竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

後世を契る恋

2011-01-26 08:39:13 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・新古今集耕読(14)
 後世を契る恋(俊成一)

  女につかはしける    皇太后宮大夫俊成
よしさらば のちの世とだに たのめおけ つらさにたへぬ 身ともこそなれ
 わかりましたよ。それではせめて後の世では一緒になるとだけでも、わたしに期待を抱かせてください。わたしはあなたのつれなさに堪えられずに死んでしまう身となるかもしれませんから。
  返し          藤原定家朝臣母
たのめおかむ たださばかりを 契りにて うき世の中の 夢になしてよ
 お約束しておきましょう、あなたのご期待に添いますと。ただそれだけをわたしとの御縁として、これまでのことは、この憂き世で見たはかない夢とお考えになってください。             
 
 藤原俊成は、西行より4歳年長。91歳の長寿を保って1204年に亡くなった。後白河上皇の時、皇后宮大夫に任ぜられ、6年間仕えたあと63歳で出家して釈阿(法名)となった。御子左家という歌詠みの名家に生まれ、歌壇の重鎮として、「新古今集」に先立つ勅撰集「千載集」を撰進した。
 30歳の時、俊成は宿命的な恋をする。相手の女性は、自分の妻の兄・藤原為隆の妻であり、すでに子どもに隆信(のちに「源頼朝像」などで著名な画家となった)もいた。前掲の贈答歌は、夫・為隆が出家して寂超となり大原に住むようになってから、寡婦となった女が、俊成と交わした相聞歌である。
 男は恋の切なさに耐えきれず、せめても後世においては思いが成就するようにと願い、女は今生の恋に対してはためらいながらも、男の願いを受け入れている。結局のところ俊成の灼熱の思いが成就し、今生で結婚してその後五十年にわたりこの女性を愛しつづけ、藤原定家や成家を生んだ。この恋が実った前後から、俊成は颯爽と歌壇に登場し、当代の和歌・歌論の第一人者として確かな地位を占めるようになった。
 障害に屈せず、思いを遂げた激しい恋によって、俊成の歌の道がより深く、美しく磨きあげられたことは、疑うべくもない。

桜花によせる愛着

2011-01-19 08:16:49 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・新古今集耕読(13)
桜花によせる愛着(西行五)

  花の歌とてよみ侍りける    西行法師
吉野山 こぞのしをりの 道かへて まだ見ぬかたの 花をたづねむ
 去年つけておいたしおりの道を変えて、この吉野山のまだ見ていない方角の花を尋ねよう。

 西行の出家遁世の直接の原因については、身分違いの恋ゆえか、親しい友人の急死のせいか、定かではないが、彼は恋人や友人を想う気持ちと同じように自然を愛した。殊に花(桜)に対しては、異常と言っていいほどの愛着を持っていた。
 この歌は、実際に吉野山で詠んだ歌とは限らないが、「一目千本」と言われる吉野桜を「去年、目印しをつけておいた道を変えて今年は尋ねてみよう。」という執着は、実感であろう。
 「彼(西行)は、自然を友として愛すれば愛するほど、さびしくなった。そして淋しき心と調和する自然を友として交はらんとした。(しかし)寂しさの奥には尚深刻な寂しさがあるのみで、愛の真の歓びは見出されなかった。かくて彼はまばゆき光明にも、力強い信仰にも接することなく、未来に対する淡い希望と自然の寂しい慰藉とのうちに生を終へたのである。」(土居光知)
 「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃」西行が七十三歳で亡くなったのは、1190年2月16日、桜の咲く頃であった。西行は、この歌の願いどおり、出家遁世の長い思い悩みの果てに、安らかな死を迎えたとされているが、果たして真実かどうか。「新古今集」の中に、最多の九十四首も採録され、当代の歌人達だれもが憧れるような人生を歩んだ人物として、敬愛されていたこの歌僧を私たちはどう理解したらいいか。数多くの評伝を読んでも、謎は深まるばかりである。

恋の懊悩

2011-01-12 08:37:25 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・新古今集耕読(12)
 恋の懊悩(西行四)

  題しらず           西行法師
はるかなる 岩のはざまに ひとりゐて 人目思はで 物思はばや
 遙か隔たった岩の間にたった一人でいて、人の見る目を気にせずに恋の物思いにひたりたい。
 
 西行法師は、さまざまな歌集に300首あまりの恋の歌を残しているが、そのほとんどが悲恋の思いを詠ったものである。この歌のテーマも下句で分かるように「忍ぶる恋」である。それも上句からすると恋人とははるかに離れており、恋の成就など到底なしえない状況にあるらしい。
 『源平盛衰記』によると、西行はさる高貴な女人と深い仲となり、一度だけの契りをむすんで、出家したという。その相手は待賢門院璋子だとするのが、今日ではもはや通説となっている。待賢門院は、西行と縁の深い徳大寺家の生まれで、西行が北面の武士として仕えていた鳥羽院の後宮に入って、崇徳、後白河両帝の生母となった人である。
 門院は、幼少のころから白河上皇に鍾愛されており、表向きはその孫・白河天皇の中宮となったものの、崇徳の実際の父は、祖父であることは半ば公然たる事実とされていた。門院は、西行よりも17歳も年長であった。42歳の時に法金剛院で落飾され、法名は真如法と呼ばれていた。23歳で自らこの世を断念して出家遁世の道を選んだ西行に遅れること、わずか二年であった。
 「白河王朝の宮廷で奔放華麗な存在であった女院は、若き義清(西行)にとって二重三重に意味の重畳する女人であったはずである。政治体制上の国母であり、精神的欲求の中では神話的女性であり、人間的・肉体的レヴェルにおいては秘密のエロスの結晶であった。」(高橋英夫)
 少壮の武人・義清は、女院という永遠のマドンナに惹きつけられ、懊悩の果てに、西行という複雑、多重な詩人として再生したのであろう。

草庵を結ぶ(西行三)

2011-01-05 10:37:54 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・新古今集耕読(11)
 草庵を結ぶ(西行三)

                西行法師
さびしさに 堪えたる人の またもあれな 庵ならべむ 冬の山里
 このさびしさにじっと堪えている人が、わたしの他にもいてほしいなあ。そうしたらともに庵を並べよう、この冬の山里で。

 出家遁世後の数年間、西行は都の周辺の東山、鞍馬、大原、嵯峨の地で草庵生活をしていた。その後、旅に赴いた先でも庵を結ぶことが多かった。四国・善通寺の火上山、吉野山、二見の安養山、宇治の岩井田山などにその跡と伝えられているところがある。わたしは、学生時代に吉野山の庵を訪ねたが、それは想像以上に簡素なものであった。(聞くところによれば、近年は観光戦略により周辺が整備されて、どこかの別荘の東屋風の瀟洒な趣きになっているという。)
 この歌についても、ほとんどの注釈書は、「寂しさに耐えてきたが、もはや耐えきれない心境を吐露したもの」と解しているが、そうではないと思う。「(西行が求めているのは)自分と同じように寂しさに耐えて今やその寂しさを克服した強い友である。庵を並べて寂しさを慰め合おうというような女々しい心境ではなく、強い、独立した人間同士の、お互いに寄りかかり合わない、さわやかな交際を希求する心である。」(吉岡廣)
 「家富み云々」と評される境遇にあった西行は、出家後も親戚や知人から経済上の援助の手が差しのべられたのかもしれない。しかし西行自身は、草庵の無一物の生活に徹しようと努めた。山深いところで、孤独に生きてこそ、心はいっそう清澄な境地に達することができると考えたからである。
「たとえ山ふかい草庵生活への憧れを有していても、そのことを実行することのない多くの都の人々の、ついに味わい知ることのない深い『あはれ』を、西行は体験していた。その喜びのなかに、西行の人生や詩の真髄はあったのである。」(安田章生)