SLAPPと原発、沖縄』
「戦争できる国」の頃の沖縄では、こんなことが起こっていた。いま、この国は再び「戦争できる国」へまっしぐら。それが「誇り」だなんて、一体脳味噌の中身はどうなっているのか?
『●「不安と闘いながら世界に理念を示し続けたこの国に生まれたことを僕は何よりも誇りに思う」』
是非、 「戦争絶滅受合法案」の成立が望まれる。
『●戦争、環境破壊の最たるもの』
「二十世紀の初めごろ、デンマークの陸軍大将が、こんな法律があれば、
戦争をなくせると考えて起草した法案がある。題して
「戦争絶滅受合(うけあい)法案」▼戦争の開始から十時間以内に、
敵の砲火が飛ぶ最前線に一兵卒を送り込む。順序はまず国家元首、
次にその親族の男性、三番目は総理、国務大臣、各省の次官、
そして国会議員(戦争に反対した議員を除く)、戦争に反対しなかった
宗教界の指導者…▼妻や娘は従軍看護師として招集し、最前線の
野戦病院で働く。権力を持つ者から犠牲になるなら、自らは
安全地帯にいてナショナリズムをあおる政治家は姿を消すだろう」
終始、反戦を訴え続けた城山三郎さん。「日本が戦争で得たのは憲法だけだ」。
『●城山三郎さんと反戦』
================================================================================
【http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013081602000116.html】
人道なんてなかった 沖縄戦を経験 伊禮進順さん(87)
2013年8月16日 朝刊
六十八年前に米軍が上陸した沖縄県嘉手納(かでな)町の海辺に、若者たちの声が響く。日米の多くの兵士や住民の命を奪った沖縄戦の影はない。にぎやかな笑い声を背に、砂浜を立ち去ろうとした時、ごう音をとどろかせ、米軍機が真っ青な空を切り裂いた。
一九四五(昭和二十)年五月十日ごろ、一等兵だった伊禮進順(いれいしんじゅん)さん(87)=糸満市=の所属する小隊は、西原町と与那原(よなばる)町の境界にある運玉森(うんたまむい)の丘に陣をはり、約二十メートルの距離で米軍と向かい合っていた。
「陣地の死守が使命で、後退など考えもしなかった」。次々と手りゅう弾が投げ込まれ、近くで負傷兵がのたうち回る。着弾から爆発まで数秒。ひたすら、手りゅう弾を投げ返した。気づくと五十人の小隊は二人になっていた。
伊禮さんは那覇市立商業学校(現県立那覇商業高)を卒業後、建設会社に就職。四四年十月に十九歳で徴兵された。半年後に沖縄本島に上陸した米軍は日本軍最後の防衛拠点だった運玉森を制圧し、首里(現那覇市)へと侵攻した。
■ ■
味方である日本人同士でも、強者が弱者を切り捨てた。「毎日が死と隣り合わせ。人道なんてなかった」
四五年六月半ば、日本軍の拠点があった与座(現糸満市)の洞窟(壕(ごう))に上官の声が響いた。「負傷兵は戦闘の邪魔だ。ここから出て行け」。米軍は近くに迫っている。「死ねということか」。戦闘で足を負傷し、歩けなかった伊禮さんは、その夜、はって壕を出た。
米軍の照明弾が一帯を照らし、銃弾が飛び交う。一晩かけたどり着いた野戦病院の壕では、死んだ兵士にウジが群がっていた。飲料水は岩にたまった雨水だけ。水面もウジが覆っている。「味やにおいの記憶はない。飲まないと死んでしまう。生きるためには何でもできた」
■ ■
やがて、この壕も米軍に見つかる。足のけがも癒えていた伊禮さんは女性や少年ら住民四人を含む九人で、南の壕を目指した。山中で身を隠していたとき、この四人の住民が米軍車両に驚き、離れた場所から駆け寄ってきた。「この連中といては、いつか米軍に見つかり、殺される」。伊禮さんら五人の兵は住民を見捨てることにした。軍刀で脅し「ついてきたらたたき切る」と怒鳴った。自分を見捨てた上官と同じことをしていた。四人は何も言わなかった。
四人のその後は知らない。伊禮さんは九月十四日、米軍に投降した。「『おまえは人間じゃない』と言われるかもしれないが、仕方なかった。人間って、こんなもんです。自分が助かるためには、恥も何もなかった」。安易な同感など寄せ付けないとでも言うような厳しい口調に、私はしばらく次の言葉を出せなかった。
■ ■
戦後、県職員となった伊禮さんは五人の子に恵まれた。七月半ば、戦時中に身を隠した壕を一緒に訪れた。足がすくんだ。「鼻を突くような死臭がよみがえってくる」と話す伊禮さんの額には汗が浮かぶ。沖縄の空気は開放的で明るいが、集落の片隅に残る壕や米軍機は、島の過去を私に突きつける。
「沖縄は戦争でも、基地問題でも犠牲を強いられている。六十八年間、何も変わってない」。七月の参院選で改憲を掲げる自民党が圧勝した。「戦争ができる国になってしまうかどうかは、あなたたちにかかってるんですよ」。憲法九条を後世に引き継ぐ使命を託されたと思った。
<沖縄戦> 米軍は3月26日に慶良間諸島、4月1日に沖縄本島西海岸に上陸し、日本軍との間で、住民を巻き込んだ地上戦を繰り広げた。日本軍は本土決戦を遅らせるための持久作戦をとったが、6月下旬には壊滅状態となり組織的な戦闘は終結。住民の集団自決などの悲劇も生まれた。沖縄戦の正式な降伏文書が交わされたのは9月7日。米兵を含む戦没者数は20万人以上に上り、うち沖縄県民は半数の約10万人だった(県推計)。
================================================================================
================================================================================
【http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2013081702000119.html】
【コラム】
筆洗
2013年8月17日
靖国神社にある遊就館の片隅に奇妙な像がある。潜水服姿で頭には大きなかぶと。両手で長い棒を持ち、身構えている。先端に付けられているのは機雷である▼八月十五日の遊就館は見学者であふれていたが、この像をあまり気に留める人はいない。それはそうだろう。本土決戦を水際で食い止める「人間機雷」の存在はほとんど知られていないのだから▼敗戦直前に横須賀や呉などで部隊が編成され、三千人近くの若者が潜水訓練を受けた。上陸する米軍の舟艇を水中で待ち構え、竹ざおの先の機雷を突き上げて自爆する。「伏龍」と名付けられた水際特攻隊である▼空を飛ぶ夢を失った予科練の少年兵たちは、ひたすら死に向かう訓練に明け暮れた。本土決戦が回避されたために実戦には至らなかったが、潜水具には構造的な欠陥があり、多くの若者が訓練中の事故で命を失った▼当時の戦争指導者の愚劣さが凝縮されている人間機雷を考えたのは、参謀として真珠湾攻撃の作戦を立案した人物だ。自らを犠牲にして祖国を守ろうとした少年たちの命をここまで軽く扱うのか。以前、取材した時に心底、怒りがわいた▼戦争が長引けば伏龍の要員になるはずだった人物に城山三郎さんがいる。特攻を命じた側に常に厳しい視線を向けた作家の原点だろう。「日本が戦争で得たのは憲法だけだ」。城山さんの言葉が重く響く。
================================================================================