竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

二重写しの風景

2010-02-17 09:31:58 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・万葉集耕読
 二重写しの風景        (47)

太宰帥大伴卿、冬の日に雪を見て、京を憶ふ歌一首           (巻八)
沫雪(あわゆき)の ほどろほどろに 
降りしけば 奈良の都し 思ほゆるかも
泡雪がはらはらと降り積もると、あの奈良の都が懐かしく思い出されてならない。

山部宿彌赤人が歌一首     (巻八)
百済野(くだらの)の 萩の古枝に 春待つと 居りしうぐいす 鳴きにけむかも
百済野の萩の古枝で、春を待ってじっととまっていた鶯は、もう鳴きはじめたであろうか。

巻八は、すべて四季別に類別された、雑歌と相聞歌である。前の歌は、冬の雑歌とされているが、「沫雪」(出雲地方で言うところの「だんべら」)がまだらに薄く降り積もるのだから、春先の光景であろう。旅人は太宰府にいて、平城京のもっと深く降り積もった雪景色を懐かしく思い出しているのである。
「雪は妙に、空間的にも時間的にも、遙かなものへのあこがれ心をそそるものである。幼年時代の回想とか、望郷とか、遠い人への憧憬とか。雪は何か人を童心にかえらせるものを持っている。」(山本健吉)
後の歌は、春の雑歌である。赤人が去年の冬に、郊外の荒涼とした百済野で見かけた、枯枝に寂しくとまっていた鶯を、都のわが家で思い出している。あたりはすでに春立つ気配。この陽気になれば、あの鶯も鳴き初めたであろうと想像しているのである。
「巧まずしてこの歌には前に見た時から今に至るまでの時間の経過が織り込まれ、春の到来を幅厚く感ぜしめるようになっている。」(高木市之助)

両歌ともに眼前の風景をストレートに描出したものではなく、以前見た鮮明なイメージとダブらせ、いわば「二重写しの風景」として詠いあげている。こうした手法は、およそ百五十年後に編集された「古今集」の「雪のうちに 春は来にけり 鶯の こほれる涙 今やとくらむ(二條后)」の歌に通じるものがある。旅人も赤人も並の歌人ではない。これらの歌は、すでに万葉歌を超えている。
         

1 コメント

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ナプキン涙目w (犬っころ)
2010-02-22 21:57:51

ナプキンがどこまで液を吸収するのか実験してみたくて
ナプキンの上からマンクリ刺激して遊んでたんだが、、、、、、

2人とも潮 吹きすぎで、ナプキン全っっ然!役に立ってねぇwww




実験の結果、ナプキンの無駄遣いという結論になりますたw

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