竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

鴨山はいずこ?

2009-07-29 14:04:34 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・万葉集耕読⑱
  鴨山はいずこ?       

 柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて
死に臨む時に、自ら傷みて作る歌 (巻二)
鴨山の 岩根しまける 我れをかも 
知らにと妹(いも)が 待ちつつあるらむ
 鴨山の山峡の岩を枕にして行き倒れている私なのに、何も知らずに妻は私の帰りを今日か今日かと待ち焦がれていることであろうか。      
 
 柿本朝臣人麻呂が死にし時に、
妻依羅娘子が作る歌      (巻二)
今日今日と 我が待つ君は 石川の    峡(かひ)に交りて ありといはずやも
 今日か今日かと私が待ち焦がれているお方は、石川の山峡に迷いこんでしまっているというではないか。

 先に掲載した「サヨナラの構図」の続編。石見の現地妻とサヨナラした人麻呂は、都での任務を果たして国府に帰任していた。妻と再会できたかどうかは定かでないが、時を措かず石見国の鴨山で不慮の死を遂げた。前の二首は、その時の自傷歌と妻の歌である。
 さて、その人麻呂の終焉の地・鴨山はいずこにあるか。古来、さまざまな伝承や学説が論議されてきた。例えば、斉藤茂吉はその著『鴨山考』で、邑智町湯抱をその場所と措定した。氏は、前の歌から、「鴨山」は、妻の依羅郎子が死に目に会えないほどの距離(およそ十里以上)を隔てた所にあること。また、後の歌からその山峡に「石川」があることを条件にして、似た名前の残る地点に立って、そこを「鴨山」を定めた。
 この学説に異を唱え、その論拠を逐一粉砕して「流罪刑死説」を展開したのは、梅原猛の『水底の歌』である。氏は、自分の学説を立証するために、益田市高津の沖合に水没したとされる鴨島の海底調査までされたのであった。両氏のやや自己陶酔気味の「認識の旅」に私も興奮したが、現在では、学問的には成立しない説とするのが大方の見方である。
 持統女帝の意を体して、宮廷歌人として数多くの儀礼歌や挽歌を作り、その一方で「私情」を失わず、行路死人を悼み、幾人かの隠し妻と相聞歌を交わした人麻呂自身が、自分の最期の舞台として山陰道の果ての石見の国を選び、あえて悲劇的な客死の物語を創作したのかもしれない。
         

宮廷歌人の私情

2009-07-22 13:44:01 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・万葉集耕読⑰
 宮廷歌人の私情

  柿本朝臣人麻呂、香具山の屍を見て、
  悲慟(かな)しびて作る歌一首
 草枕 旅の宿りに 誰が夫(つま)か 
  国忘れたる 家待たまくに  (巻三)
 草を枕のこの旅先で、いったい誰の夫なのだろうか、故郷へ帰るのも忘れて臥(ふ)せっているのは。妻はさぞ帰りを待っていることであろうに。

 周知のように、香具山は、藤原宮の東に横たわるなだらかな丘陵である。その麓に屍が横たわっていた。その風体から、どうやら中央政府の強制で上京してきた、地方の国の役民らしい。死者から眼をそむけずに、その家族のことに思いをめぐらし、「悲慟」しているのは、壮年宮廷歌人・柿本人麻呂である。
 人麻呂については、今なお、不明な点が多いが、北山茂夫の評伝『柿本人麻呂』は、歴史の流れの中で、このプロ歌人の人間像を究明した名著である。それによると、人麻呂は、下流の貴族で官位こそ低かったが、歌に詠みあげた世界は広く多元的であった。天武朝末には、若くして相聞歌の優れた作者として、名声を博していたと思われる。夫の後を継いだ女帝・持統朝になって、儀礼歌の第一人者として、宮廷世界にデビューするや、その後は、朝廷のための歌人として旺盛な作歌活動にはいる。
 新都・藤原京の都城の建設は、持統天皇の一大事業であった。万葉集巻一に「藤原京の役民の作る歌」という長歌がある。この儀礼歌を具に考察すると、この作者が人麻呂であることは、疑う余地はない。この歌の中で、彼は「御民」の身を挺しての労働奉仕は、現人神としての天皇の威力の発現だとして、その献身を讃美している。
 
人麻呂の内面には矛盾がある。プロ歌人として、帝の威光を仰いで昂揚する心情と役民の屍に「悲慟」するヒューメンな私情が同居している点である。「泣いて馬謖を斬る」と中国の故事にあるとおり、時には、人は公的な立場を優先して、私情を断ち切らねばならないことがある。その際も、せめて「泣く」という真率な私情だけは失ってはならない。わが「万葉集」は、このような私情から生まれた歌も見捨てず取り上げているところがすごい。
          

サヨナラの構図

2009-07-15 14:37:44 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・万葉集耕読⑯
  サヨナラの構図

 石見のや 高角山の 木の間より
  我が振る袖を 妹見つらんか
          柿本人麻呂(巻二)
 石見の、高角山の木の間から名残を惜しんで私が振る袖を、妻は見てくれたであろうか。
 
笹の葉は み山もさやに さやげども 
  我は妹思ふ 別れ来ぬれば
          前の歌と同じ
 笹の葉は、み山全体にさやさやとそよいでいるけれども、私はただ一筋に妻を思う。別れて来てしまったので。

 柿本人麻呂は、晩年に石見の国に国司として赴任し、国府にほど近いところの「角の里」に住む、依羅娘女(よさみのをとめ)という妻を得た。老年の孤独を癒す逢瀬を重ねるさなか、人麻呂は中央政府の要請で、急に帰京しなければならなくなった。この時のことをモチーフにした、「石見相聞歌」と呼ばれる一連の歌群は、人麻呂最晩年の労作である。
この歌は、その長歌に続く反歌の二首である。
「石見の海 角の浦みを;;」と始まる荘重な調べの長歌は、妻の住む石見の海岸を賛美し、やがて、「玉藻なす寄り寝し妹」に対する人麻呂の執着を浮き彫りにする。そして、結びの五句に至って「夏草の 思い萎えて 偲ふらむ 妹が門見む 靡けこの山」と、妻との断絶を恨んで、切実な雄叫びを発するのである。
 「(前の歌の)高角山は、見納めの山、国境の山である。妻との世界と絶縁して、なおかつ人麻呂が妻との関係を保とうとする時、いかなる手段が残されているか。妻を心の中に包み込み、その妻に思いを向けるよりほかにすべはない。(後の歌は、)まさしくそういう心境をうたっている。」(伊藤 博)
 
 かつて私は、十年余にわたる永年勤続を終えて、母校から石見の地に転勤する時に、なじみの地への未練を断ち切るために、「サヨナラの構図」というエッセイを書いた。別れの情感を単純化して、ことさらに数式化などして考察を試みた。そして、至りついた結論は、宿命的な離別に付随する「切なさ」は、やがて時の洗礼を受けて「懐かしさ」という美の情感に昇華するだろうという他愛ないものであった。今になって思えば、その傍証にこの人麻呂の相聞歌を使えばよかった。
          

魔法の絨毯(じゅうたん)

2009-07-08 10:13:33 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・万葉集耕読⑮
 魔法の絨毯(じゅうたん)

上つ毛野 安蘇(あそ)のま麻(そ)むら 
 かき抱(むだ)き 寝(ぬ)れど飽かぬを
  などか我(あ)がせむ
             東歌(巻十四)
 上野(こうずけ)の安蘇の群れ立つ麻を抱きかかえるように、しっかと抱いて寝るけれど、それでも満ち足りない、ああ、私はどうしたらいいのか。

 「上野の国」の歌。現地の農民の間に伝えられた麻抜き仕事の作業歌であろうか。「草いきれと風と太陽とのなかにとけこみ、土と一体となった彼らは愛においても、何者をも恐れなかった。赤裸々で自分を偽ることはなかった。」(中西進)「実際生活を暗指しつつ恋愛情緒を具体的にいって、少しもみだらな感を伴はず、嫉ましい感をも伴はないのは、全体が邪気なく快いものだからであろう。それにはナドカ・アガセムといふ訛も手伝ってゐるらしく思はれる」(斎藤茂吉)
 一連の「東歌」のなかで、「高麗(こま)錦 紐解き放(さ)けて 寝るが上(へ)に あどせろとかも あやに愛(かな)しき」(高麗錦の紐を解き放って寝るその上、どうしろというのか、むしょうに愛しゅうてならぬ。)とともに愛のせつなさを歌い上げて、双璧をなす作品とされている。

 漱石の未完の大作のあとを継ぐ『續明暗』を書き上げ、脚光を浴びた水村美苗の『日本語が亡びるとき』によると、いまや世界は「インターネットの時代」で「英語の世紀」に入った。「英語」だけが「普遍語」となり、「日本語」はもとより、英語以外の「国語」は、すべて「現地語」に成り果てる可能性がでてきたという
 単なる情報伝達の記号としての言語はともかく、やはり日本人の心情は日本語によらなければ十全に表現できない。幸いにも、わが「万葉集」の原本は、いわゆる「万葉仮名」による表記がなされており、それは日本各地の方言(訛り)だけでなく、古代の音韻まで再現できる音符でもある。
 その意味で、「万葉集」は、時間・空間を超えて、私たちを歌の現地に連れ戻してくれる「魔法の絨毯」でもあるのだ。
          

手放しの新妻賛美

2009-07-01 20:54:13 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・万葉集耕読⑭
   手放しの新妻賛美

我れはもや 安見児(やすみこ)得たり
皆人の 得かてにすといふ 安見児得たり
        内大臣藤原鎌足(巻二)
 私はまあ安見児を得た。皆さんがたが得がたいものにしている安見児を得た。

安見児とは、当時、諸国の郡司たちが宮廷に奉った釆女(うねめ)のひとりで、絶世の美女という噂の高い女性であったらしい。天皇に奉仕する釆女は、臣下との結婚は禁じられていたが、いわば論功行賞として、鎌足は特別に結婚が許されたのであろう。この歌は、その感激を宴席に集った人々の前で誇示したものであろう。「初句の詠嘆の助詞もさることながら、第二句と第五句とをくりかえす古歌謡の型の踏襲の中にも、歓喜の絶頂があらわである。」「世にも美しい娘子安見児を傍らに置いて、得意満面、酒を酌む鎌足の姿が浮かんでくるような歌である。」(伊藤博)
 万葉集にはもう一首だけ、鎌足の歌がある。鏡王女(かがみのひめみこ)への性愛の歌である。この王女もかつては天智天皇の愛人であったが、後に鎌足の正妻になって、藤原不比等を生んでいる。密かに妻問いしている頃、夜が明けても帰ろうとしない夫に後朝(きぬぎぬ)の別れをせきたてる妻に対する返歌の中で、「さ寝ずはつひに有りかつましじ(このまま共寝を止めては、とても生きていられない)」とダダをこねている。

 藤原鎌足は、周知のとおり、中大兄皇子(天智天皇)を助けて、大化改新(六四五年)をなし遂げた古代史のヒーローである。永井路子の『よみがえる万葉人』によると、歌ののどかさに比べて、その人生は権謀の泥にまみれている。蹴鞠で脱げた中大兄の沓を拾って、権力にすり寄り、蘇我氏打倒のクーデターに成功する。その後、朝鮮出兵で躓き、天智天皇の政権に翳りがさすと、対抗する弟の大海人皇子に娘二人を出后させる。その一方で、天皇の長男大友皇子とも姻戚になっている。
この周到な人脈作戦は、現代の政治屋にも通じるしたたかさである。残念ながら当人は、壬申の乱(六七二年)に先立ち、天智天皇より前にこの世を去っているが、代わって世襲の息子・藤原不比等が、政権の黒幕として、律令政治を牛耳ることになる。洋の東西を問わず、英雄は女性に弱いのである。