よみびとしらず。

あいどんのう。

過ちを認めるということ

2020-04-09 00:09:17 | 随筆
過ちを認めるということはなかなかに難しい。
それはやろうと思えばいともたやすく、柏手(かしわて)をひとつ打つよりも短いせつなに出来ることでありながら、人は、わたしはなかなかに、過ちを認めるということを時としてためらってしまう。

わたしはなぜ、ためらうのだろうか。
それは、過ちを正すことの面倒さに起因する。要は怠慢である。あーもう、めんどくさいなあ。別にこれでどこぞの誰かさんに迷惑をかけるわけでもないし。別にいいじゃない。
そんな気持ちが、確かにあった。そして事実そのままであっても別に誰かに迷惑をかけるわけじゃないし、その過ちを正すことで余計な手間ひまもかかる。それは否応のない事実である。

でも。
けどもね。

わたしは、わたしが過ちをおかしたということを知っている。たとえ他の誰が知るよしもないことであろうとも。わたしとお天道様は、わたしがおかしたその過ちを知っている。
たとえ夜の暗闇にあろうとも、シェルターで隔離された窓ひとつない部屋に居ようとも。
お天道様は全てを明るく照らし、わたしの有り様をつぶさに見ている。
その眩(まばゆ)く巨大な光のたまはどこまでもただわたしを見ているだけで、決してわたしを責めたてることなく、それは、他の誰でもないわたし自身が自らの意思でその過ちに気づき、認めて、正すようにと。

「お天道様が見ているよ」

この国のそんな文化がわたしは好きだし、そのなかで生まれ育ったことを誇りに思っている。
ならばわたしのとる道はただひとつ。
お天道様が明るく照らす光のなか、自らの意思で、過ちを認め正すこと。
それは本当に面倒なことかもしれない、大変なことかもしれない。けどもお天道様に恥じない生き方を。恥の多い人生だしちっとも立派なひとではないけれども、それでも、そんな人間でありたいとわたしは思う。

だからわたしは意を決して席を立った。
シャワーを浴びてさっぱりとしたこの身体、しっかりとタオルで拭き服をまとったわたしは風呂場へと直行し、もう一度服を脱ぎ眼鏡を外してシャワーを浴びる。洗い流し忘れたトリートメントを洗い流すために。




はい。久しぶりにやってもーた。トリートメントを洗い流さず出てもうた。ということに関する反省文です。反省文を書くというさらに面倒くさい追い込みをかけることで、再発防止につながればいいなと思った次第。でもまあ忘れるときはきっとまた忘れてしまうのだろうけども。人間だもの。だめだもの。
我ながら本当にどうしようもないですが、いつもお天道様が見ているということは忘れずにいたいと思います。

そしてこの反省文は正しくは、トリートメントを洗い流し忘れたことではなく、そのあとに「あー。またシャワーを浴びなあかん。めんどくさい」と思ったことについての反省であると後から気づきました。そちらのほうが罪が重いというか、わたしのなかでは問題なんだなと。
怠慢はあきません。
本当は、身体を拭いている時点で少し気が付いてはいたのです。「あれ?さっきトリートメント洗い流したっけ?」と。この時点ですぐに悔い改めていたら良かったのにね。過ぎたるは及ばざるが如し。でもこの時に、まあいいやという怠け心が発生し、結果として一度着た服を再度脱いでシャワーを浴び、かような反省文も書くはめになるという人生になりました。生きていくって大変。難しい。でも頑張って生きていきたいです。いのちある限り、これからも。

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