日本人のこころの歌―私家版・新古今集耕読(14)
後世を契る恋(俊成一)
女につかはしける 皇太后宮大夫俊成
よしさらば のちの世とだに たのめおけ つらさにたへぬ 身ともこそなれ
わかりましたよ。それではせめて後の世では一緒になるとだけでも、わたしに期待を抱かせてください。わたしはあなたのつれなさに堪えられずに死んでしまう身となるかもしれませんから。
返し 藤原定家朝臣母
たのめおかむ たださばかりを 契りにて うき世の中の 夢になしてよ
お約束しておきましょう、あなたのご期待に添いますと。ただそれだけをわたしとの御縁として、これまでのことは、この憂き世で見たはかない夢とお考えになってください。
藤原俊成は、西行より4歳年長。91歳の長寿を保って1204年に亡くなった。後白河上皇の時、皇后宮大夫に任ぜられ、6年間仕えたあと63歳で出家して釈阿(法名)となった。御子左家という歌詠みの名家に生まれ、歌壇の重鎮として、「新古今集」に先立つ勅撰集「千載集」を撰進した。
30歳の時、俊成は宿命的な恋をする。相手の女性は、自分の妻の兄・藤原為隆の妻であり、すでに子どもに隆信(のちに「源頼朝像」などで著名な画家となった)もいた。前掲の贈答歌は、夫・為隆が出家して寂超となり大原に住むようになってから、寡婦となった女が、俊成と交わした相聞歌である。
男は恋の切なさに耐えきれず、せめても後世においては思いが成就するようにと願い、女は今生の恋に対してはためらいながらも、男の願いを受け入れている。結局のところ俊成の灼熱の思いが成就し、今生で結婚してその後五十年にわたりこの女性を愛しつづけ、藤原定家や成家を生んだ。この恋が実った前後から、俊成は颯爽と歌壇に登場し、当代の和歌・歌論の第一人者として確かな地位を占めるようになった。
障害に屈せず、思いを遂げた激しい恋によって、俊成の歌の道がより深く、美しく磨きあげられたことは、疑うべくもない。
後世を契る恋(俊成一)
女につかはしける 皇太后宮大夫俊成
よしさらば のちの世とだに たのめおけ つらさにたへぬ 身ともこそなれ
わかりましたよ。それではせめて後の世では一緒になるとだけでも、わたしに期待を抱かせてください。わたしはあなたのつれなさに堪えられずに死んでしまう身となるかもしれませんから。
返し 藤原定家朝臣母
たのめおかむ たださばかりを 契りにて うき世の中の 夢になしてよ
お約束しておきましょう、あなたのご期待に添いますと。ただそれだけをわたしとの御縁として、これまでのことは、この憂き世で見たはかない夢とお考えになってください。
藤原俊成は、西行より4歳年長。91歳の長寿を保って1204年に亡くなった。後白河上皇の時、皇后宮大夫に任ぜられ、6年間仕えたあと63歳で出家して釈阿(法名)となった。御子左家という歌詠みの名家に生まれ、歌壇の重鎮として、「新古今集」に先立つ勅撰集「千載集」を撰進した。
30歳の時、俊成は宿命的な恋をする。相手の女性は、自分の妻の兄・藤原為隆の妻であり、すでに子どもに隆信(のちに「源頼朝像」などで著名な画家となった)もいた。前掲の贈答歌は、夫・為隆が出家して寂超となり大原に住むようになってから、寡婦となった女が、俊成と交わした相聞歌である。
男は恋の切なさに耐えきれず、せめても後世においては思いが成就するようにと願い、女は今生の恋に対してはためらいながらも、男の願いを受け入れている。結局のところ俊成の灼熱の思いが成就し、今生で結婚してその後五十年にわたりこの女性を愛しつづけ、藤原定家や成家を生んだ。この恋が実った前後から、俊成は颯爽と歌壇に登場し、当代の和歌・歌論の第一人者として確かな地位を占めるようになった。
障害に屈せず、思いを遂げた激しい恋によって、俊成の歌の道がより深く、美しく磨きあげられたことは、疑うべくもない。