竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

雨霽(はる)る

2010-11-17 09:53:08 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・新古今集耕読(4)
雨霽(は)る

五十首歌たてまつりし時      寂蓮法師
村雨の 露もまだひぬ 真木の葉に 霧たちのぼる 秋の夕暮
 村雨の露もしっとりとしてまだ乾かない真木の葉から、うっすらと霧が立ち昇っている秋の夕暮時。

 定家が親類の邸の障子を飾るために、楽しみながら選んだとされる「小倉百人一首」にも採られている著名な歌である。寂蓮は、「新古今集」の撰者に推挙されていたが、その心労のためにこの歌を詠んだ翌年に亡くなり、任務が果たせなかった。出雲大社にも参詣して、「天雲たな引く山のなかばまで、かたそぎ(千木)のみえける」本殿の巨大さに感嘆した歌を残している。
 この歌は、秋の夕暮れ時に、村雨がひとしきり降り過ぎたあとの露に濡れた常緑の木立に立ちのぼる夕霧の実景を捉えたものである。新古今集の撰者にノミネートされた感激を胸に秘めた、作者の精神の昂揚が、ゆるみのない調べとなっている。
 さきに取り上げた「三夕の歌」の冒頭でも、寂蓮は、同じような「真木立つ山の秋の夕暮」の景を詠っており、檜や杉など色気のない「むくつけき」素材の中に深い、新しい美を見いだしている。これは、「出家隠遁して、草庵や行脚の深い経験を持つ作者の魂のさびしさであり、ひいては作者の棲んでいた中世のさびしさでもあるように思われる。」(石田吉貞)

 私は、遠来の客を迎えたりすると、安来の「足立美術館」に案内することが多い。当館所蔵の横山大観の作品は、いずれも見所が多いが、私は、彩色画よりも水墨画のほうに惹かれる。『朝嶺・暮嶽』『雨霽(は)る』などの作品は、水墨の濃淡のみによって山容や大気の雰囲気を見事に描き分けている。
 これらの水墨画を見ると、私は決まって寂蓮のこの歌が思い浮かんでくる。色彩や音声のない世界は、余計な刺激を受けない分、何か、原初的な荘厳な美を現出させる。近時話題の、CGや3Dを駆使した映画(例えば「レッド・クリフ」や「アバター」)を観ると、ただただ驚かされるばかりで、後に何も残らない。