DVD観ました。
藤原竜也×鈴木杏『ロミオとジュリエット』。
シェイクスピアがこの作品を世に送り出してから、
どれだけの数の舞台があったろう?
どれだけの数の人々が演じただろう?
バレエでも多くの振り付けが存在し、オペラもあり、
世界中で、それはそれはもう・・・
天文学的数字になるんじゃなかろうか?
それでも演じ続けられるのはなぜなんだろう。。
「今時、何も死ななくたってどうにかなるでしょ?」と、
リアリティの無いおとぎ話と思う人も多いんじゃないだろうか。
だけどいつも一つ、この物語に接するときに思い出すことがある。
それは“サラエボのロミオとジュリエット”と言われた、
ユーゴスラビア紛争でのエピソード。
一組の恋人たちが、川の土手にもう4日も横たわっている。
死んでいるのだ、固く抱き合ったまま。
包囲されたサラエボから脱出を試みて撃たれたのである。
ともに25歳、高校のときからの恋人だった。
が、彼はセルビア人、彼女はモスレム人。
互いに殺し合う双方に、それぞれ属していた。
「彼は即死した。彼女はしばらく生きていた。這って行って彼を抱き寄せ、
あんなふうに腕を組んで死んだ」。
目撃した兵士は語った。
紛争が始まるまでは仲の良い隣人だった。
だけど、紛争が始まって互いに目を合わせることすら許されなくなった。
互いの親や友人たちはなんとか2人を逃がそうと、裏のルートを使って、
ゲリラや兵士たちに話をつけたはずだった。
が、どういう行き違いか、 2人は撃たれた。
埋葬してやりたくても誰も近づくことができなくて、更に4日遺体は横たわったままだった。
ユーゴ紛争は90年代のこと。だからこれは、ほんの10数年前の事実。
・・そういうことにも思いを馳せつつ、キャストを見ただけでワクワクするこの2人のロミジュリは
はまり過ぎるほどはまっていて、瑞々しく可愛らしく激しい。
つくづく、テレビには収まりきらない捉えきれないスケールの役者なんだなと思う。2人とも。
私が本として読んだのはたしか、明治の文豪大先生の、行儀の良い翻訳だったけど、
このお芝居は松岡和子版の脚本。
松岡さんは河合隼雄さんと、『快読シェイクスピア』という対談本が出ている。
松岡さんの訳は、シェイクスピアの駄洒落も卑猥なセリフもまるごとそのまま。笑
それがより、主役2人の疾走する純粋さと対比を見せるのだ。
1幕が喜びと無邪気と純粋に貫かれていればいるほど、2幕の悲しみが増す。。。
さいごは、河合隼雄先生の言葉で〆させていただきます。
「・・・ この物語で実に衝撃的なことは、ジュリエットが14歳だという事実である。
今、思春期の少年の問題がにわかにクローズアップされているようだが、
14歳の恐ろしさは、実のところ、シェイクスピアの時代から変わっていないともいえるのだ。
人間の思春期というものがどれほど恐ろしいものであり、
自分もそれを経験したはずでありながら、大人たちがそのことに関していかに鈍感であるかを、
シェイクスピアの天才は美事に、舞台の上に現前させる。
・・・ 中略 ・・・
…しかし、そのような親の愛によって、歓びを殺すことになるのだ。
両親は子どもたちが本当に欲することや彼らの意志を生かすこと、
そのためには耐え難い和解も辞さないこと、という点にはしっかりと封印をして、
実は子どもたちを結果的に不幸に追い込むことにのみ、「愛」を傾ける。
これは彼らの幸福のために知恵を絞った僧ロレンスについても同じではないか。
親だけではない、教育者、宗教家、心理療法家など、人助けしたがる大人たちは、
自分の愛によって他人の歓びを殺していないかを反省する必要がある。
芝居を観ながら、14歳の魂の叫びが自分の胸を貫くように感じつづけていた」
(1998年中央公論)
*

藤原竜也×鈴木杏『ロミオとジュリエット』。
シェイクスピアがこの作品を世に送り出してから、
どれだけの数の舞台があったろう?
どれだけの数の人々が演じただろう?
バレエでも多くの振り付けが存在し、オペラもあり、
世界中で、それはそれはもう・・・
天文学的数字になるんじゃなかろうか?
それでも演じ続けられるのはなぜなんだろう。。
「今時、何も死ななくたってどうにかなるでしょ?」と、
リアリティの無いおとぎ話と思う人も多いんじゃないだろうか。
だけどいつも一つ、この物語に接するときに思い出すことがある。
それは“サラエボのロミオとジュリエット”と言われた、
ユーゴスラビア紛争でのエピソード。
一組の恋人たちが、川の土手にもう4日も横たわっている。
死んでいるのだ、固く抱き合ったまま。
包囲されたサラエボから脱出を試みて撃たれたのである。
ともに25歳、高校のときからの恋人だった。
が、彼はセルビア人、彼女はモスレム人。
互いに殺し合う双方に、それぞれ属していた。
「彼は即死した。彼女はしばらく生きていた。這って行って彼を抱き寄せ、
あんなふうに腕を組んで死んだ」。
目撃した兵士は語った。
紛争が始まるまでは仲の良い隣人だった。
だけど、紛争が始まって互いに目を合わせることすら許されなくなった。
互いの親や友人たちはなんとか2人を逃がそうと、裏のルートを使って、
ゲリラや兵士たちに話をつけたはずだった。
が、どういう行き違いか、 2人は撃たれた。
埋葬してやりたくても誰も近づくことができなくて、更に4日遺体は横たわったままだった。
ユーゴ紛争は90年代のこと。だからこれは、ほんの10数年前の事実。
・・そういうことにも思いを馳せつつ、キャストを見ただけでワクワクするこの2人のロミジュリは
はまり過ぎるほどはまっていて、瑞々しく可愛らしく激しい。
つくづく、テレビには収まりきらない捉えきれないスケールの役者なんだなと思う。2人とも。
私が本として読んだのはたしか、明治の文豪大先生の、行儀の良い翻訳だったけど、
このお芝居は松岡和子版の脚本。
松岡さんは河合隼雄さんと、『快読シェイクスピア』という対談本が出ている。
松岡さんの訳は、シェイクスピアの駄洒落も卑猥なセリフもまるごとそのまま。笑
それがより、主役2人の疾走する純粋さと対比を見せるのだ。
1幕が喜びと無邪気と純粋に貫かれていればいるほど、2幕の悲しみが増す。。。
さいごは、河合隼雄先生の言葉で〆させていただきます。
「・・・ この物語で実に衝撃的なことは、ジュリエットが14歳だという事実である。
今、思春期の少年の問題がにわかにクローズアップされているようだが、
14歳の恐ろしさは、実のところ、シェイクスピアの時代から変わっていないともいえるのだ。
人間の思春期というものがどれほど恐ろしいものであり、
自分もそれを経験したはずでありながら、大人たちがそのことに関していかに鈍感であるかを、
シェイクスピアの天才は美事に、舞台の上に現前させる。
・・・ 中略 ・・・
…しかし、そのような親の愛によって、歓びを殺すことになるのだ。
両親は子どもたちが本当に欲することや彼らの意志を生かすこと、
そのためには耐え難い和解も辞さないこと、という点にはしっかりと封印をして、
実は子どもたちを結果的に不幸に追い込むことにのみ、「愛」を傾ける。
これは彼らの幸福のために知恵を絞った僧ロレンスについても同じではないか。
親だけではない、教育者、宗教家、心理療法家など、人助けしたがる大人たちは、
自分の愛によって他人の歓びを殺していないかを反省する必要がある。
芝居を観ながら、14歳の魂の叫びが自分の胸を貫くように感じつづけていた」
(1998年中央公論)
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