竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

晩年のアイドル・西行

2012-04-27 08:49:44 | 日記
 日本人のこころの歌 (21)
   ―私家版・古代和歌文学史

  晩年のアイドル・西行(新古今集三)

 西行は、入集された歌の数からすると文句なく「新古今集」第一位の歌人である。しかしながら第六代勅撰集の「詞花集」では、わずか1首の歌が、それも「読み人しらず」として採られているに過ぎない。そのころ西行は、すでに出家して放浪歌人となっており、宮廷歌壇では全くの凡卑無名の歌人であったことの証しである。ところが、西行が71歳の時に撰集された第七代勅撰集「千載集」では18首の歌が、また没後に成立した第八代「新古今集」では、実に94首の歌が入集するなど、その遇し方が著しく変化している。それはなぜか。

  左京大夫俊成、歌集めらると聞きて、歌遣はすとて
                       西行
 花ならぬ 言の葉なれど 
  おのずから 色もやあると 君拾はなん
 (花のように美しい和歌ではありませんが、それはそれなりに色もあろうかと思って撰集の折には入集させて下さったら嬉しく存じます。)
  かへし              俊成
 世を捨てて 入りにし道の言の葉ぞ あはれも深き 色も見えける
 (世を捨て仏道に帰依なさったあなたの和歌にこそ、心を感動させる深い色も見えることです。)
 この贈答歌は、後白河法皇から俊成に「千載集」撰集の院宣が下されたことを知った西行が、急遽、自分の歌稿(「山家集」はこれをもとにまとめたものか)を京都の俊成に送ったときのものである。今や還暦を過ぎた西行にとって、俊成は20代から師事した唯ひとりの歌仲間であった。「文学、人生一如」とも言うべき西行の生涯にわたる歌を、当代随一の歌人・俊成がまとめて目にしたのは、これがはじめてである。俊成はかつて袂を分った西行の歌に心打たれたのであろう。これを広く宮廷歌人に公開した。これを機に後鳥羽上皇はもとより、定家など多くの若い歌人たちにも、大きな感銘の嵐を呼んだに違いない。こうして『千載集』奏覧までに、俊成やその周囲の若い世代と西行との関係は、急速に親密の度を増して行き、誰からも敬愛されるようになった。
 西行は、没する少し前から死後にかけて急速に時の人として偶像視されるほどの名声を得たのである。 

俊成と定家

2012-04-20 08:12:57 | 日記
 日本人のこころの歌 (20)
    ―私家版・古代和歌文学史

  俊成と定家(新古今集二)

 藤原俊成とその子・定家とは、古代から中世にかけて、時代の転換期に生きた大歌人であった。俊成は、91歳で亡くなり、定家は80歳過ぎまで生きていたから、ともに当時としては希有な長寿であった。
 俊成は、後白河上皇の時、皇后宮大夫になり、皇后が皇太后になっても引き続きその大夫として、結局57歳からの6年間は、同じ役所の長官であった。定家は歌人として後鳥羽上皇に認められ、長く侍従職として仕えた。
 俊成・定家の家柄は、藤原氏の中でも「御子左家」という和歌の名家であり、俊成は後白河法皇から第七勅撰集「千載集」撰進の院宣を受けた。
俊成は、63歳の時、大病を患い、退官するや出家して釈阿入道となり、以後30年近く、歌道に勤しんだ。その間に詠んだ歌は、若い頃に提唱した「幽玄体」という、実生活とのつながりの薄い理念化された表現を離れて、喜怒哀楽を虚飾なく率直に吐露した、抒情的ものが多くなった。その点では長年交遊のあった西行の歌に近づいている。西行は、俊成より3歳若かったが、74歳で他界した。
 定家はその日記「明月記」に「紅旗征戎吾が事に非ず」と記しているように、芸術至上主義者として歌道にひたすら精進した。彼は歌こそ自己を超越できる絶対的な「美」として造型しようとした。「歌ことば」は美を生みだす根源の力を持つものと考えた。彼は、偏狭と言えるほどに、学究的・唯美的姿勢を崩さなかった。
 それだけに彼は少なくとも歌に関しては傲慢であった。俊成の「幽玄」に対して「有心」という美的理念を掲げ、優美な情景、洗練された情趣の表現に命を削った。
 後鳥羽院は、その歌論書「御口伝」の中で、定家の歌については一通りのほめ方にとどめているが、俊成と西行の歌は手放しで賞讃している。後鳥羽院にとって、歌の理想の詠歌法は、対象や事象に接した時、自分の感じたことをそのままストレートに詠い出すことであった。その姿勢は、晩年の俊成や西行の歌には十分伺えるが、定家の歌には見出せないものであった。

史上最強の帝王

2012-04-13 07:55:43 | 日記
 日本人のこころの歌 (19)
    ―私家版・古代和歌文学史

  史上最強の帝王(新古今集一)

 後鳥羽上皇は、日本文学史上最強の帝王として、濃密で昂揚した和歌のコミュニティーを形成された。1180年、高倉天皇の第四皇子として誕生。源氏の逆襲により平家一門が、安徳天皇とともに都落ちした後、後白河院の意向により急遽四歳で即位させられた。前例のない二帝並立であった。
後鳥羽院は天皇在位15年、19歳で譲位して上皇となり、3代・23年に亘り「治天の君」として院政を統括し、宮廷貴族の政治・文化の中心となられた。
 1201年、仙洞御所に、「和歌所」を開設して、太政大臣や天台座主など、上流貴族・11人(その後、地下人の秀能、長明など4人を追加)を「寄人」(よりうど)に指名された。
定家、家隆など「新派歌人」の若手を積極的に登用し、頻繁に百首歌をお召しになり、歌会を主催された院は、ご自身の詠歌の技量もたちまち上達された。間髪を入れず、寄人の中の6人の撰者に、勅撰集撰進の宣旨をくだされた。そして院がその編集のプロモーターとなられた。
 1205年、「新古今集」が一応完成したところで、宮中で竟宴が催された。こうした宮中あげての祝宴は、「日本紀」などの国史編纂の折に限られていたが、第八勅撰集「新古今集」は、後鳥羽院の親撰の歌集として、特に思い入れが深かった。

 1221年鎌倉幕府の内紛に乗じて、後鳥羽上皇は、北条義時追討の宣旨を発せられた。しかし、これは全く戦略のない倒幕計画であり、京方の官軍は、「矢を発するにも及ばず」、あっけなく敗走した。「承久の乱」である。
 後鳥羽上皇は、出家後隠岐に配流され、1239年にかの地で崩御された。院は、配流後も「新古今集」への執着を捨てきれず、全体の配列はそのままにして、和歌四百首を削除した「隠岐本新古今集」を完成された。
 ほととぎす 雲居のよそに 過ぎぬなり 晴れぬ思ひの さみだれのころ
 後鳥羽院は、竟宴後も引き続きくり返し「切り継ぎ」(入集歌の削除や追加)をなされたが、この歌も後で追加された歌である。承久の乱を引き起こす前の思い乱れた心情が伺える。

個人的な事情

2012-04-04 09:50:26 | 日記
  日本人のこころの歌(番外)
      ―私家版・古代和歌文学史

   個人的な事情

 わたしはこの3年ほど、日本の古典文学を拾い読みしては、その解説(批評)をこのブログ「竹崎の万葉集耕読」に書いてきた。「いまさら何故に?」と訝るむきも多いので、この際わたしの個人的事情を略述しておきたい。
 わたしは、地元の高校国語教師を退職して久しくなり、このところは外に出かけるのも億劫になって、現役時代から「積ん読」していた古典を繙きながら時間を潰すことが多くなった。
 半世紀も昔の学生時代には、「日本古代文学」を専攻していた。当時、初版の岩波古典大系本で、「源氏物語」を通読し、卒論では「法華経」の劇的構成と対比した「大鏡構想論」を書いた。そして、いずれは自分なりの「日本古代文学史」をまとめるつもりでいた。
 高校教師の現役時代は、心ならずも大学受験対策として「古典解釈指導」に忙殺されたていたので、この際かつての夢を実現したいと思い立ち、とりあえず随所に語釈が施されている新潮社古典集成本を「耕読」と勝手に自称して、読み始めた。
 「源氏物語」は、「千年紀」で騒がれている年に再読し、「古事記」は、編纂千三百年に合わせ、それに便乗する格好で読んだ。
 ただ、和歌などの韻文については、なんとなく自分の専攻以外のジャンルのものとして敬遠していた。しかし、古代文学史を考察するのに、和歌文学史を無視するわけにはいかない。かくして、多くの先人たちの注釈を参照しながら「万葉集」「古今集」「新古今集」「山家集」「金槐集」を「耕読」するのに3年もかかってしまった。

 昨年末になって、わたしが高校で担任した連中から、定年後、都会地から地元に移住することになった仲間の歓迎会として、「青春プレイバック授業」を催すことになり、その講師の依頼を受けた。
 むげに断るわけにもいかない。そこでこれまでブログに書いてきた「日本人のこころの歌」の「こぼれ話(その1)ざっくり話・古代和歌文学史概説」を、嘗て出雲高校国語科サブテキスト「朗唱集たまもひ」を作って、生徒にやみくもに暗誦させてきた罪滅ぼしとして語ることにした。決してアカデミックなものではない。あくまで「毀れ話」である。

 なお、その授業は、5月4日(金)13時30分から、出雲高校久徴会館で開講します。関心のあるかたは担当の小村さんに連絡のうえ、どうぞ傍聴してください。
  ℡:090-4456-0873
  Eメール:omura10@hotmail.com