竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

日本のアンソロジストたちー大伴家持伝(6) 家持と坂上家の母子

2014-12-26 09:59:36 | 日記
  日本のアンソロジストたち―大伴家持伝(6) 家持と坂上家の母子

○忘れ草 我が下紐に 付けたれど 醜(しこ)の醜草 言にしありけり(巻四)家持 
(忘れ草を着物の下紐にそっとつけて、忘れようとはしてみたが、とんでもないろくでなしの草だ、忘れ草とは名ばかりであったわい。)  
 これは、大伴家持が坂上家の大嬢に贈った歌の一首である。この歌の詞書の注記に、「離絶すること数年、また会ひて相聞往来す」とあるとおり、二人の仲はこれまでしばらく中断していたようだ。その原因については、ことさらに書かれていないが、家持がある妾妻(正妻に次ぐ女性)と同棲し、若子までもうけたことが、大嬢の実母・坂上郎女の不興を買ったのではなかろうか。

 ところが、739年(天平十一)、家持20歳のころ、その妾が突然に世を去った。次の歌は、家持の「亡妾歌十三首」のうちの冒頭と結びの歌である。
○今よりは 秋風寒く 吹きなむを いかにかひとり 長き夜を寝む (巻三)
(これからは秋風がさぞ寒く吹くであろうに、どのようにしてたった一人で、その秋の夜長を寝ようというのか。)
○昔こそ 外にも見しか 我妹子が 奥城(おくつき)と思へば 愛しき佐保山 (巻三)
(これまでは関係ないものと見ていた山だけれど、今はわが妻の墓どころだと思うと慕わしくてならない、あの佐保山は。)  名も知れぬ若い妾は、幼児を遺して世を去り、佐保山のほとりで火葬に付された。家持にしては、八年前の父の他界につぐ愛する人との死別であった。家持は人麻呂の「泣血哀慟歌」や臆良の「日本挽歌」などの長歌を思い起こしながら、自身で初めての「哀悼長歌」も作った。

 それから二、三か月が過ぎたころ、坂上郎女は、亡夫・宿奈麻呂の遺領の竹田庄に滞留していた。母のもとには長女の大嬢もいた。郎女から家持のもとへ迎えの使者がきた。

○玉鉾の 道は遠けど はしきやし 妹を相見に 出でてぞ 我が来し (巻八)
(道のりは遠いのですが、お懐かしいあなたにお目にかかりたくて、私は出かけてきたのです。) 
○あらたまの 月立つまでに 来まさねば 夢にし見つつ 思ひぞ我がせし (巻八)
(月が改まるまでもおいでにならないので、いつも夢に見ては、あなたのことをとても恋しく私は思っていたのですよ。)
 前の家持の歌には、久しぶりに竹田庄に妹を訪ねた歓喜が息づいているし、後の郎女の唱和には来訪を待ちわびた微妙な心情が伺える。和解に安堵した二人の胸中には、言うまでもなく大嬢の存在があった。これを機に、しばらくの隔絶のあと家持と大嬢との恋も復活した。冒頭の家持の歌は、今も昔と変わらぬ大嬢への恋情を吐露したものであった。

日本のアンソロジストたちー私家版・大伴家持伝(5)家持に恋した女人

2014-12-20 08:46:02 | 日記
 日本のアンソロジストたち―大伴家持伝(5)家持に恋した女人たち

 家持は、笠女郎と同時進行のかたちで、この他にも幾多の女人と「行きずりの恋」があったようである。(万葉集巻第四 相聞)に所収されている家持に係る歌の大部分は、相手の女人たちだけの一方的な恋歌であり、それに応じた家持自身の歌は少ない。
○物思ふと 人に見えじと なまじひに 常に思へり ありぞかねつる  山口女王
(物思いをしていると他人に気取られまいと、むりやりにいつも平気を装っています。ほんとうは恋しくて死んでしまいそうなのです。)
これは五首並べて採録されている歌群の中の一首で、作者の片恋の想いがしだいに激しくなっていくように編成されている。
○さ夜中に 友呼ぶ千鳥 物思ふと わびをる時に 鳴きつつもとな  大神女郎
(真夜中につれを求めて呼ぶ千鳥よ。恋の思いに沈んで私がしょげかえっている時に、むやみやたらと鳴いたりしてー。)
この歌は、友を求めて鳴く千鳥と違って、自分にはその相手もいないと片恋のやりきれなさを詠じている。
○いなと言はば 強ひめや我が背 菅(すが)の根の 思ひ乱れて 恋ひつつもあらむ
(あなたがいやとおっしゃるならこの私が無理じいしたりするものですか。長い菅の根のようにちぢに思い乱れていつまでも慕い続けていましょう。)
この歌の作者・中臣女郎は、伝不詳。五首の「片恋」の歌の連作であるが、はじめの四首はすべて独詠歌で、この最後の一首だけが相手に語りかけるかたちをとり、心中の恋情が最高潮に達するという構成になっている。
○ぬばたまの その夜の月夜 今日までに 我れは忘れず 間なくし思へば
(あなたにお目にかかったその日を思うにつけ、慕わしさに涙があふれ、今日までずっと袖の乾くいとまもありません。)
河内百枝郎子の独詠歌二首のうちの後の歌。「その夜」のことは、自分だけが知っており自分だけの脳裏に相手の姿を焼き付けたというのである。それを強調するだけ、本当はなじみが深いのであって、この女性は男の扱いに手馴れた遊行女婦(うかれめ)であったのかもしれない。

○千鳥鳴く 佐保の川門(かわと)の 清き瀬を 馬うち渡し いつか通はむ
(千鳥が鳴く佐保川の渡し場の清らかなせせらぎを、馬で駆け渡って、あなたの所へ早く通いたいものだ。その日が来るのはいつのことか。)
この歌だけは、大伴家持自身の歌で、「娘子に贈る歌七首」のうちに一首。家持は21歳で内舎人に任ぜられ、宮廷に出入りするようになった。あるいはその頃逢って、憧憬した女性かもしれない。これは実景に裏打ちされた歌ではなく、自身の騎馬姿を想像して、自己陶酔しているのであろう。

日本のアンソロジストたちー私家版・大伴家持伝(4) 佐保の青春と恋

2014-12-12 13:43:15 | 日記
  日本のアンソロジストたち――私家版・大伴家持伝(4) 佐保の青春と恋

 家持は、平城京の主なき佐保大納言家の邸宅に帰ってから、大学に通いながら官人としての文章道を学ぶ傍ら社交の術としてさかんに歌を詠みはじたとみられる。多くの貴族の子女たちと相聞歌を交わしているが、相手の女性たちとの関係については、わからない点が多い。
 表向きに家持の初恋の相手として期待されているのは、叔母・坂上郎女とその亡夫・宿奈麻呂との間に生まれた坂上大嬢であった。
○月立ちて ただ三日月の 眉根掻き 日長く恋ひし 君に逢へるかも 坂上郎女
 (月が替ってまだ三日目の、三日月のような眉を掻きながら、もう逢えるかもう逢えるかと長らく焦がれていたあなたにとうとうお逢いできました。)
○振り方(さ)けて 三日月見れば 一目見し 人の眉引き 思ほゆるかも 大伴家持
 (大空を振り仰いで三日月をみると、一目見た人の美しい眉が思われてなりません。)
 この二首は、(万葉集巻六)に相接してならんでいるが、別々のものとして記載されている。しかし、後の家持の歌は、前の郎女の歌に触発されて作ったものに違いない。拙著『万葉集耕読』の中では、二人が「作歌課題演習」として作った習作の歌とし、さらに「下種の勘ぐり」で、叔母と甥の不倫の匂いがするとまで言及していたが、そうではあるまい。家持が佐保・坂上里にある邸を訪ねた折に、坂上郎女が箱入り娘の大嬢になり代わって交わした相聞歌であろう。
 次の歌は、家持が坂上家の大嬢への思いを込めて詠んだものである。
○我がやどに 蒔きしなでしこ いつしかも 花に咲きなむ なそへつつ見む
 (わが家の庭に蒔いたなでしこ、このなでしこはいつになったら花が咲くのであろうか。咲いたならばその間いつもあなたとして眺めように。)
この頃、家持13歳、大嬢は8歳位の歳頃であろう。こんな願望を抱いていた家持であったが、いまだ幼女である大嬢を直ちに相手にする気になれず、しばらく静観することになったらしい。
 この間、家持は他の多くの女性と恋の関係にあったようだ。その中で著名なのは、笠女郎である。笠女郎の相聞歌は、「万葉集」には29首収められているが、それに応えた家持の歌は、失恋後の次の二首だけである。自分の他の歌は歌集編纂時に故意に省いたのであろう。
○今さらに 妹に逢はめやと 思へかも ここだ我が胸 いぶせくあるらむ
 (あなたが遠くへ行かれた今となっては、もう逢える機会はなかろうと思うせいか、わたしの胸はこんなに重苦しく閉ざされて晴れ晴れとしないことです。)
○なかなかに 黙(もだ)もあらましを 何すとか 相見そめけむ 遂げざらまくに
 (なまじ言葉などかけるよりも黙っておればよかった。なんだって逢いそめたりしたのだろう。どのみち想いの遂げられないさだめであったのに。)

日本のアンソロジストたちー私家版・大伴家持伝(3) 佐保の坂上郎女

2014-12-04 13:36:59 | 日記
  日本のアンソロジストたちー大伴家持伝(3) 佐保の坂上郎女

 旅人が亡くなった後、佐保大納言家に連なる大伴一族の中で、宮廷貴族社交の中心になっていたのは、その異母妹・坂上郎女であった。
 坂上郎女は、前代の佐保大納言・大伴安麿の女として生まれた。かがやくような才女的気質を持っていた。まだ幼い頃、坂上郎女は、急逝した但馬皇女と熱烈な愛をかわした穂積皇子(『耕読』34朝、川を渡った女 参照)に、寵愛された。
 その後、時の権力者・藤原不比等の息子・藤原麻呂の愛をうけ、次のような相聞歌を詠んでいる。
○佐保川の 小石踏み渡り ぬばたまの 黒馬来る夜は 年にもあらぬか(巻四)
(佐保川の小石の飛び石を踏み渡ってひっそりとあなたを乗せた黒馬の来る夜は、今年中はもうないのでしょうか。) やがて、この玉の輿の恋もうたかたのように消えた。
 そして、坂上郎女は、異母兄・宿奈麿と結婚し、坂上大嬢と二嬢の二人の娘の親となった。坂上大嬢はのちに家持の妻となり、二嬢は大伴駿河麿の妻になっている。
○玉守に 玉は授けて かつがつも 枕と我れは いざふたり寝む(巻五)
(大切な玉は番人に下げ渡したことだし、やれやれともかく私の方は、枕と二人で寝ることにしよう。)これは、意にかなった男に娘を許した母親の、安堵感と一抹の寂しさとを、冗談めかして詠った歌である。
 坂上郎女は、家持の叔母にあたり、かつは娘・大嬢の夫の姑にあたる。娘婿に対する思いやりはこまやかで複雑である。家持が佐保の屋敷に訪ねてきて、自分の別邸に帰るときには、次のような歌を詠んで、義母としてのこまやかな思いやりを伝えている。
○我が背子が 着る衣薄し 佐保風は いたくな吹きそ 家に至るまで(巻六)
(この人の着ている着物は薄い。佐保風はひどく吹かないでおくれ。この人が家に着くまでは。) しかし、例えば次のような歌はいかがであろうか。
○あらたまの 月立つまでに 来まさねば 夢にし見つつ 思ひぞ我がせし(巻八)
(月が改まるまでもおいでにならないので、いつも夢に見ては、あなたのことをとても恋しく私は思っていたのですよ。)
 この歌には、家持を一人の男性して、見つめるまなざしが女の媚びを加えてにじんでいるようにも思われる。当時は、一夫多妻で、しかも血族婚が承認されていた時代であったから、ことさらとがめることはないのかもしれない。
 彼女の作品は、「万葉集」に、84首も収録されている。時には天皇にまで献歌している。
○あしひきの 山にしをれば 風流なみ 我がするわざを とがめたまふな(巻四)
(なにしろ山住みの身の無粋者でございますから、都のみやびにうといままに私がいたしますこの振舞いを、失礼だとお咎めくだしますな。)
 この歌は、天皇に物を献上した時の作であろうが、天皇に近づいて大伴家の忠誠を示したものであろう。坂上郎女は、旅人亡き後の、大伴家の守り神であった。