竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

『世に面白き本などの話』(3)   司馬さんの長嘆息

2015-06-30 15:26:38 | 日記
『世に面白き本などの話』(3)  
    司馬さんの長嘆息

 私が母校に赴任した教師駆け出しの頃、隣席のD先生から「今度、司馬遼太郎さんが、出雲に来られるから、一緒に大社でも散策しないか。」と誘われたことがある。司馬さんの奥さんとは大学時代から知り合いだったらしい。その頃の私は、鼻もちならぬ若造で、「私は大衆作家には興味ない。」などと言って、すげなく断ってしまった。今にして思えば、私の人生の中でも最大級の悔恨事であった。
 ご多分にもれず、私もその後は、熱烈な「司馬ファン」になった。大概の著作には目を通している。近年は「旅行同好会」の講釈に「街道を行く」のシリーズ本が大いに役立った。9.11直前の「アメリカ旅行」にも、「ニューヨーク散歩」一冊を携帯して行った。

 新たな思いつきでスタートさせた、このブログも、いきなり「戦争と憲法」という重いテーマに遭遇することになった。言うまでもなく、現今の日本人にとっては、喫緊の政治的課題である。
 正直に告白すれば、自分の父を奪った「あの戦争」(太平洋戦争、大東亜戦争、あるいは第二次世界大戦とも)について、これまで、私は格別に深く考えたことはなかった。「国民学校」最後の入学生であった私たちは、無邪気に戦後の「民主教育」の中で成長した。
 敗戦の時、22歳であった司馬さんは、「日本人はなんとくだらない戦争をしてきたことか。」と長嘆息しながら「昭和元年」から「昭和20年」の敗戦までを「魔法にかけられた時代」と評されている。さきに紹介した湯浅君の著書にあるとおり、真珠湾を奇襲し、イギリスの戦艦をマレー沖で撃沈させた華々しい開戦の戦果に日本人のすべてが狂ってしまった。その後に日本の陸、海軍がしたことは、石油を確保するために広大な南方の島々に兵力を分散することであった。開戦後一年にして戦局は悪化した。敗戦が決定的になると、下士官の青年たちに軍服を着せ、ちゃちな飛行機に乗せて、敵機に体当たりをさせた。これが、「太平洋戦争」であった。
 70年も前に、長嘆息した「戦争」を、またぞろ始めようと言うのか。「面白き話」ではないが、このテーマについて、いまさら避けては通れまい。

   面白き本―― 「昭和」という国家  司馬遼太郎 (NHKブックス)

『世に面白き本などの話』(2)     軍国・日本の蹉跌ー『孫子』の曲解

2015-06-23 09:13:14 | 日記
  『世に面白き本などの話』(2)
        軍国・日本の蹉跌―『孫子』の曲解

 前回の予告のとおり、今回は戦後70年の節目にあたり、出版された湯浅邦弘著「軍国日本と『孫子』」(ちくま新書)のあらましを紹介したい。周知の通り、兵法書『孫子』は、あの武田信玄が「風林火山」の旗印に掲げたように、日本のマニアックな戦国武将たちに珍重されていた。
 明治維新の動騒の中で、西欧列強の圧倒的な軍事力に度肝を抜かれた新政府は、それ以降は、さすがに軍事についても、西洋兵学を模範として整備を進めていった。しかし、明治の中期を過ぎると、その反動として、日本人精神の根底にある「漢学」についての再評価の気運が高まり、再び兵学の書『孫子』が甦った。そして、「日清」、「日露」、「日中」、などの数次の実戦体験と幸運な結末によって、古典的な兵法書でありながら、徹底した合理主義に貫かれ、物質的経済的基盤を重視する『孫子』の思想は意図的に曲解されて、次第にわが国固有の「精神主義の高揚」に利用されていった。

 昭和16年12月8日、日本海軍は、ハワイの真珠湾を奇襲して、アメリカ戦艦4隻、航空機300機等を撃破し、大打撃を与えた。(この時日本の外務省と駐米大使館の不手際により宣戦布告が遅れ、結果的に国際ルールを逸脱した「だまし討ち」とされてしまった。)これを機に、アメリカ国内は、「リメンバー・パールハーバー」の合言葉で世論がまとまり、反撃の気運が一気に高まった。そして、早くも翌年4月18日には、16機のB25爆撃機が東京を空襲した。これに対抗して、日本の連合艦隊は、同年6月、連合艦隊司令官・山本五十六大将の立案により、ミッドウェイ島において総力戦を展開したが、あえなく敗北し、日本海軍の軍事バランスは一気にくずれた。
 そして、開戦後わずか1年にして、もはや修正できないところまで戦局は悪化してしまったのである。

 本書は、やや荒っぽい論考であるが、これまであまり考察されなかった明治から昭和にかけて日本軍が刻んだ戦歴と『孫子』との関係を考察しようとした、大胆で挑戦的な書である。

 折しも、いま日本では、総理が早々と米国議会で「安保関連法」による改革の断行を言あげしてしまい、国会会期を延長して、拙速な議論がなされている。
 やがては、「憲法九条」改変の大命題に辿り着くはずである。今や、日本人はすべて、この問題を避けては通れないと思っている。

『世に面白き本などの話』(1)  機を逃がさず届けられた本

2015-06-18 13:41:20 | 日記
  『世に面白き本などの話』(1)
    機を逃さず届けられた本

 前回のこのブログで、「父が戦死したあの戦争(太平洋戦争)について、わたしは何も自覚的に認識していなかった。」と補足した。無論、一連の戦争の全体図やその内実、個人の特異な体験などにいては、何冊かの本で読んだ。しかし、わたし自身の実体験としては、父の戦死の公報を受けて、石見の益田の大きな寺院に出向き、灰をまぶした石ころの入った「遺骨」を受け取ったことだけだった。
 そんなことを思って、虚ろな気分になっていた矢先に、湯浅邦弘著「軍国日本と『孫子』」の新刊書(ちくま新書 6月10日発行)が届いた。まさに機を逃さぬ絶妙のタイミングであった。
 今、世に注目されている大阪大学大学院の湯浅邦弘教授は、実は、母校の「出雲高校」で、担任として送りだした最後の生徒であった。地元に、宿願の国立医科大が設立され、医学志望の学生を養成することが、地元の進学校の急務となっていたが、大学受験対策の偏差値などというものさえ無縁な、万事がのどかで、「ロマンチックな」高校であった。そんな中で、湯浅君についても、わたしには殊更に違った印象はない。出雲弁特有の訛りの少ない、洗練された話しっぷりで、簡潔で「達意の文章」を書く生徒だった。
 彼は、郷里を離れ、大阪大学大学院に進学してから猛然と研究生活に入った。1972年、中国で『孫子』の前漢初期の竹簡が発見され、彼は、その解読者の一員に加えられた。折しも、NHKの大河ドラマで、「黒田官兵衛」が「兵法書」として、珍重していたとされており、Eテレビの「100分de名著」の講師として登場した。
 彼は、これまでも世に発表した研究論文や著書はすべて、わたしと前担任(ともに国語教師)に、律儀に送り届けてくれていたが、この度の新刊本には驚いた。2500年前の「春秋時代」の諸子百家の研究を専門としていた彼が、戦後50年の節目の年に、日本の近代史、軍事史に挑戦していたのである。
 結論はこうである。「満州事変」以降の軍国日本は、「兵学書」でありながら徹底した合理主義に貫かれた「孫子」を曲解、誤読し、精神主義偏重の気風のなかで「孫子」の名だけを担ぎあげたことが、軍国日本の命運を決したのである。
 詳細は、次回に紹介したい。

ブログ・新シリーズスタートの個人的事情(補遺)

2015-06-13 17:38:59 | 日記
  ブログ・新シリーズ 『世に面白き本などの話』
  スタートの個人的事情(補遺)

 わたしは、昨日、このブログの冒頭に次のように記載した。
「わたしは、70年もの昔、父親を戦死で喪うまでの5年間を長州・下関で過ごしたはずである。今では、私自身はもとより、そのころのことを知っている肉親も親戚もいない。云々」 この部分をもっと厳密にいえば、「父親が戦争に出征したことも、戦死したことも知らない。」のである。そのことを教えてくれたのは、昨年7月、発刊された『戦争のつくりかた』(りぼん・ぷろじえくと発行)であった。その冒頭部を引用して、追加したい。

あなたは戦争がどういうものか、知っていますか?

おじいさんやおばあさんから、/むかしのことを聞いことが/
あるかもしれません。
学校の先生が、戦争の話を/してくれたかもしれません。

話に聞いたことはなくても、/テレビで、戦争している国を見たことなら、
あるでしょう。

わたしたちの国は、60年ちかくまえに、/「 戦争しない」と決めました。
だからあなたは、戦争のために/なにかをしたことがありません。

でも、国のしくみやきまりをすこしずつ変えていけば、
戦争をしないと決めた国も、戦争できる国になります。

そのあいだには、/たとえば、こんなことがおこります。

わたしたちの国を守るだけだった自衛隊が、
武器を持ってよその国にでかけるようになります。

世界の平和を守るため、/戦争で困っている人々を助けるため、と言って。

せめられそうだと思ったら、先にこっちからせめる、/とも言うようになります。  
 げに、「人文社会系」の本は、単に「面白かった」では、済まされない。

ブログ・新シリーズ『世に面白き本などの話』  スタートの個人的事情

2015-06-12 13:15:47 | 日記
  ブログ・新シリーズ『世に面白き本などの話』
          スタートの個人的事情

 この「竹崎の万葉集耕読」のブログも、開設してからすでに6年を経過した。その間、私は、多くの先人たちの注釈を参照しながら、「万葉集」だけでなく、「古今集」「新古今集」「源氏物語」「金槐集」「山家集」にも手をのばし、その中で、よく知られている和歌を取り上げ、その歌の要点と私の個人的な雑感を書き込んできた。さらに最近では、「日本のアンソロジスト」の系譜をたどるべく、「万葉集の大伴家持伝」を記述してきた。そして、気がついてみると、わたしも齢・75歳を超え、いわゆる「後期高齢者」に仲間入りしていた。わたしは、不覚にも「古典文学」の花園で戯れているうちに、「現世」のことを忘れかけていた。男の平均寿命に達する日も間近かになっている。なにはともかく、とりあえず「古典耕読」については、ここらで一段落としておきたい。

 わたしは、70年もの昔、父親を戦死で喪うまでの5年間を長州・下関で過ごしたはずである。今では、私自身はもとより、そのころのことを知っている肉親も親戚もいない。過日、父の本家筋の「跡取り」を浄土に送り、わたしが地元に残っている一族の長老になった。
 長州・下関には、わたしは九州に出張した帰路に、一度だけ立つ寄ったことがある。もとより事前に下調べすることもなく、「日和山」の近くにあると聞いていた町名だけを頼りにして、その近辺を歩き回ってみた。全くもって、未知の風景が拡がっていた。ただ、今も公園に佇つ高杉晋作の陶像だけが、記憶の底から甦ってきた。その昔、一緒に遊びにきた姉とはぐれて、ずいぶんと長い時間、この像の下に座り込んでいた。爾来、今日まで高杉晋作は、わたしの「こころの友」になった。
 言うまでもなく、この新シリーズの表題は、今、大河ドラマで人気の晋作の辞世の句とされている「おもしろきこともなき世をおもしろく」のパロディーである。わたしは、一介の国語教師として、つましく、まじめに生きてきた。概ね平坦な毎日の連続に、「何か面白きことはないか」と言うのが、口癖になっていた。その実、わたしは気が小さくて、出不精であった。
 晋作の死を看取った野村望東尼が晋作の句のあとに、「すみなすものは心なりけり」とつけて「和歌」としたと伝えられているが、わたしの場合の付け句は「心」ではなく、「本」であった。最近の文科省は、性急に社会に必要な人材を育てるとして、「人文社会系学部」の廃止を検討しているやに報道されているが、わたしは、主にその系統を読んで、「面白」かった。このシリーズでは、近刊の本や昔読んだ本などについて、雑談風に綴っていきたい。