竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

忘我の境地

2011-05-27 07:59:35 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・新古今集耕読(32)

 忘我の境地

    題しらず           
             西行法師
道のべに 清水流るる 柳かげ 
しばしとてこそ 立ちどまりつれ (巻三・夏)

 清水が流れている道のほとりの柳の木陰に、ほんのしばしと思って立ち止まってしまったよ。
 
 これも「漂泊の旅」途上の歌である。暑い夏の日、西行が道を歩いていると、ほとりに清水が流れ、おあつらえ向きの柳の木陰もある。やれやれとひと休みしたところ、あまりの心地よさに、つい時を過ごしてしまったのである。
 『西行物語』では、「(この歌は)清水流るる柳のかげに、旅人のやすむさまをかきたる」屏風絵に、西行が依頼されて賛をしたものだという説を伝えている。確かに一幅の絵を思い起こさせるような、月並みな構図の景であるが、西行でなければこんな単純で洒脱な心情を歌に詠むことはできない。夏の日の暑さと川端の木陰の涼しさを、現実体験そのままに描きだしている。
 住み慣れた家を捨て、心の通う友人や妻子を捨てて漂泊の旅に赴き、孤独と寂寥と不安のなかで自分の真実の生と向き合い、詩心を磨くことは、至難のことであるが、時にはこの歌のように自然の懐に抱かれ、忘我の境地に浸ることもあったに違いない。
 武士の台頭で動乱がうち続く時代、貴族の最後の拠り所として、新古今歌人たちが、やれ歌合せだ、やれ歌会だと神経をすりへらして歌を作っているとき、せせらぎの音をききながら路傍の木陰で無心にくつろいでいるこの歌僧は、なんと自由で、のびやかであることか。後年、芭蕉は『奥の細道』の旅で「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」の句を詠んでいるが、うら若い早乙女たちの田植え作業に見とれてつい時を過ごしてしまったという俗っぽさはここにはない。そのまま自然と一体化してしまっているのである。              

無益のこと

2011-05-20 07:54:00 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・新古今集耕読(31)

 無益のこと

   鴨社歌合とて人々よみ侍りけるに、月を
                    鴨 長明
石川や 瀬見の小川の 清ければ 月も流れを 
たづねてぞすむ      (巻十九・神祇歌)

 石川の瀬見の小川は清らかだから、月もその流れを尋ね求めて、そこに澄んでいるのであるよ。この川は清浄なので、その地に賀茂の御神は鎮座しておられるのだ。 

 賀茂神社で催された歌合せで、「月」の題で詠んだ神の威徳を讃える歌。鴨長明は、定家より七歳年長。下賀茂神社の神職の家に生まれながら和歌と琵琶の道に精進し、後鳥羽院に認められて、地下人ながら46歳で「和歌所寄人」に任じられた。その後、禰宜の職をめぐって一族間に争いが起こり、それを機に出家し蓮胤と号した。大原山に隠棲し、さらに日野の外山に自分で設計した組み立て式の庵を結び、ノンフィクション・エッセイ『方丈記』を書いた。
 その前半は青年期の10年ほどの間に経験した、史上類例のない天変地異(安元の大火・治承の大風・養和の飢饉・天暦の地震)と政変(福原遷都・平家の衰退)のルポルタージュであり、後半は老年期の閑居の気味を綴るエッセイである。

 この歌が「新古今集」に入集されたことを知り、長明は自著の歌論書『無名抄』の中で「生死の余執ともなるばかりうれしく侍るなり。」と、ひとまず喜びながら、そのすぐあとに「但あはれ無益の事かな」と、自嘲的とも言える言辞を付け足している。堀田善衛は、『方丈記私記』の中で、「別にどういうこともない自分の歌才に対して、それは居直り、開き直りのたぐいのものである」と述べている。
 今や「益(やう)なき隠者」となった長明にしてみれば、壮年期に精進してきた歌の道など、自嘲に類するものであった。時代の大きな転換期に、現実と全く切り結ぶことなく、伝統的世界を遵守することに何の益があるというのか。俊成や定家など、芸術至上主義者の観念論に翻弄されている新古今歌壇に対する痛烈なアンチテーゼである。

あかぬ別れと待つ宵

2011-05-13 07:42:00 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・新古今集耕読(30)

 飽かぬ別れと待つ宵

  二条院御時、暁帰りなむとする恋といふことを          
                        二条院讃岐
明けぬれど まだきぬぎぬに なりやらで 人の袖をも 濡らしつるかな     (巻十三・恋三)

 夜はすっかり明けたけれどもまだお互いに別れがたく、わたしは悲しみの涙であの人の袖をも濡らしてしまいました。

  題しらず           
小侍従
待つ宵に 更けゆく鐘の 声聞けば あかぬ別れの 鳥はものかは      (巻十三・恋三)

 恋人の訪れを今か今かと待つ夜の更けゆくことを知らせる鐘の音を聞く切なさーそれに比べたら、飽きないのに別れなければならない暁を告げる鶏の声のつらさなど、物の数に入るでしょうか。

 二条院讃岐は、前回取り上げた源三位頼政の娘、小侍従は、頼政の恋人の一人。ともに高齢の老女房になってからも、新風和歌を体得した後鳥羽院歌壇の姥桜として、和歌行事では高い評価を得ていた。それぞれ八十歳前後(今風に言えば「アラ傘寿」)の長寿を保った。
 前の歌は、もとより題詠であるが、「きぬぎぬ」(共寝した男女が、重ねていたそれぞれの着物を身につけて別れること)という言葉を生かして、纏綿とした名残りの情感を主観的に表現している。
 後の歌は、『平家物語』によると、御所で「待つ宵」と「かへる朝」とのつらさの優劣を問われた際に答えた歌とされている。夜更けを告げる「鐘の音」と夜明けを告げる「鶏の声」を配して、実感をこめてきっぱりと前者に軍配をあげている。
 いずれの歌も、作者の経験に裏打ちされたリアリティーがあり、臨機応変の機知を働かせた見事な応答歌である。政治的、経済的支配者としての地位を武士に奪われてしまった当時の貴族は、世の中の動乱から隔絶されたところで、愛欲に耽溺する生活をしており、宮廷に仕える女性も、このようにそれに呼応する生活感情と「閨房教養」を身につけていたようだ。

潔い語調

2011-05-06 08:05:52 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・新古今集耕読(29)

 潔い語調
    夏ノ月をよめる    
従三位頼政
庭の面(おも)は まだかわかぬに 夕立の 
空さりげなく 澄める月かな    (巻三・夏)
 庭の面はまだ乾いていないのに、夕立を降らせたことはうそのような空に、さりげない様子で澄んだ月が出ているよ。

 頼政は、普通は源三位(げんざんみ)頼政と呼ばれている武将で、「平家物語」などで有名な歴史上の重要人物である。保元・平治の乱では、やむなく時の権力者・平清盛方に加担していたが、七十七歳の高齢になってから後白河法王の皇子・以人王(もちひとおう)を擁して平家追討の兵を挙げた。しかし事はならず宇治平等院の庭で自刃して果てた。「埋れ木の花咲くこともなかりしに身のなるはてぞかなしかりける」というのが辞世の歌である。頼政は若いころから和歌の道に親しみ、俊成や俊恵もその数奇(すき)ぶりを感嘆したほどの名歌人であった。また老艶な閨秀歌人・小侍従など多くの才媛とも相聞歌を交わしたりしていた。
この歌は、「(上二句は)普通の作者だと、まだ草の葉に露がたまっている、というぐらいの、うるさいことを言い度いところだが、頼政は『未乾』と瀟洒に言ってのけた。それがかえって、雀がぬれた風情までも目に浮かばせる。」(川田順)
雨後の月と空とを「さりげなく」と擬人的に表現して、歌語とは異質な軽妙な感じを出している。全体にいかにも武家歌人らしく、線が強く、映像が明晰で、潔い語調で印象のはっきりした歌である。 

昨年、かつて職場を同じくした、私の敬愛する先輩・錦織周一氏は、二十年間にわたる研究成果として大学時代の恩師・小原幹雄氏と共著で、笠間書院から『源三位頼政集全釈』を上梓された。本邦初の壮挙であったが、その本に詳しく頼政の歌と人生が紹介されている。