日本人のこころの歌―私家版・新古今集耕読(32)
忘我の境地
題しらず
西行法師
道のべに 清水流るる 柳かげ
しばしとてこそ 立ちどまりつれ (巻三・夏)
清水が流れている道のほとりの柳の木陰に、ほんのしばしと思って立ち止まってしまったよ。
これも「漂泊の旅」途上の歌である。暑い夏の日、西行が道を歩いていると、ほとりに清水が流れ、おあつらえ向きの柳の木陰もある。やれやれとひと休みしたところ、あまりの心地よさに、つい時を過ごしてしまったのである。
『西行物語』では、「(この歌は)清水流るる柳のかげに、旅人のやすむさまをかきたる」屏風絵に、西行が依頼されて賛をしたものだという説を伝えている。確かに一幅の絵を思い起こさせるような、月並みな構図の景であるが、西行でなければこんな単純で洒脱な心情を歌に詠むことはできない。夏の日の暑さと川端の木陰の涼しさを、現実体験そのままに描きだしている。
住み慣れた家を捨て、心の通う友人や妻子を捨てて漂泊の旅に赴き、孤独と寂寥と不安のなかで自分の真実の生と向き合い、詩心を磨くことは、至難のことであるが、時にはこの歌のように自然の懐に抱かれ、忘我の境地に浸ることもあったに違いない。
武士の台頭で動乱がうち続く時代、貴族の最後の拠り所として、新古今歌人たちが、やれ歌合せだ、やれ歌会だと神経をすりへらして歌を作っているとき、せせらぎの音をききながら路傍の木陰で無心にくつろいでいるこの歌僧は、なんと自由で、のびやかであることか。後年、芭蕉は『奥の細道』の旅で「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」の句を詠んでいるが、うら若い早乙女たちの田植え作業に見とれてつい時を過ごしてしまったという俗っぽさはここにはない。そのまま自然と一体化してしまっているのである。
忘我の境地
題しらず
西行法師
道のべに 清水流るる 柳かげ
しばしとてこそ 立ちどまりつれ (巻三・夏)
清水が流れている道のほとりの柳の木陰に、ほんのしばしと思って立ち止まってしまったよ。
これも「漂泊の旅」途上の歌である。暑い夏の日、西行が道を歩いていると、ほとりに清水が流れ、おあつらえ向きの柳の木陰もある。やれやれとひと休みしたところ、あまりの心地よさに、つい時を過ごしてしまったのである。
『西行物語』では、「(この歌は)清水流るる柳のかげに、旅人のやすむさまをかきたる」屏風絵に、西行が依頼されて賛をしたものだという説を伝えている。確かに一幅の絵を思い起こさせるような、月並みな構図の景であるが、西行でなければこんな単純で洒脱な心情を歌に詠むことはできない。夏の日の暑さと川端の木陰の涼しさを、現実体験そのままに描きだしている。
住み慣れた家を捨て、心の通う友人や妻子を捨てて漂泊の旅に赴き、孤独と寂寥と不安のなかで自分の真実の生と向き合い、詩心を磨くことは、至難のことであるが、時にはこの歌のように自然の懐に抱かれ、忘我の境地に浸ることもあったに違いない。
武士の台頭で動乱がうち続く時代、貴族の最後の拠り所として、新古今歌人たちが、やれ歌合せだ、やれ歌会だと神経をすりへらして歌を作っているとき、せせらぎの音をききながら路傍の木陰で無心にくつろいでいるこの歌僧は、なんと自由で、のびやかであることか。後年、芭蕉は『奥の細道』の旅で「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」の句を詠んでいるが、うら若い早乙女たちの田植え作業に見とれてつい時を過ごしてしまったという俗っぽさはここにはない。そのまま自然と一体化してしまっているのである。