NOTEBOOK

なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

チョコレート工場の秘密

2010-05-08 | 休み
どうもCG使い出してからのティム・バートンには『シザーハンズ』や『オイスターボーイ』の頃の魅力が減じてしまっていると思えて興味が無い。いや、前向きになったのか。『チャーリーとチョコレート工場』も観てない。ティム・バートンもそうだけどテリー・ギリアムとかもCG以前に映像的な評価が高かった監督がCG時代になった途端、普通になってしまうのって残念だな。今の時代に単純な合成や光合成でイマジネーションを表現したらどうなるんだろう。その点、デビッド・リンチはCGを使わないのか、使えないのか、今でもあんまり変わらない。


チョコレート工場の秘密


今見ると美術セットや合成とかはちゃっちい。たぶん当時でもちゃっちかったんじゃないだろうか。工場内に流れるチョコレートの川なんて贔屓目に見ても、泥水であってチョコレートには見えない。でもあれはチョコレートが流れる夢の川以外の何ものでもなく、ドイツ人の食い意地の張った子供でなくとも手酌で飲まずには居られない。まぁ虫歯が恐ろしくて仕方の無いぼくからすると躊躇せざるを得ないんですが。

ちゃちさが苦じゃなく、楽しい。チョコレートに見えないチョコレートの川や全て食べられるもので作られているはずなのに食べてるとこだけ食べれるもの。空飛ぶサイダーを飲んでも、浮いたチャーリーとジョーおじいさんの背中にははっきりくっきりワイヤーが映っている。ウォンカが止めるのも聴かずにフルコース味のガムを食べた少女の顔が青くなって、ブルーベリーになってしまうシーンもざっくりとした光合成。

リアリティの水準は現実に即しているのに、少しずつ変で少しずつかわいい。チャーリーの家は母子家庭で両方の祖父母と同居。ただ両方の祖父母とも寝たきりで、1つのベットに4人で寝ている。だから家は貧しくチャーリーは新聞配達のバイトをしてる。妙なリアリティ。とは言え、ウォンカチョコは世界中で大人気のチョコだし、大人も子供も狂ったように金のチケットを探している。ちゃんとおとぎ噺であることが分かる。

貧しい家庭を支えるチャーリーとその他の子供たち。食い意地の張ったドイツ人。チョコレートよりガムが大好きで3ヶ月ガムをかみ続けている少女。父親の会社の社員にチョコレートを何十万個も開封させ続ける我侭な少女。テレビ狂いの少年。チャーリー以外は変で嫌な子供たち。そこにはおとぎ噺的な道徳的寓話のような訓話があり、だからエンディングはおとぎ噺お決まりの落ちに落ちる。これはファンタジーじゃない。


ディズニーがあの当時に作っていたら、大傑作になっていたような気もするが、このくらいのチープさでも良いような気がする。チョコレート工場に行ってからより、前半のチャーリーが金のチケットを手に入れるまでのくだりが好き。学校の描写とか面白い。60年代、70年代の映画ってどうしてこんなに良い雰囲気なんだろう。

メタルギアソリッド ピースウォーカー

2010-05-06 | 休み
『メタルギアソリッド ピースウォーカー』(コナミ公式)
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長いことテレビゲームをやってきたが、ゲーム中に「日本国憲法第9条」という単語が出てくるゲームを初めて見た。しかも条文を空で言うシーンまで出てくる。イデオロギーが強すぎ、そのイデオロギーの語り方が非常に直接的で、説明的なので非常に引っ掛かりを覚える。憲法や防衛の概念に向き合うことは良いことだと思うが、幼稚なストーリーテリングでは脊椎反射的な拒絶や反感をある種の人々に抱かせかねない。またゲーム情報ブログで指摘されたキャラクターのラストネームに小島監督を神と称える名前にする小ネタには、冗談であろうが正直ドン引きだ。

シナリオに期待しすぎていたこともあり、本筋のシナリオにはがっかり感が満載。「CIAとKGBのによる核抑止の実践、核発射」が主立ったプロットだけど、ただそもそもの疑問として、必要悪として相互核武装による戦争の抑止を説いておきながら、CIA、KGBともに明らかに悪意として描いている。必要悪であるからこそ、その動因は悪意ではなく善意からの行動であるべきじゃないのか。善意だからこそ核武装をするのだから。これじゃそこら辺に落ちているアクション映画のテロリストと何も変わりが無い。エマニュエル・カントの引用も空々しい。

付け加えるとCIAのコールドマン(冷戦?)というキャラクターはパス(平和を意味する名)という少女を陵辱したという設定まで物語上にある。これではただの悪人。アメリカが平和を蹂躙しているとでも言いたいのか。それもシナリオ的にはこの設定は全く意味が無い。いやコールドマンが悪人であるということを端的に示すためなのかもしれない。声優は悪役が多い麦人だし。折角、核抑止というテーマであるにもかかわらず、抑止にかこつけた悪人の暴走話に陥ってしまっているのは非常に残念だと思う。

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NTP再検討会議など核抑止力というテーマ設定は奇跡的に抜群の時代性があるのに、それが単なる勧善懲悪に落ちてしまっているのは本当に残念。エンターテイメントだから”敵”は必要なのはわかるけれど、ここまで面白い設定を生み出したのなら、もう少し何とかならなかったのだろうか。少なくともCIAのコールドマンが非常な悪人ではなく冷徹な役人であれば同じプロットでもかなり印象が異なったと思う。悪役は中南米の共産化をもくろむKGBだけにアウトソーシングしても良かったのでは?とも思う。

CIAとKGBが核をAI兵器に判断させ撃たせる前提、「人間は冷徹になりきれず、核の発射ボタンを押すことが出来ない。それでは抑止になりえない。なので人工知能が核発射を担うべき」というのも物語中でも実際そういった危機に瀕した際、アメリカ政府高官はあっけなく核発射を決めてしまった。否定されるほど弱すぎる前提だった。そもそもの前提自体誰もが疑問に思うほどかなり脆弱な前提だった。誰も核を他国が撃たないなんて思っていない。だからこその抑止力だろうに。やはりコールドマンは単なる狂人でしかない。

またこの物語の中心である核兵器、ピースウォーカーの最期がテレビ版『攻殻機動隊』のタチコマをオーバーラップさせる。というか歌を唄う機械という設定がそもそもタチコマを髣髴とさせる。そしてその最期は正にタチコマ。もっと言ってしまえば、機械が持つはずの無い非論理的な”心”を持つというのもそのものズバリ。AIと心の問題はSFによくあるネタなので特段目新しくも無い。今作のストレンジラブ博士など映画やドラマやアニメなどから引用をしているシリーズだけど今回は微妙。『3』のエンディングはあれで落ちてただろうと。

(追記)
第5章、真のエンディングをクリアしてみたけれど…もっとぐちゃぐちゃの意味不明に…水樹奈々の歌は絶望的に世界観に合わない…ポリゴンモデルの芝居が増えたのは良かった。。。アウターへブン設立のくだりはっ良かったのになぁ。ラストのスネークの演説とか。

2D手書きタッチによるスクリプトを多用した多くのデモシーンはUMDメディアの容量からすれば仕方の無いことかもしれない。デモシーン自体もそれ自体の出来も良く、QTEを導入することでムービーを見るだけにならないように非常に工夫されていて完成度は高い。高いのだけれど、しかしながらMGSはやはりリアルタイムポリゴンデモシーンで見たかったというのが正直な感想。面白そうなシーンはいっぱいあるのにもったいない。稀なポリゴンデモを見る限り、モデリングは良いものの顔の芝居は無理のよう。

mgspw
※60年代、70年代の機械を再現したセンスはさすが。けれどAI兵器のオーバーテクノロジーなデザインは非常に残念。


ただ、ただ、ただ。シナリオの駄目さ、内輪乗りの酷さ、デモシーンの物足りなさを差し引いてもゲーム部分はとてつもなく面白い。3種類から選べる操作方法。個人的にはシュータータイプを使用しているが、携帯機にしては家庭用2スティックFPSと遜色無いゲームプレイが出来る。もちろん操作性はキビキビ動き、すこぶる良い。プレイヤーキャラクターも敵もふんだんにモーションが用意されていて、基本的なプレイ自体がとても面白い。ゲーム的な嘘も多いがそれが面白さに繋がっている。

ゲームシステムはこれまでのストーリー制から、ストーリーを追いながら細かなミッションをこなしていくストーリー制を基盤としたミッション制にシステムを変更したことで、格段にプレイしやすくなっている。『モンスターハンター』(『モンハン』)を強く意識したものだろうが、『モンハン』の良い点でもあり悪い点でも有り得る物語の欠如という点を見事に克服している。またメインミッション以外にエクストラミッションまで用意されているので、ボリュームの点でも文句無し。しかもミッションの種類も豊富で多種多様だ。

今作は過去のシリーズと異なり主人公、スネークは組織のボスという設定が加わりマザーベースという組織の拠点が用意されている。このマザーベースには戦闘員の武器の研究開発などさまざまな業務を運営する簡易的なシミュレーションゲームになっている。この業務を担う人員を確保するには、ミッション中に敵兵士を殺さずに生け捕りにしなければいけない。マザーベースでの様々な業務を上手く運営すれば強力な武器が入手できるなどメリットがあるため、これまでのシリーズ以上に敵兵を殺さずにゲームを進める動因が生まれている。



『MGS』シリーズらしくボス戦はいちいち固く難しい。いつ終わるのか分からないほど長いなどシリーズ固有の不満はやはりある。それでもスニーキングと戦闘のバランスが絶妙で、上級者でも初心者でもそれぞれにあったプレイスタイルで楽しむことが出来る。緊張感漂うスニーキング、手に汗握る巨大ボスとのバトルなど「これがPSPのソフトか!?」と疑いたくなるほどゴージャスなゲームプレイが楽しすぎる。個人的にはシナリオ以外はシリーズ過去最高にプレイしやすく、一番スニーキングアクションが楽しかった。サブミッションの多さは初めからインテグラルやサブシスタンス、サブスタンスなどの完全版が初めから入っているようなお得さ。どうせ『PW』もそういった完全版が出るだろうが、それでも今『PW』をプレイする価値は十分にある。

アニー・ホール

2010-05-02 | 休み
『(500)日のサマー』(以下『サマー』)が見たかったけれど、渋谷まで行くのも面倒だ。そもそももうすでに公開も終わっている。かといってDVDもまだ出ていないので、似ていると評判のウディ・アレンの『アニー・ホール』(以下『アニー』)を観る。7月まで待てるか!


アニー・ホール


要は一組のカップル(ウディ・アレンとダイアン・キートン)の出会いから別れまでを描いた映画。そこに運命の出会いも不治の病も死別も劇的な別れも無い。友人の紹介で会うべくしてであった出会った男女が好きあって、互いに欠かせない存在になり些細なことが幸せなこととして描写される。そして皆が経験するように次第にその関係性の熱は冷め、あれだけ好きあっていたのに一緒に居ることが苦痛になり分かれてしまう。

『サマー』のラストを妹から聞いてしまったので、『アニー』と『サマー』をやはり比べて考えてしまう。こういった大まかなプロットは『アニー』と『サマー』はよく似ている。『サマー』も、予告編を見る限り、映像的にもアニメを挿入したりとシュールな演出をしていて、同様にアニメを挿入したり、過去の現場に現在の人物が存在するというメタ的でシュールな演出をしていた『アニー』はよく似ているのかもしれない。

けれでも決定的に違うの運命というキーワード。『サマー』の主人公の男の子はいつか運命の人と出会えると信じて疑わないが、彼が運命の女の子だと思ったサマーは運命の相手だなんて信じていない。500日の付き合いの後、二人は分かれてしまうが、後に主人公がサマーに再会した際、サマーは結婚していた。そしてサマーは運命の人に出会ったのだと、だからその運命の男の子と結婚したのだと主人公に告げる。

対して、『アニー』における二人は非常に現実的。分かれた数年後、再会した二人にはそれぞれにパートナーが居るがウディ・アレンはダイアン・キートンへの未練を覚えてしまった。今一度やり直せないかと彼女に迫るが無碍なく断られてしまう。過去の恋愛を引きずる女々しさという点では『サマー』の主人公も『アニー』のウディ・アレンも変わらない。でも『サマー』の主人公は、そしてサマーまでも実は運命論者だった。


運命論ってとってもロマンチックなようでいて、実際にはとっても個人的で、グロテスクな独善のような気がする。見方によってはとっても気持ちの悪い考え方だなぁと思う。逃避だったり、自己満足でしかなかったりするし。そう感じるのは、そういった安っぽい運命論がはびこってるからだろうけど。その点で言うと、誰もが共感できて納得できる”っぽさ”が『アニー』はとっても心地良い。『サマー』は面白く見せているのかもしれないけど。まぁ『サマー』にいたってはあらすじを聞いただけであった観てい無いので早く観たい。


中身以外ではカポーティーやマクルーハン、ポール・サイモンなんかの著名人が出演しているのがお得。俳優のカメオ出演じゃなくて作家や学者というのがなんとも。カポーティーはともかくマクルーハンなんて本でしか見たこと無いよ。そういえば『愛のむきだし』に宮台真司が新興宗教の神父役で出ていたが、あれは違うか。

母なる証明

2010-05-01 | 休み
凄い、凄いと聞いていたので、批評や感想は一切見ざる聞かざるで通してきて、やっとこさDVDで観る。


『母なる証明』(映画公式)
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確かにネタばれはしない方が良いとは思うけど、プロットはそれほど珍しいものではないと思う。日本の2時間サスペンスにでもありそうなありふれたプロット。けれどありふれたプロットをポン・ジュノが脚本を書いて、監督するとこんなにも面白くなる。後半、鳥肌が立ち続けた。


ポン・ジュノの映画はユーモアがいつもあって些細で、下らないやり取りが”日常”的にある。あとセックス、バイオレンスも。ジンテとミナのセックスはエロ過ぎです。バイオレンスも血がドバドバの流血バイオレンスでちゃんと痛そう。別に血を流せば痛そうに感じるわけじゃなくて、腰が入っているというかしっかりしていて痛い。『殺人の追憶』同様警察は暴力的な取調べ。

笑いも暴力も性も愛情もある。だからドラマとしての映画足りえていて、加えてミステリーまである。逆か。娯楽であるだけではなくちゃんとドラマになりえている。しかも伏線を映像でも科白でもしっかりと違和感無く提示していて、それが終盤極めて綺麗な形で収斂していく。科白だけじゃなくて映像までもが物語っていて、もう憎らしいほどに綺麗な構成。

ありがちなプロットでもそこに母子の設定をつければどうなるのか。かたくなまでの母親の愛情をミステリーの中で描くけれど、同様にミステリーの中で母子の愛情を描いた『チェンジリング』とは描き方が全く異なる。しかもこの愛情の発露というのは単に息子が危機に瀕したときに発揮されるのではなく最初から最後まで一貫して発露され続ける。それは過去に至っても。


ハードルを上げすぎると、物語的なありきたりさにがっかりしてしまう人もいそうだけど、こんなありきたりな物語をこんなに豊かに膨らませることが出来るのがポン・ジュノなんだな。本当にこんな話、2時間サスペンスで何度も見たような気がする。それでもこの人が脚本を書いて、監督をすれば奥行きが一気に広がる。面白くなる。それも単に面白く、豊かになっただけではなく母子の愛情をきっちりとした仕掛けの中で描けていてそれ以上の映画になってる。普遍的なドラマになってる。