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Sixteen Tones

音律と音階・ヴァイブ・ジャズ・ガラス絵・ミステリ.....

昭和日本の音楽教育体験

2019-06-27 08:52:38 | 新音律
「平成日本の音楽の教科書」で,自分が受けた音楽教育を思い出した.
多度津町立資料館「2007年企画展戦争資料展」のページにあったのがトップの教科書.昭和22年度および23年度の2年間のみに用いられた最後の国定教科書で,通称「よいこ読本」と呼ばれる.緑と黒の2色刷りだが,赤が退色した結果かもしれない.ひらがなから教えたのもこの教科書から.印刷部数は生徒数に足りず,2年生からのお下がりを使った.
昭和24年度からは現行の検定教科書となった.その前は「墨塗り教科書」を使った.
この歌詞には右のメロディが付いていた. (出典 http://bunbun.boo.jp/okera/w_shouka/s_sengo/se1_minna_iiko.htm) いまでもソラで歌える.

この歌を別とすれば,小学校の音楽の授業については脈略のない断片的な記憶があるだけである.音楽は低学年では担任がごまかした...というより,ほとんどやらなかった.そもそも教室不足の2部授業だった (例えば同じ教室を午前中は1年生・午後は2年生が使った) .中学年以上では校舎が整備され,音楽は音楽室で,女の先生に教わるようになった.そこにベートーベンたちの肖像画があったかどうか,記憶にない.学校で教わる歌は良い歌で,ラジオから流れるのは悪い歌とされた.しかし後年親から聞いたところでは,自分が最初に覚えたのは「赤い花なら曼珠沙華...」だったらしい.調べたら昭和13年の歌だが,戦後も盛んにラジオから流れていたのだろう.

中学では歌う他に楽典を学習した.都立高校入試の筆記試験は英・数・国・社・理・音楽・図工・職業家庭・体育の9科目,100点ずつの900点満点であった.ただし英語・数学と同じように音楽を「勉強した」という認識はない.学芸会を除き,音楽の時間に器楽を演奏したことはなかった.楽器が生徒に行き渡らなかったのだろう.
楽典は全く無味乾燥な暗記ものであった.この恨みが数十年後「音律と音階の科学」という本になった.
おんなの先生は家庭科と音楽だけで,家庭科はおばさんだったが,音楽は若くて,国語の先生と噂があった,授業中突然先生が泣き出して,ぼくたちはあっけにとられたことがある...というようなことは思い出すくせに,お顔は覚えていない.

高校では音楽を専攻しなかった.
大学に行ってから,ギターをいじったりしたが,中学時代の知識が役に立った.

現在もその傾向はあるが,戦後のクラシックのシーンは大衆音楽と遊離していて,音大を卒業した女性の大部分はピアノの先生になったらしい.大衆商業音楽を支えたのは,主として音楽には素人の不良少年とその成れの果ての皆さんだったと思う.

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