竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

『ひとりごつ』(54)  哲学者が捉えた「古代日本人のこころ」④

2016-06-28 09:25:35 | 日記

  仏教の受容(2) 霊(たま)信仰と仏像崇拝 

 日本古来の「霊信仰」に生きる人々は、6世紀半ばに伝来した仏教の「仏像信仰」のスタイルに驚かされた。人間の姿をした金銅の仏像を拝むことなど、古来の宗教では無縁のことであった。古代の日本には、人間の姿をした等身大の像が作られ、それが崇拝されるという儀礼はまずなかった。

 古代人に比べて、神仏に対する信仰心が希薄になった現代の日本人の多くは、観光のついでに古刹を訪ねて、仏像を拝する機会は多いが、例えば、法隆寺の百済観音像、中宮寺、広隆寺の半跏思惟像、薬師寺金堂の薬師三尊像などの仏像を拝観すると、その像には事前の予備知識を凌駕する「何事にも動じない強い精神」と「崇高な美しさ」が感じられ、それらの仏像は「人間を超えた存在」のように思われてくる。宗教に縁遠い私たちは、手をあわせながら、思わず知らず、自分や身内の者、そしてせいぜい日本社会の将来の幸福や安泰などについて、祈りを捧げている。

 6世紀後半に、最終的に崇仏派が廃仏派に勝利し、以後、仏像の崇高な美しさは、まわりの荘厳な造作や建物の造形の美しさにまで及んだ。しかし、仏教を信じることは、単に仏像や周囲の荘厳な雰囲気に浸ることではない。

 仏教を信仰することは、物見遊山ではない。その本筋は、仏典を丁寧にたどり、説くところを的確に理解し、その教えに従うことこそ肝要である。しかし、6,7世紀にかけての日本仏教史にあっては、仏典の理解、宗教的思索、仏道修行といった方面では、注目すべき活動はほとんど見当たらない。(そういう方面は、9世紀初頭の最澄、空海の登場を俟って、初めて本格化するのである。)

 日本においては、古来の「霊信仰」に底流している、禍を追い払い、福を招き寄せたいと思う「現世主義的志向」が、仏像と向き合うという新しい宗教形態においても、根強く生き続けているのである。


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