「源氏物語」・ざっくり話
光源氏の野心(上)
男たちのための「源氏物語」
これまで、多くの研究者の間では、「源氏物語」は、王朝期の後宮(サロン)で語られた「女の、女による、女のための物語」として捉えられてきた。遠い昔の王朝時代に、後宮の女君たちが女房に物語を音読させ、美しい絵巻を眺めながら、日本特有の四季の移ろいの中で、男女の情愛の醸し出す「もののあはれ」にひたるべきものと考えられてきた。しかし、以前、京都の「源氏物語千年紀展」で、157点に及ぶ展示品を見て、わたしは衝撃を受けた。「源氏物語」は、実は「女による、男たちのための物語」でもあった。なんと中世以降の武家社会の男性の権力者までもが、例外なくこれを珍重して愛読していたのだ。
現存する最古の写本である「河内本源氏物語」は、源頼朝の信頼厚かった河内守源光行、その子親行、その孫義行が、三代引き継いで完成したものである。そして、その後、日本史上で一時代、絶対的な武力と政治力を把持していた北条、足利、織田、豊臣、徳川のいずれもが、権力維持の聖なるテキストとして、源氏物語を大切に取り扱ってきた。
晩年、能楽に夢中になった秀吉は、「源氏供養」を十八番(おはこ)として舞っていたと言われているし、家康は、大阪冬の陣、夏の陣の前後に、四回にわたって源氏物語の秘伝の伝授を受けていたとされている。彼らはなぜ、それほどにこの古典に傾倒したのか。源氏物語から何を読み取ろうとしたのであろうか。
王権の興亡の物語
源氏物語は、例えて言えば、巨大な多面体である。前稿で、わたしは「王朝時代の薄幸の皇子の宿命的な愛恋小説」として、その構想を分析したが、実は、この捉え方は、五十年前、わたしの学生時代の頃の通説であった。その後近年に至るまで、わたしは、この愛恋ドラマの背景に、天皇制(あるいは摂関制)という国家体制の中で、権力者の興亡の影がうごめいているのを見逃していた。
源氏物語の最近の解説書、例えば、日向一雅「源氏物語の世界」(岩波新書)三田村雅子「源氏物語――物語空間を読む」(ちくま新書)などでは、「王権の物語」という視点から分析されている。それらによると、源氏物語の第一部(「桐壺」の巻から「藤裏葉」の巻までの三十三帖)は、二つの系列が綯いあわされる形の構成をとっているという。一つは「桐壺系」(十七帖)で、高麗の人相見の「帝王の相」の予言を起点として、光源氏がそれを成就するまでの物語であり、いま一つは、「帚木系」(十六帖)で、「雨夜の品定め」を起点として、光源氏が愛の遍歴をする物語である。この際、あえて前者の系列の巻だけを取り出して、華やかな愛恋の背後に隠されている王権の興亡の顛末を大づかみにあとづけてみたい。
(1) 光源氏の憤懣
桐壺帝は、即位当初から、権勢家(藤原氏)の圧力を排除し、自らの親政をめざしていた。すでに右大臣の娘・弘徽殿の女御との間に第一皇子をもうけていたが、うるさい権勢の後盾のない更衣ばかりを寵愛し、第二皇子を誕生させる。しかし、母の更衣は、その後周囲からますます激しいいじめを受け横死する。帝は、その子が将来後継争いに巻き込まれるのを案じて、やむなく「源氏」として臣籍に降下させる。
光源氏は、成長するにつれ、兄の第一皇子と比べると、容貌、心ばえ、才覚など、あらゆる点で落差が明らかになり、理不尽に自分が皇位から疎外されたことへの憤懣が募ってくる。満たされぬ思いを紛らすように女性遍歴を重ね、ついには亡き母と生き写しと言われる若い義母藤壺への愛恋の情が抑えがたいものになる。
(2)光源氏のストレスと再生
一途な藤壺への愛恋は、ついに不義の子を誕生させ、その罪障感と外部への取り繕いのためのストレスにより、「わらは病み」となった源氏は、北山の聖から加持祈祷を受けて、しだいに元気を回復する。そして、藤壺の形代とも言うべき少女・若紫を垣間見る。源氏に引き取られた若紫は、マイフェアレディとして養育され、正妻紫の上となり、源氏の心の支えとなる。
やがて桐壺帝は、退位し、源氏と藤壺の子・第二皇子は、二人の陰謀どおり、東宮となるが、右大臣勢力を後見とする朱雀帝(第一皇子)の御世となり、再び光源氏は孤立する。
(3)光源氏の贖罪
その苛立ちが朱雀帝の寵姫朧月夜との一夜のアバンチュールに駆りたてる。その関係が発覚し、源氏は、官位を剥奪され、自ら須磨に退去する。流謫の地で、源氏は、精進と修業の日々を送る。二週間にわたる激しい雷雨に襲われ、それに耐えることで、罪と穢れを祓う禊(みそぎ)を受けた源氏は、再生、復活する。故桐壷帝の夢のお告げに導かれ、明石に移り住み、明石の君と出会い、新たな活力と生命力を身につけ、都に復帰する。
(4)光源氏の復権
都では、朱雀帝が退位し、源氏の不義の子冷泉帝の御世がスタートする。晴れて源氏はその後見役となり、権力の中枢を握る。これまで自分に敵対してきた勢力を一掃し、准太上天皇の待遇を受け、豪邸六条院にゆかりの女君すべてを住まわせ、わが世の春を謳歌する。
光源氏の野心(上)
男たちのための「源氏物語」
これまで、多くの研究者の間では、「源氏物語」は、王朝期の後宮(サロン)で語られた「女の、女による、女のための物語」として捉えられてきた。遠い昔の王朝時代に、後宮の女君たちが女房に物語を音読させ、美しい絵巻を眺めながら、日本特有の四季の移ろいの中で、男女の情愛の醸し出す「もののあはれ」にひたるべきものと考えられてきた。しかし、以前、京都の「源氏物語千年紀展」で、157点に及ぶ展示品を見て、わたしは衝撃を受けた。「源氏物語」は、実は「女による、男たちのための物語」でもあった。なんと中世以降の武家社会の男性の権力者までもが、例外なくこれを珍重して愛読していたのだ。
現存する最古の写本である「河内本源氏物語」は、源頼朝の信頼厚かった河内守源光行、その子親行、その孫義行が、三代引き継いで完成したものである。そして、その後、日本史上で一時代、絶対的な武力と政治力を把持していた北条、足利、織田、豊臣、徳川のいずれもが、権力維持の聖なるテキストとして、源氏物語を大切に取り扱ってきた。
晩年、能楽に夢中になった秀吉は、「源氏供養」を十八番(おはこ)として舞っていたと言われているし、家康は、大阪冬の陣、夏の陣の前後に、四回にわたって源氏物語の秘伝の伝授を受けていたとされている。彼らはなぜ、それほどにこの古典に傾倒したのか。源氏物語から何を読み取ろうとしたのであろうか。
王権の興亡の物語
源氏物語は、例えて言えば、巨大な多面体である。前稿で、わたしは「王朝時代の薄幸の皇子の宿命的な愛恋小説」として、その構想を分析したが、実は、この捉え方は、五十年前、わたしの学生時代の頃の通説であった。その後近年に至るまで、わたしは、この愛恋ドラマの背景に、天皇制(あるいは摂関制)という国家体制の中で、権力者の興亡の影がうごめいているのを見逃していた。
源氏物語の最近の解説書、例えば、日向一雅「源氏物語の世界」(岩波新書)三田村雅子「源氏物語――物語空間を読む」(ちくま新書)などでは、「王権の物語」という視点から分析されている。それらによると、源氏物語の第一部(「桐壺」の巻から「藤裏葉」の巻までの三十三帖)は、二つの系列が綯いあわされる形の構成をとっているという。一つは「桐壺系」(十七帖)で、高麗の人相見の「帝王の相」の予言を起点として、光源氏がそれを成就するまでの物語であり、いま一つは、「帚木系」(十六帖)で、「雨夜の品定め」を起点として、光源氏が愛の遍歴をする物語である。この際、あえて前者の系列の巻だけを取り出して、華やかな愛恋の背後に隠されている王権の興亡の顛末を大づかみにあとづけてみたい。
(1) 光源氏の憤懣
桐壺帝は、即位当初から、権勢家(藤原氏)の圧力を排除し、自らの親政をめざしていた。すでに右大臣の娘・弘徽殿の女御との間に第一皇子をもうけていたが、うるさい権勢の後盾のない更衣ばかりを寵愛し、第二皇子を誕生させる。しかし、母の更衣は、その後周囲からますます激しいいじめを受け横死する。帝は、その子が将来後継争いに巻き込まれるのを案じて、やむなく「源氏」として臣籍に降下させる。
光源氏は、成長するにつれ、兄の第一皇子と比べると、容貌、心ばえ、才覚など、あらゆる点で落差が明らかになり、理不尽に自分が皇位から疎外されたことへの憤懣が募ってくる。満たされぬ思いを紛らすように女性遍歴を重ね、ついには亡き母と生き写しと言われる若い義母藤壺への愛恋の情が抑えがたいものになる。
(2)光源氏のストレスと再生
一途な藤壺への愛恋は、ついに不義の子を誕生させ、その罪障感と外部への取り繕いのためのストレスにより、「わらは病み」となった源氏は、北山の聖から加持祈祷を受けて、しだいに元気を回復する。そして、藤壺の形代とも言うべき少女・若紫を垣間見る。源氏に引き取られた若紫は、マイフェアレディとして養育され、正妻紫の上となり、源氏の心の支えとなる。
やがて桐壺帝は、退位し、源氏と藤壺の子・第二皇子は、二人の陰謀どおり、東宮となるが、右大臣勢力を後見とする朱雀帝(第一皇子)の御世となり、再び光源氏は孤立する。
(3)光源氏の贖罪
その苛立ちが朱雀帝の寵姫朧月夜との一夜のアバンチュールに駆りたてる。その関係が発覚し、源氏は、官位を剥奪され、自ら須磨に退去する。流謫の地で、源氏は、精進と修業の日々を送る。二週間にわたる激しい雷雨に襲われ、それに耐えることで、罪と穢れを祓う禊(みそぎ)を受けた源氏は、再生、復活する。故桐壷帝の夢のお告げに導かれ、明石に移り住み、明石の君と出会い、新たな活力と生命力を身につけ、都に復帰する。
(4)光源氏の復権
都では、朱雀帝が退位し、源氏の不義の子冷泉帝の御世がスタートする。晴れて源氏はその後見役となり、権力の中枢を握る。これまで自分に敵対してきた勢力を一掃し、准太上天皇の待遇を受け、豪邸六条院にゆかりの女君すべてを住まわせ、わが世の春を謳歌する。