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NOTEBOOK

なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

カーネーション 老年編に思う、渡辺あやの残酷

2012-03-10 | 授業
『カーネーション』(NHKオンライン)

今週より『カーネーション』の老年編というか、夏木マリ編が開始されました。小原糸子役は尾野真千子さんから夏木マリさんにバトンタッチされただけではなく、ほとんどの人たちがアチラ側へ逝ってしまい3姉妹が唯一残っているのみとなりもはや別作品と呼ぶべきものとなっています。



尾野さんが演じていた中年編までと比べると、もはやビルディングスロマンは達せられたこともあり前作の『おひさま』と同様にやはり物語の求心力は減じられている印象です。加えて、少々唐突な印象も感じるほどに次々と何かしらのエピソードが起こっていた、ジェットコースターのようなテンポが一転して、穏やかな、日常的なテンポの中で糸子の孫娘、里香が中心となってエピソードが語られてゆきます。

残念ながら夏木マリ版小原糸子は尾野版小原糸子と比べてしまうと、あのキラキラとした魅力は失われ、もはやぼくの知っている小原糸子ではありません。そして心なしか、あれほど輝いていた3姉妹の演技も脇に回ってしまったということもあってか何だかパワーダウンしてしまっている印象です。老年期のキャスト変更が発表されて、多くの人が思ったであろう懸念が現実になったような気がします。


しかし。しかしながら、『カーネーション』の劇中でも家族の老いや死。さらには主人公の糸子自身の老いや感性の鈍化などが残酷にも描いてきたことを思うと、このキャスト変更も、その魅力の落ち方も想定の内なのかなとも思えてくるのです。確かに夏木マリさんの演技は下手じゃないし、上手いです。でも尾野版糸子の持っていた輝きのようなものは夏木マリさんが演じる老年の糸子にはありません。

これは前作の『おひさま』と比べると、より顕著に見えてきます。『おひさま』ではさすがに陽子の父親たちの世代は存命ではなかったものの、夫の一成さんも白紙同盟の育子も真智子も、それどころかタケオ夫妻も老年期に至っても元気に余生を送っているという設定になっていました。対して『カーネーション』中年期のラストでは北村が糸子に対して、「これからお前は失うだけの人生だぞ」との言葉を残しています。

その北村の言葉にに対して糸子は「うちは、ここで宝物を抱えて生きていくんです。」と力強く言明し、北村からのプロポーズ?を袖に振りました。そして見事に、糸子の周りに居た人々は大抵が写真として、思い出としての存在となってしまいました。それでも夏木版糸子は悲しいそぶりもなく、毎日大切な人々の写真に話しかけ、笑顔を向けているのです。胸を締め付けられてしまいます。


こういう描写を見るたびに、主役のキャスト交代でパワーダウンすることは意図的だったのでは?と思うのです。これが若し尾野さんのままだったと思うと、こういった喪失感は無かったのかもしれません。老年に至っても小原洋装店に昌ちゃんが居て、恵さんが居て。それは前述の『おひさま』のようにある種のファンタジーとしてしかありえなかったのではないでしょうか。そしてそれを渡辺あやさんは許さなかった。



里香の描写に関しては、今まで通りとても分かりやすくも素直な演出がなされています。理香と地元の男子高校生との恋愛はとても間接的に描かれています。男子高校生に会ったあとや会う前には赤いスカジャンや赤いジャージに着替えています。『カーネーション』に通底する「赤」=女性という演出はこれまでの女性たちから里香へと受け継がれています。

ジェットコースターのようなテンポの速さだったこれまでと比べて、老年編はテンポが遅くなりましたが、テンポが遅いからこそ里香の心の機微、変化が丁寧に追いかけられていきます。単純に母親である優子のことが嫌いなのかといえば、そうではなく「嫌いじゃないけど、落ち込むのが分かっていてもどうしても優しく出来ない!」と涙する里香の台詞にはドキッとさせられました。


『メゾン・ド・ヒミコ』や『その街のこども』でもそうでしたが、渡辺あやさんは容赦が無い。しているのかもしれないけれど、それにしても他の作品と比べて残酷です。老いも死も避けがたい。だからこそ誰もが幸せで、何も失わないようなファンタジーを描きがちですが渡辺あやさんはそれを許さない。その上で、ある種の諦念の元でそれでも生きていけと言うのです。とても残酷ですが、とても誠実だと思います。

TBSの映画枠が復活!水曜プレミアシネマ

2012-03-04 | 授業


http://www.sankeibiz.jp/econome/news/120303/ece1203031610002-n1.htm(SankeiBiz)
29日の会見で「TBSは映画製作には非常に熱心に取り組んでいるので、選りすぐりのラインアップで良質なエンターテインメントとしてお届けしていく」と発表した。


 TBSの映画枠といえば名解説者として親しまれた荻昌弘さんが担当していた「月曜ロードショー」が有名。1969年から87年まで放送され、火曜→水曜と曜日を変え、荻さんが亡くなった後も93年まで続いた。

(上記記事リンクより一部引用)

TBSのプライムタイムの映画枠なんてまったく記憶に無い世代なので、復活というよりも新設に近い感じですが。どんな映画を放送してくれるのか。例えば、日本テレビの「金曜ロードショー」は最近は「おうちで観よう」と題した一連のキャンペーン(ちょっと前から同様のキャンペーンはやっていましたが)を行っています。タイアップというよりは『アバター』などの大作を初放送し、テレビで映画を放送することのメリットを活かそうという意図が感じられます。日曜洋画劇場は公開タイアップなどもありますが基本的にはハリウッドアクション映画中心(でもセガールはやるけれど、非映画秘法系というか非テレビ東京なメジャーアクション映画)のラインナップです。

同じTBS系の映画枠といえば、宮内鎮雄さんがナビゲーターを勤める深夜の「ゴールデンシアター」があります。ラインナップとしてはTBS製作や出資作を放送する枠というイメージですが、映画の前の新作紹介での宮内さんの感想・解説がこの枠の魅力だと思っています。今の時代、映画は最新作でも数ヶ月で3000~4000円程度のブルーレイやDVDで購入でき、レンタルは数百円です。下手をすればネットを介した動画配信サービスなどでも視聴することが可能です。じゃあ、この時代に映画をテレビで放送することの意味って何なのだろうと思うとやはりTBSの社長が会見でも述べているようにテレビというメディアのリーチの広さかもしれません。

確かにそれも一理あるような気がするんですが、TBSの「月曜ロードショー」の荻昌弘さんをはじめとして昔の映画枠にはその映画を解説してくれる人がいました。単純に映画を観ただけじゃ、やっぱり分からないことはたくさんある。そこをすぱっと解説してくれる解説者のいる映画枠。観てみたいな。テレビという無料メディアだからこその興味の無い映画の誤配可能性とその誤配された映画についての知識を与えてくれるような映画枠。BS放送でもCS放送でも基本的には日本には今現在はそういう放送はありません。



単純に映画を放送するだけだと、色が出ずに難しいのではないかなぁと一視聴者としては思うのです。その枠の何かの特色が必要なのではないかと思うのです。最近のプライムタイムの映画枠だと新作ばかりしか放送してくれないので思いっきり古い過去作を当時の吹き替えで放送してくれないだろうかと思うのです。そして解説付きで放送してくれたらと思うのです。TBSラジオのリスナーとすると妄想してしまうのです。


「水曜プレミアシネマ」、期待しております。

ハーモニー

2012-02-27 | 授業
<recollection>
ぼくが大学時代。まだweb1.0の時代。wikipediaなどなくて、知りたい情報は個人が個人的な趣味で作ったホームページしかありませんでした。でもwikipediaには無い変質と熱量がホームページにはありました。その中の一つに『メタルギアソリッド』について異様に詳しい解説を加えているものがありました。『メタルギアソリッド2 サンズオブリバティ』でのソリッド・スネークの変名、イロコイ・プリスキンの名前の由来を、イロコイ族の歴史を、アメリカの民主主義におけるイロコイ族のインパクトなどが詳細に記述されていました。
<recollection>


リトルランボーズ



<impression>
個人的に最近妄想している現代の新しい悪の類型というのは、限りない善意の行いの帰結がある側面からすると「悪」となるのではというものです。例えば全ての情報を整理するというGoogleの目標は情報の整理という点では確かに利便性は増すのでしょうか、一方でその目標というか欲望は個人をはじめとしたものの自由やプライベートという点では明らかにそれらを侵すものです。Googleストリートビューなどはその一例に過ぎません。

またフェイスブックは匿名を許さない実名を前提としたサービスです。実名だからこその利益は確かにあるでしょう。ただ自分の顔写真に名前、行動履歴までも私企業に利便性の名目の元に差し出すのです。SNSはもはやバーチャルではなく単純にリアルです。バーチャル空間であろうが、実名での発言は現実社会と同様のフィードがあり、ネットは既に現実となり始めています。それも自身の個人情報を赤裸々にすることを半強制されています。

3.11以降、被爆の脅威に曝された状況。昨今のソーシャルネットワークの、facebookに代表される実名での活動の進捗を鑑みると、『ハーモニー』で描かれる<大厄災>以後の社会と現在は執筆された当時よりもリアリティを持って立ち現れてきます。被曝による病も人間の社会的属性の可視化ももはや現実にその一端を見せ始めてきています。実名性のためにmixiよりもリアルと同様の制限がありますが、SNS会社などは皆が情報をオープンにすることで安全が担保されるのだとしています。

イギリスの悪名高い監視カメラ(権力側は防犯カメラという言葉を用いますが)は確かに私たちのプライバシーやプライベート(未来においては卑猥な言葉になろうと予期されているものが)が侵害されるとその導入には批判的な意見が多かったはずでしたが、現代においては市民自ら積極的に監視カメラの導入が要請され、実際にはそのカメラによる抑止や犯罪発生後の捜査段階においてその存在が大きなものと成ってきています。それは日本においても同様です。


『幼年期の終わり』や『2001年 宇宙の旅』にはじまり『新世紀エヴァンゲリオン』も善意の人類滅亡を描いていましたが、『ハーモニー』もその類型。前者海外SFが地球外生命体による人類の進化でしたが、後者は人類自身による原始への退化と言う点での違いはあり、『ハーモニー』は後者の類型です。本作における善意は「意識を持っているから人は自ら死を選ぶ。だから意識を無くそう。」と人間の持つ意識を無くし、本当の意味で人間をシステムの歯車にしようというものでした。それは優しさの極北とでも言うべき終末です。


もはや絶対的な「悪」という存在が人類を根絶やしにするというストーリーは現代では中々成立しづらくなっているのではないかとも思えます。ただし現実世界に目をやれば、Googleなど善意の「悪」が存在する一方でアメリカのサブプライムローンに代表するように持つものによる不誠実な犯罪もあれば、本作中でも間接的に描かれていましたが各地の宗教的、民族的な問題に起因する紛争などはいまだ存在しています。それどころか酷くなっている部分もありますが。

ただ疑問に思ったのは『ハーモニー』における人類の意識を奪う「ハーモニー・プログラム」によって全人類の「わたし」が消滅したとしていること。「ハーモニー・プログラム」を発動できる人類はWatchmeを導入している人類に限られこの世界設定では紛争・貧困地域などではWatchmeを導入していない人類もいるとされていました。ということは、意識を失った人類は非Watchmeな人たちの奴隷になるのでは、ミァハたちと同じ運命になるのではとかは想像してしまうです。

『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイをはじめて見た時の感覚を上手く言い表せなかったのですが、ミァハという登場人物に綾波と同様のものを感じました。無機質な存在だった綾波が周囲との交流を通じて人間的な「意思」を獲得していくのとは対照的に、人類の「動物性」にさらされたことで「意識」を獲得したミァハは、裕福な社会の中で満たされているはずなのに次々と自殺する人々に絶望し彼らを救うため自殺を引き起こす自意識を消し去ろうとし、消し去ったミァハの傲慢な優しさはどこか綾波と重なります。


ただ著者自身も述べていたように、キャラクターの描写は些か類型的な気はしました。(ただキャラクターたちの状況の描き方自体はとても精巧で緻密。設定と同様に理詰めで描いていく部分に関しては非常な説得力を持って描写されていました。それよりも解説でも触れられていた通り、作者である伊藤計劃の素晴らしさは突飛な想像力ではなく現代の問題を未来へと繋げていく力とSF的な状況から現代的な問題意識を描き出す帰納的な状況設定にあると思います。そしてSFに似つかわしくないほど膨大な過去からの引用。









平清盛 第一話「ふたりの父」

2012-01-14 | 授業
何だか巷では「画が汚い!」とか「王家とは何事だ!」とかいろいろと言われている様ですが、一番の問題はそんなところじゃないだろうと思いました。


大河ドラマ「平清盛」(NHK)
リトルランボーズ



一番引っかかった、一番解せない、一番腹立たしいと思うのは平太こと後の平清盛の出自。冒頭で源頼朝が「平清盛は武士の世の嚆矢だった」みたいなことを言っていたけれど、平清盛はこの大河ドラマでは白川法皇の子であった(!)とされているところじゃないのか。武士の世を築き上げた平清盛が実は天皇家の血筋だったというのは何と言う悪い冗談か。後の公家趣味の理由と言えば、筋は通りそうだけれど、結局は天皇家の血筋がって言うことのほうがよっぽど馬鹿にしている、と思うのです。

このことに関連して気になる描写がいくつかあります。第一に清盛の生みの母が舞子と言う名の白拍子、今で言えば娼婦という設定。何だかマグダラのマリアを思わせます。また彼女が清盛を産み落とす場所が厩だったりとどこと無くキリスト教的なモチーフを思わせます。また第一話のラスト、育ての父忠盛が地面に刺した洋剣(?)を抜くシーンは「王様と剣」のアーサーを想起させます。清盛が天下を取ることにまるで王権神授説的な正当性を持たせようとしているかのように思われます。(脚本化が歴史公証に反してまで天皇家を「王家」と表現するのはこの点があると思うのは邪推でしょうか。)

冒頭から表現された穢れた存在=武士という描写は現代にも普遍性のある興味深い描写だと思いました。自らの手は汚さず、それを武士に外部化している公家たちが武士を穢れていると見下げる。そんな見下げられた武士たちが政治の表舞台に立ち、天下を公家から奪うと言う歴史のダイナミズムを期待していたのに、その実その主役とも言うべき清盛が実は天皇の息子であったと言うのはどうかと思うのです。(もちろん出自など関係無く、結果として公家の世を一旦は終わらせるのでしょうが。)被差別者が差別者を越えて行ってこそ得られたものもあったのではと思います。

第二話の予告に「野良犬として生きてやる」とあります。ですが、血統書付きの野良犬です。確かに一度は捨てられた存在ですが、結局は天皇の子、”王家”の血筋を引く子供です。もちろんそこには様々な苦難や清盛自身の研鑽が表現されるのでしょうが、やっぱり解せないのです。結局は権力の座に着くべき人間が権力の座に着くという構造に思えてなりません。天皇家を軽んじていると非難された脚本ですが、その実は以後の武家社会はを作ったのは、武家社会は公家によって作られたものであると言われているような気さえしてしまいます。


いや、上記の点を鑑みても「平清盛」は面白いです。今まで観た中で一番綺麗な吹石一恵とか妖怪のような邪悪さを称えた伊藤四朗とかすごくいいです。松田聖子だけ何故かミュージカルのような芝居で一人浮いていますが、俳優もとても豪華で、映像もとてもリッチです。ただ冒頭の忠盛と舞子の立ち回りはとても良かったのに、海賊との戦闘は一部で観辛い箇所があったり、アクションが分かり辛いシーンも。加えて、忠盛と舞子が心を通わすまでが拙速だったり、朧月の子が平太に出自を言ってしまうと言う脚本にはちょっと引っ掛かりを覚えます。まぁ散々文句を言っておいて、第2話以降も観るんですが、「カーネーション」的な驚きは感じられないのでしょうか。

劇場版神聖かまってちゃん

2012-01-09 | 授業
『SRサイタマノラッパー』シリーズの入江悠監督が神聖かまってちゃんのドキュメンタリー映画を撮るって聴いたときはちょっと期待してたんですが…



以前『SRサイタマノラッパー』を借りてきて途中で投げ出してしまったので、どうなのかなぁと思っていましたが、結論から言うと入江監督の映画はやっぱり合わないです。


話の骨子は保育園児、その母親、女子高生棋士、神聖かまってちゃんのマネージャーという4人の群像劇。その4人のそれぞれの状況が神聖かまってちゃんのライブの日に収束して行くという形式を取っています。見ている途中に思ったのですが、これって大昔にあったオムニバス映画『バカヤロー』シリーズを一本の映画にまとめたの?という感想。

群像劇の主人公たち4人はそれぞれにストレスにさいなまれている。(それは保育園児も含めて!)保育園児は保育園にノートパソコンを持って行き、ニコニコ動画でかまってちゃんの曲を他の園児に聞かせ保育園から怒られていた。その母親はシングルマザーで昼と夜の仕事を掛け持ちし疲弊し、息子のことで保育園から呼び出しを食らったりしていらだっている。

女子高生棋士はアマチュア将棋大会の準決勝にまで勝ち残っているが、彼氏は彼女が棋士であることを恥ずかしいという。棋士になるために大学には行かないというが、両親は大学に行かねば人にあらずといったような態度。そして彼女の兄は引きこもっている。かまってちゃんのマネージャーは上司たちからかまっちゃんをよりメジャー受けするようにしろと命じられる。


まぁ要はありがちなストレスというか、不幸描写のオンパレード。あんまりありがちなんでイラっとします。特に保育園の保護者の描写とか既視感が目いっぱいです。酷い。女子高生の話にしても酷いステレオタイプ。保育園児に至ってはは保育園にPCを持って行く方が悪いのでは?と思い感情移入できないです。唯一救われるのは女子高生役がひねた役をやらせたら最高の二階堂ふみなところ。「うっせー、ババア!!!」は地なのではと思わずにはいられないほどナチュラル!

前提もありがちなら、結末もありがち。保育園児がかまっちゃちゃんのライブを自宅のipadで他の園児たちと楽しんでいる間に、何故か保育園の園長たちもかまってちゃんのライブ配信を見て感銘を受ける。やさぐれていた母親は控え室にいた若い子のiphoneで偶然に目にしたかまってちゃんのライブで奮起する。女子高生棋士は特に関係無く頑張り、アマチュア大会を優勝。マネージャーは現在のままのかまってちゃんで居て欲しいと上司に告げる。これらが「ロックンロールは鳴り止まない」に乗せて展開される。

かまってちゃん、特にの子っていう圧倒的な現実がそこにあるのにこの能天気なフィクションが屹立すると途端に馬鹿馬鹿しく写ってしまいます。あれだけ逃れがたい、苦しい人生を歌っているのに、それを聞いた人たちの人生はライブで光指す方へと導かれます。保育園児は周囲の理解を、母親は確固たる決意を(その日のショーを頑張る?)、女子高生棋士は棋士としての未来を、そしてマネージャーは今のかまってちゃんへの肯定を。それを安っぽい、そしておそらく本当に安いCGで演出されます。辟易します。


そもそも何で神聖かまってちゃんの映画を作るのに、彼ら自身ではなく、彼らの音楽を聴く人たちの群像劇にしたのか。到底良いとは思えないこのアイデアはおそらくはの子が原因ではないかと思われます。メディアで垣間見るの子であれば、こんな映画は拒否するはずです。いみじくも劇中でマネージャーが拒否していたようなメジャー戦略の一環がこの映画だった思えてしまうのは酷い皮肉です。その妥協点として、の子がクローズアップされる必要の無いファンの群像劇という中途半端なものになったのだろうというぼくの推測はあながち間違っていないと思います。



劇中、女子高生棋士がひきこもりの兄にかまってちゃんのファーストを渡すシーンがあるけれど、死人に鞭打つような行為だと個人的には思うです。ただそのCDが彼氏から借りたCDをコピーしてCDRに焼いたものだったり、ひきこもりの兄を悪じゃなくて被害者であり、彼女の家族内での唯一の理解者として描いていたのには好感が持てました。


ただ色々残念映画だなぁととは思います。