竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

秋風が立つ

2010-08-04 06:47:47 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・古今集耕読
 秋風が立つ         (18)

  秋立つ日よめる   藤原敏行朝臣
秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども
風のおとにぞ おどろかれぬる
 景色を見ているだけでは、はっきりとわかりかねるが、風の音を聞くにつけ、ふと、秋が来ているのだな、と気づかされた

 巻第四・秋歌上の巻頭の歌。陰暦七月一日(立秋)の暦上の知識を踏まえて詠んだ歌である。「秋がやってきた。が、そういうふうにはっきりと見えないと、まず否定しておいて、風の音でハッと気づいたというのである。『目にはさやかに』の『さや』は、さやさやと吹く風の音を呼び起こすうまい表現である。」(大岡信)
 秋風を詠んだ歌としては、「万葉集」では例えば、「秋風は 涼しくなりぬ 馬並(な)めて いざ野に行かな 萩の花見に」(作者未詳)の歌のように、秋特有の具体的素材を配して日常的な生活の中で表現している。ところが、「古今集」になると、秋風を暦の上から予感として感じてしまうのである。

 目に見えない秋風を、別の感覚で捉えるというこの歌の発想は、後世の多くの詩歌にも採られている。郷愁の俳人として私の好きな与謝蕪村は、「唐黍(とうきび)の おどろきやすし 秋の風」と、夏の終わりに無骨な風情で立ち並ぶ一群の唐黍に秋風が立つさまを見事な取り合わせで表現している。中唐の詩人・白楽天には、「蕭颯(しょうさつ)タル涼風(草木をざわめかせながら吹く風)」が、「悴鬢(すいびん・年老いて薄くなった髪の毛)」に吹いてくるという、老境の身につまされる詩がある。
 大正期になって、西条八十が童話雑誌「赤い鳥」に発表した「誰が風を みたでしょう? 僕もあなたも 見やしない けれど木の葉を ふるわせて 風は通りぬけてゆく。」という訳詞は、文部省から検定認可を与えられて、長く小学唱歌として唱われてきた。
 これらは、いずれもどこか象徴詩のような垢抜けた作品になっている。
        

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