竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

トップ公卿の風狂

2010-11-24 08:22:14 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・新古今集耕読(5)
トップ公卿の風狂

百首歌たてまつりし時     摂政太政大臣
きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む
 きりぎりすが心細そうに鳴く寒々とした霜夜、さむしろに衣を片敷いて、わたしは寝るだろうか、妻もなくひとりさびしく。
 
 これも「百人一首」にある著名な歌である。摂政太政大臣藤原良経は、風雅の聞こえ高い貴公子で歌も書もよくした。「新古今集」には、自ら「仮名序」を執筆し、巻頭歌に古京・吉野の立春を詠っている。
 この歌は、「万葉集(人麻呂の山鳥の歌)」や「古今集」にある歌を本歌にしているが、本居宣長は「この歌、万葉集に入れても古今集に入れてもすぐれた歌なり」と高く評価している。「こおろぎの枕近く鳴く寒い霜夜に、ただ一人で寝ているわびしさが、しみじみと感じられる歌である。貴族の中でも最高の地位にあった作者が、このような寂しさやわびしさを求めるところに、時代の姿があるのであって、さびやわびにひそまってゆこうとする、中世美意識の方向がわかるように思われる。」(石田吉貞)
 江戸期の尾崎雅嘉著の「百人一首一夕話」によると、良経は、「新古今集」がひとまず成立した翌年に「一夜寝に就くに、天井より槍を降して」何者かに殺害されたという。その真相については諸説があるが、「新古今集」の序文の執筆をめぐる確執や妬みであったとも言われている。武家の台頭により大きく時代は変転し、やがて「承久の変」という、皇族、貴族を巻き込んだ戦乱が勃発するきざしがある中で、トップの政治家が、命を惜しまず風雅に徹する「風狂の精神」には驚かされる。
 尋常小学唱歌「青葉の笛」の二番は、都落ちする薩摩守忠度が、いつか撰集に加えてほしいと俊成に自作の歌を託す逸話を歌詞にしている。貴族にせよ武士にせよ、動乱の世にあって、有限の命を超えて自分の思いを託せるものは、歌であった。まさに「芸術は長く、人生は短し」である。
            

雨霽(はる)る

2010-11-17 09:53:08 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・新古今集耕読(4)
雨霽(は)る

五十首歌たてまつりし時      寂蓮法師
村雨の 露もまだひぬ 真木の葉に 霧たちのぼる 秋の夕暮
 村雨の露もしっとりとしてまだ乾かない真木の葉から、うっすらと霧が立ち昇っている秋の夕暮時。

 定家が親類の邸の障子を飾るために、楽しみながら選んだとされる「小倉百人一首」にも採られている著名な歌である。寂蓮は、「新古今集」の撰者に推挙されていたが、その心労のためにこの歌を詠んだ翌年に亡くなり、任務が果たせなかった。出雲大社にも参詣して、「天雲たな引く山のなかばまで、かたそぎ(千木)のみえける」本殿の巨大さに感嘆した歌を残している。
 この歌は、秋の夕暮れ時に、村雨がひとしきり降り過ぎたあとの露に濡れた常緑の木立に立ちのぼる夕霧の実景を捉えたものである。新古今集の撰者にノミネートされた感激を胸に秘めた、作者の精神の昂揚が、ゆるみのない調べとなっている。
 さきに取り上げた「三夕の歌」の冒頭でも、寂蓮は、同じような「真木立つ山の秋の夕暮」の景を詠っており、檜や杉など色気のない「むくつけき」素材の中に深い、新しい美を見いだしている。これは、「出家隠遁して、草庵や行脚の深い経験を持つ作者の魂のさびしさであり、ひいては作者の棲んでいた中世のさびしさでもあるように思われる。」(石田吉貞)

 私は、遠来の客を迎えたりすると、安来の「足立美術館」に案内することが多い。当館所蔵の横山大観の作品は、いずれも見所が多いが、私は、彩色画よりも水墨画のほうに惹かれる。『朝嶺・暮嶽』『雨霽(は)る』などの作品は、水墨の濃淡のみによって山容や大気の雰囲気を見事に描き分けている。
 これらの水墨画を見ると、私は決まって寂蓮のこの歌が思い浮かんでくる。色彩や音声のない世界は、余計な刺激を受けない分、何か、原初的な荘厳な美を現出させる。近時話題の、CGや3Dを駆使した映画(例えば「レッド・クリフ」や「アバター」)を観ると、ただただ驚かされるばかりで、後に何も残らない。   

宿命下の抒情

2010-11-10 07:32:44 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・新古今集耕読(3)
宿命下の抒情         

百首歌たてまつりし時、秋の歌  式子内親王
桐の葉も 踏み分けがたく なりにけり かならず人を 待つとなけれど
 桐の落葉も踏み分けにくいほどに積もりました。といって、わたしはかならずしも訪れてくる人を待っているわけではないのですが。

 式子内親王は、後白河天皇の第三皇女で、1159年、斎院となり、11年間ほど加茂神社に奉仕し、退下後も独身のまま生涯を終えた。兄宮・以人王は、源三位頼政とともに平家討伐のために挙兵し、無残な最期を遂げた。
 この歌は、「わが宿は 道もなきまで 荒れにけり つれなき人を 待つとせしまに」(古今集)を本歌にしている。しかし「新古今集特有の修辞法を用いて、心の奥底では恋人の訪れを待っていることを暗示的に表現している」とする通説に、私は従いたくはない。
 式子内親王の生きた時代は、変転きわまりない世の中だった。藤原氏に代わって武家の平氏が台頭し、帝位は次から次へとたらい回しにされ、一介の女房が中宮になり、女院となる。もとより作者のような「内親王」は、自分より身分の低いところへ嫁ぐことはできない。内面にゆるぎない自負と鋭い感性を秘めていながら、何もかも耐えて生きていくほかなかった。
 この歌は、作者が不治の病中にある時の作である。数か月後に死が迫っている作者の目に庭一面の桐の落葉がどう映ったか。「新古今集の歌人たちは、いずれも虚構的態度の上に立って、虚構性の歌を作っている。ところが、この作者は、真実のいのちの悲しみの上に立って、歌の虚構性を借り着しているのである。」(石田吉貞)

思えば、これまでどれほど多くの日本人たちが、過ぎゆく秋の寂しさを歌にしてきたことか。そしてその大半は、感傷的、類型的なものである。凋落の秋の哀韻を真に聞き知ることができるのは、宿命に従って生き、孤独のなかで死を迎えようとする人である。「かならず人を待つとなけれど」と、ことさら自嘲的に詠まれた内親王の乾いた心境を思うと、いたわしいかぎりだ。

知的な叙情歌

2010-11-03 09:34:47 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・新古今集耕読(2)
知的な叙景歌         

和歌所歌合に湖辺ノ月といふことを
藤原家隆朝臣
にほの海や 月の光の うつろへば
波の花にも 秋は見えけり
 にほの海よ、月の光が映ると、四季を分たぬ白い花のような波頭にも秋の気配は見えたよ。

 日本史上、文武両道にわたって最も活躍した天子・後鳥羽院は、平家一門とともに西海に没した安徳帝の弟君である。若くして上皇となるや、1201年に宮中に和歌所を開設し、5人の寄人(所員)に撰集のための和歌選進の院宣を下された。藤原家隆は、その一人で、定家とともに新古今歌壇を背負って立つ二大柱石であった。
 この歌は、詞書にあるとおり、題詠である。「万葉集」において和歌は、現実体験にもとづき、その思いを実情的即興的に詠まれていた。しかし平安時代中期以降は、与えられた題にしたがって、実感よりも頭で作り上げるものになってきた。この歌は、「湖辺ノ月」という漢詩風の題から「にほの海(琵琶湖)」の月夜の情景を思い描いたものである。
 さらに、この歌は、古今集の「草も木も色かはれどもわたつ海の浪の花にぞ秋なかりける」(文屋康秀)を本歌としている。家隆は、本歌に触発されて月光の下で見る冷たく光る白波の情景を想像し、透き通るほど美しい「秋」を作り上げたのである。「『古今』の康秀よりも『新古今』の家隆の作のほうが、少し繊細で美しい。それは家隆の心に咲いた、ひとつの幻の花でもある。」(尾崎左永子)
 今日、短歌を題詠として作ることはほとんどない。わずかに宮中で催される歌会始に、題詠の伝統が残っている。前の年に「勅題」(歌のキーワード)が提示され、それをもとに海外居住者を含めて数多くの国民が苦吟する。そして、年頭の歌会で、皇族の歌に続いて、健全な生活実感をそなえた、調べの高い入選歌がゆったりと朗唱される。千三百年の永きにわたり、日本の叙情歌はゆっくりと成熟し、現世においても厳然として存立しているのである。