日本人のこころの歌―私家版・万葉集耕読⑱
鴨山はいずこ?
柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて
死に臨む時に、自ら傷みて作る歌 (巻二)
鴨山の 岩根しまける 我れをかも
知らにと妹(いも)が 待ちつつあるらむ
鴨山の山峡の岩を枕にして行き倒れている私なのに、何も知らずに妻は私の帰りを今日か今日かと待ち焦がれていることであろうか。
柿本朝臣人麻呂が死にし時に、
妻依羅娘子が作る歌 (巻二)
今日今日と 我が待つ君は 石川の 峡(かひ)に交りて ありといはずやも
今日か今日かと私が待ち焦がれているお方は、石川の山峡に迷いこんでしまっているというではないか。
先に掲載した「サヨナラの構図」の続編。石見の現地妻とサヨナラした人麻呂は、都での任務を果たして国府に帰任していた。妻と再会できたかどうかは定かでないが、時を措かず石見国の鴨山で不慮の死を遂げた。前の二首は、その時の自傷歌と妻の歌である。
さて、その人麻呂の終焉の地・鴨山はいずこにあるか。古来、さまざまな伝承や学説が論議されてきた。例えば、斉藤茂吉はその著『鴨山考』で、邑智町湯抱をその場所と措定した。氏は、前の歌から、「鴨山」は、妻の依羅郎子が死に目に会えないほどの距離(およそ十里以上)を隔てた所にあること。また、後の歌からその山峡に「石川」があることを条件にして、似た名前の残る地点に立って、そこを「鴨山」を定めた。
この学説に異を唱え、その論拠を逐一粉砕して「流罪刑死説」を展開したのは、梅原猛の『水底の歌』である。氏は、自分の学説を立証するために、益田市高津の沖合に水没したとされる鴨島の海底調査までされたのであった。両氏のやや自己陶酔気味の「認識の旅」に私も興奮したが、現在では、学問的には成立しない説とするのが大方の見方である。
持統女帝の意を体して、宮廷歌人として数多くの儀礼歌や挽歌を作り、その一方で「私情」を失わず、行路死人を悼み、幾人かの隠し妻と相聞歌を交わした人麻呂自身が、自分の最期の舞台として山陰道の果ての石見の国を選び、あえて悲劇的な客死の物語を創作したのかもしれない。
鴨山はいずこ?
柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて
死に臨む時に、自ら傷みて作る歌 (巻二)
鴨山の 岩根しまける 我れをかも
知らにと妹(いも)が 待ちつつあるらむ
鴨山の山峡の岩を枕にして行き倒れている私なのに、何も知らずに妻は私の帰りを今日か今日かと待ち焦がれていることであろうか。
柿本朝臣人麻呂が死にし時に、
妻依羅娘子が作る歌 (巻二)
今日今日と 我が待つ君は 石川の 峡(かひ)に交りて ありといはずやも
今日か今日かと私が待ち焦がれているお方は、石川の山峡に迷いこんでしまっているというではないか。
先に掲載した「サヨナラの構図」の続編。石見の現地妻とサヨナラした人麻呂は、都での任務を果たして国府に帰任していた。妻と再会できたかどうかは定かでないが、時を措かず石見国の鴨山で不慮の死を遂げた。前の二首は、その時の自傷歌と妻の歌である。
さて、その人麻呂の終焉の地・鴨山はいずこにあるか。古来、さまざまな伝承や学説が論議されてきた。例えば、斉藤茂吉はその著『鴨山考』で、邑智町湯抱をその場所と措定した。氏は、前の歌から、「鴨山」は、妻の依羅郎子が死に目に会えないほどの距離(およそ十里以上)を隔てた所にあること。また、後の歌からその山峡に「石川」があることを条件にして、似た名前の残る地点に立って、そこを「鴨山」を定めた。
この学説に異を唱え、その論拠を逐一粉砕して「流罪刑死説」を展開したのは、梅原猛の『水底の歌』である。氏は、自分の学説を立証するために、益田市高津の沖合に水没したとされる鴨島の海底調査までされたのであった。両氏のやや自己陶酔気味の「認識の旅」に私も興奮したが、現在では、学問的には成立しない説とするのが大方の見方である。
持統女帝の意を体して、宮廷歌人として数多くの儀礼歌や挽歌を作り、その一方で「私情」を失わず、行路死人を悼み、幾人かの隠し妻と相聞歌を交わした人麻呂自身が、自分の最期の舞台として山陰道の果ての石見の国を選び、あえて悲劇的な客死の物語を創作したのかもしれない。