竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

「かな」という表音文字

2012-06-29 09:50:37 | 日記
 日本人のこころの歌・こぼれ話
  ざっくり古代和歌文学史 (8)

「かな」という表音文字
        (日本語の特性二)

「孤立語」である日本語は、母音を主体に音声認識をする、世界でも「珍しい言語」である。因みに「珍しい 言語」をその母音だけで発音しても、「エウアイイ エンオ」となり、大旨のところはほぼ理解できる。このように、言語の音韻を母音を主体に音声認識をする「母音語族」は、日本語のほかにはポリネシア語、ハワイ語があるのみだと言われている。欧米各国やアジア各国の言語は、すべて子音を主体に音声認識している「子音語族」である。

周知のように、まだ自前の文字を持っていなかった古代の日本人は、表意文字である漢字の発音だけを借りた「万葉仮名」によって、日本の口語を記述していた。その「万葉仮名」を略体化させて創りだしたのが、カタカナとひらがなである。漢字の一部を取って生まれたカタカナは、漢文訓読の送り仮名として、主に男性に使用されたが、漢字をくずした草仮名から生まれたひらがなは、手紙や和歌を記述する手段として、女性たちに用いられた。

日本語は、かな1文字が音声認識の1単位となっている。また、日本語のリズムは、1つの発音単位を1拍として、手拍子のように几帳面に構成されている。和歌は、5・7・5・7・7の拍という発音単位があるからこそ生まれた日本独自の短詩形文学である。

「母音語族」は、母音を言語脳で聴き取り、それを身体感覚に結びつけることができる。母音と音響波形の似ている自然音もまた言語脳で聴き取っている。だから、日本人は、虫の音や小川のせせらぎに共感できる.先祖から受け継いできたDNAによって、日本人は自然と融和し対話しながら、和歌を詠み出してきたのだ。


「訓読」という言語変換システム

2012-06-22 06:05:08 | 日記
  日本人のこころの歌・こぼれ話
    ざっくり古代和歌文学史 (7)

  「訓読」という言語変換システム
        (日本語の特性一)

 言語学上、原初の日本語がどの言語系統に属するものかについては、いまだに解明さておらず、現在ではどの語族にも属さない「孤立言語」とされている。文字については、通説では弥生時代後期の2,3世紀ごろには中国大陸から朝鮮半島経由で漢字が渡来していたとされている。しかし、それは「音声を伴った言語」としてでなく、「未知の記号で表記された隣国の文化資料」として、断片的に流入したものであった。
 7世紀以降、ようやく国家体制を整えたわが国の支配層は、モデルとすべき先進国の政治思想、宗教・文化、法律、文学として、各分野にわたるコンテンツを盛り込んだ漢字漢文資料を積極的にわが国に持ち帰るようになった。
古代の日本人は、そうした異国の文字で記述された先進文化を、バイリンガルの「通訳」を介して理解しようとはしなかった。漢字漢文の文書に「訓点」という、いわば言語変換のプログラム記号を付して、即座に「訓読」してしまう魔術的なシステムを完成させた。

 言語を、語の機能に従って形態的に類別すると、次の三種類になる。
(1)語形(尾)変化による「屈折語」―英語、ドイツ語、フランス語など。
(2)語順による「孤立語」―中国語など。
(3)付属語、活用語尾による「膠着語」―日本語、朝鮮語、モンゴル語など。

 「訓読」とは、「孤立語」の漢文に、「返り点」を付して語順を変更し、「ヲコト点―後に送りかな」を付記して、一気に「膠着語」の日本文に変換しながら内容を把握する技法である。こういう外国文書の解読法は、自国語の特性を損なわない、世界史上類例のない、有効な方法であった。

悠久不変の権威

2012-06-15 09:33:21 | 日記
 日本人のこころの歌・こぼれ話
  ざっくり古代和歌文学史 (6)

  悠久不変の権威(天皇制の変遷五)

 壇ノ浦の合戦で平氏を滅ぼした源頼朝は、鎌倉に幕府を開いた。しかし朝廷は依然として後白河院の院政下にあり、源平の争乱後も「治天の君」として専制政治を敷いていた。
 1183年、後白河院の命でわずか4歳で皇位についた後鳥羽天皇は、平氏とともに都落ちした安徳天皇と並立する異例な存在であった。後白河院の崩御した6年後の1198年には土御門帝に譲位し、以後三代の天皇の上で23年間にわたる院政を統括した。
 1201年、仙洞御所に「和歌所」を開設し、太政大臣藤原良経を筆頭とした上流貴族を中心に「寄人」を集め、濃密で昂揚した和歌のコミュニティーを形成した。そして間髪をいれず6人の撰者に「新古今和歌集」選集の院宣を下した。1205年(「古今和歌集」撰上から干支が五巡した300年後)に完成の竟宴が催された。
 さらに後鳥羽上皇は、「万葉集」や「古今集」が編纂された時代のように、皇族親政を復活させるべく、1221年、鎌倉三代将軍の源実朝が暗殺された後で、将軍が不在になった機に乗じて、執権北条義時追討の院宣を発し、挙兵した。これが「承久の変」である。
 頼朝の妻・北条政子の御家人への呼びかけが功を奏し、19万の幕府軍が編成され、京都はわずか1カ月で制圧された。
 後鳥羽院は隠岐に配流され、都に還御することもなく、「新島守」のまま憤死した。鎌倉幕府は急遽、後鳥羽院の兄宮(後高倉院)を「治天の君」とし、その子を後堀河天皇とした。
 この「承久の変」により幕府の支配勢力は全国に及び、実質的な武家社会となった。朝廷の権力は怒涛のように崩壊し、以後、希有な男系の血筋を保持しながら、儀礼的・祭祀的行事の主宰者としての「悠久不変の権威」だけが継承されることになった。


院政から武家政治へ

2012-06-08 09:55:54 | 日記
  日本人のこころの歌・こぼれ話
   ざっくり古代和歌文学史 (5)

  院政から武家政治へ(天皇制の変遷四)

 1086年、白河天皇は堀河天皇に譲位して、上皇となり、いわゆる「院政」がスタートした。院政とは摂関政治に代わって、今度は天皇の父方の祖父が政治の実権を握るしくみである。白河上皇自身が次代の天皇を決定する権限を持ち、鳥羽帝、崇徳帝と直系の子孫を即位させた。さらに、天皇家の家長「治天の君(本院)」として、弱まっていく摂関勢力を吸収して、貴族社会の「棟梁」となり、荘園の整理を断行し、院庁には北面の武士を駐在させた。
 白河院が崩御すると、孫の鳥羽院が本院となった。「叔父子」などの噂のあった崇徳天皇は、異母弟・近衛天皇に譲位を余儀なくされ、近衛も若くして崩御すると、続いて同母弟・後白河天皇が即位した。このため、崇徳新院の実子が天皇となる道は断たれ、恨みが募った。
 1156年、鳥羽院が崩御すると、後白河天皇は、崇徳院が藤原頼長らと共謀して反乱の準備をしているという信西の意見に従って、義朝や清盛などの軍勢で夜襲攻撃をしかけ、戦に敗れた崇徳院は讃岐国に配流された。これが「保元の乱」である。
 続いて、1159年、後白河院と二条天皇の対立から「平治の乱」が勃発したが、実質的には源氏と平氏との武士の抗争であった。1167年、この戦いに勝利した平清盛は、武家出身で初めての太政大臣に昇進し、政治の実権は、上皇、天皇、貴族(藤原氏)から離れて、このあと長く武家に遷ることになった。
 流刑地に配流されたままで、ついに都への還御がかなわなかった崇徳院は、自分の指を噛み切り、滴る血で「天下滅亡」の呪いの言葉を書き残し、憤死したと伝えられている。その言葉どおり、その後、都では飢饉や洪水が続き、後白河院と平氏は対立を深め、院政は停止されて、平氏は専横を極めた。こうして、362年間にわたり戦乱もなく続いた王朝は、武士の合戦に翻弄されて、1185年の壇ノ浦の戦いで、王権の象徴である「三種の神器」も海の藻屑と消えた。

天皇親政から摂関政治へ 

2012-06-01 10:04:28 | 日記
  日本人のこころの歌・こぼれ話
   ざっくり古代和歌文学史 (4)

  天皇親政から摂関政治へ(天皇制の変遷三)

 794年、それまでは天武系で一貫していた皇統が、天智系へと移行し、桓武天皇が平安京へ遷都した。それ以降の平安朝初期の天皇は、律令制の立て直しを図り、精力的に政治改革を推進した。宮廷では再び漢詩文などの唐風文化がもてはやされた。天皇の権威が安定してくると、藤原(北家)氏は一族の娘を次々と天皇の后として入内させ、勢力を拡げていった。
 866年、9歳の清和天皇が即位すると、その外祖父の藤原良房が、人臣ながら初めて摂政太政大臣に就任した。さらに、その養子・藤原基経は陽成天皇(9歳)の摂政になり、887年には次代の光孝天皇(55歳)の関白になった。こうして藤原氏は、着々と権力基盤を整え、いわゆる「前期摂関政治」を実現していった。
 基経が没すると、藤原氏との外戚関係がなくなり、宇多天皇は、しばらく摂関の設置を中断して天皇親政をとり、「寛平の治」として高く評価された。この時代に抜擢されたのが菅原道真である。894年、右大臣・道真の建議により、遣唐使が廃止され、国風文化、とくに和歌が、宮廷貴族の教養として重んぜられるようになった。
 しかし、次の醍醐天皇が即位するや、左大臣・藤原時平のざん言で大宰府に左遷され、道真は2年後に失意のうちに憤死した。醍醐天皇は引き続き親政を行い、「延喜の治」と呼ばれたが、道真に対する鎮魂の思いもあったのであろうか、905年には日本最初の勅撰集「古今和歌集」上撰の詔勅を下し、さらに道真を祀る「北野神社」を建立した。
 その後、藤原氏は再び勢いを取り戻し、中でも藤原道長は、995年、一条天皇の生母・詮子の強い助言で摂政に準ずる「内覧」の宣旨を受け、摂関政治の黄金時代を築いた。天皇の権威は「祭祀王」に純化され、10世紀以降は、「徳政の証し」として継続的に勅撰和歌集の編纂の勅を下すことが定着した。