日本人のこころの歌 (21)
―私家版・古代和歌文学史
晩年のアイドル・西行(新古今集三)
西行は、入集された歌の数からすると文句なく「新古今集」第一位の歌人である。しかしながら第六代勅撰集の「詞花集」では、わずか1首の歌が、それも「読み人しらず」として採られているに過ぎない。そのころ西行は、すでに出家して放浪歌人となっており、宮廷歌壇では全くの凡卑無名の歌人であったことの証しである。ところが、西行が71歳の時に撰集された第七代勅撰集「千載集」では18首の歌が、また没後に成立した第八代「新古今集」では、実に94首の歌が入集するなど、その遇し方が著しく変化している。それはなぜか。
左京大夫俊成、歌集めらると聞きて、歌遣はすとて
西行
花ならぬ 言の葉なれど
おのずから 色もやあると 君拾はなん
(花のように美しい和歌ではありませんが、それはそれなりに色もあろうかと思って撰集の折には入集させて下さったら嬉しく存じます。)
かへし 俊成
世を捨てて 入りにし道の言の葉ぞ あはれも深き 色も見えける
(世を捨て仏道に帰依なさったあなたの和歌にこそ、心を感動させる深い色も見えることです。)
この贈答歌は、後白河法皇から俊成に「千載集」撰集の院宣が下されたことを知った西行が、急遽、自分の歌稿(「山家集」はこれをもとにまとめたものか)を京都の俊成に送ったときのものである。今や還暦を過ぎた西行にとって、俊成は20代から師事した唯ひとりの歌仲間であった。「文学、人生一如」とも言うべき西行の生涯にわたる歌を、当代随一の歌人・俊成がまとめて目にしたのは、これがはじめてである。俊成はかつて袂を分った西行の歌に心打たれたのであろう。これを広く宮廷歌人に公開した。これを機に後鳥羽上皇はもとより、定家など多くの若い歌人たちにも、大きな感銘の嵐を呼んだに違いない。こうして『千載集』奏覧までに、俊成やその周囲の若い世代と西行との関係は、急速に親密の度を増して行き、誰からも敬愛されるようになった。
西行は、没する少し前から死後にかけて急速に時の人として偶像視されるほどの名声を得たのである。
―私家版・古代和歌文学史
晩年のアイドル・西行(新古今集三)
西行は、入集された歌の数からすると文句なく「新古今集」第一位の歌人である。しかしながら第六代勅撰集の「詞花集」では、わずか1首の歌が、それも「読み人しらず」として採られているに過ぎない。そのころ西行は、すでに出家して放浪歌人となっており、宮廷歌壇では全くの凡卑無名の歌人であったことの証しである。ところが、西行が71歳の時に撰集された第七代勅撰集「千載集」では18首の歌が、また没後に成立した第八代「新古今集」では、実に94首の歌が入集するなど、その遇し方が著しく変化している。それはなぜか。
左京大夫俊成、歌集めらると聞きて、歌遣はすとて
西行
花ならぬ 言の葉なれど
おのずから 色もやあると 君拾はなん
(花のように美しい和歌ではありませんが、それはそれなりに色もあろうかと思って撰集の折には入集させて下さったら嬉しく存じます。)
かへし 俊成
世を捨てて 入りにし道の言の葉ぞ あはれも深き 色も見えける
(世を捨て仏道に帰依なさったあなたの和歌にこそ、心を感動させる深い色も見えることです。)
この贈答歌は、後白河法皇から俊成に「千載集」撰集の院宣が下されたことを知った西行が、急遽、自分の歌稿(「山家集」はこれをもとにまとめたものか)を京都の俊成に送ったときのものである。今や還暦を過ぎた西行にとって、俊成は20代から師事した唯ひとりの歌仲間であった。「文学、人生一如」とも言うべき西行の生涯にわたる歌を、当代随一の歌人・俊成がまとめて目にしたのは、これがはじめてである。俊成はかつて袂を分った西行の歌に心打たれたのであろう。これを広く宮廷歌人に公開した。これを機に後鳥羽上皇はもとより、定家など多くの若い歌人たちにも、大きな感銘の嵐を呼んだに違いない。こうして『千載集』奏覧までに、俊成やその周囲の若い世代と西行との関係は、急速に親密の度を増して行き、誰からも敬愛されるようになった。
西行は、没する少し前から死後にかけて急速に時の人として偶像視されるほどの名声を得たのである。