竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

『ひとりごつ』(52)哲学者が捉えた「古代日本人のこころ」②「古事記」(2)

2016-06-20 10:08:40 | 日記

   「古事記」(2)その文学性と思想性 「悪と暴力の物語」 

 前回とりあげた「男女の宿命的な恋愛物語」と並んで「悪と暴力の物語」も、国の支配秩序や社会倫理と深くからみあう形で展開させている。

 神代のスサノオノミコトは、秩序破壊の権化として登場するが、彼は道徳的な悪人ではない。持ちあわせているのは特異な気性の激しさとエネルギーのすさまじさである。父・イザナギの命令に背いて追放されたスサノオは、姉・アマテラスの支配する高天原へ昇っていく。姉の執りなしも意に介せず、そこでも粗暴さは収まらない。ところが、天上界から追放されて、地上の出雲国に下ってからは「堂々たる善の英雄」に変身するのである。

 スサノオは、「荒ぶる迷惑な存在」であると同時に、恐るべき威力を持った「ありがたい存在」でもあった。地上の人びとは、ただ、その力が自分たちに有利に働くことをひすら願うだけである。その祈りの儀式が「神祭り」であった。その際、一同が声をそろえて高らかに笑うことによって、共同の気分が昂揚し、人びとの絆は一層強くなる。「笑い」は、現実を肯定する精神の発現である。「古事記」は、本質的に「現実肯定的な性向」をもった歴史書なのである。

 外国の神話のように、「神は超越性を持って絶対的な規範力を示すもの」として形象化されていない。「日本の神々の住む天上界は、人間の住む地上界に対して超越した絶対的なものでなく、むしろ地上の世界を支えるものとして生き続けているのである。」

 「神々が人間に近づき、神の世と人の世はなだらかにつながるものとなる。すると、神の世界に対する肯定観が人間の世界にも及び、神・人の連なる世界が、ともども肯定される。そこに「古事記」の現世肯定的な性格の根本がある。神々の世界の超越性の不十分さが、空間的にも時間的にも神々の世界と人間の世界をなだらかにつなぎ、物語の全体を善悪、正邪、真偽を合わせふくんだ現世肯定の物語へと向かわせるのである。」


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