竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

不遇な美男

2010-04-28 09:31:58 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・古今集耕読
 不遇な美男          (4)

 渚院にて桜を見てよめる  在原業平
世の中に たえて桜の なかりせば
春の心は のどけからまし
世の中に、桜というものがまったくなかったなら、春はどんなにかのどかな気分でいられるだろうに。

 在原業平の有名な歌。渚院とは惟喬親王(文徳天皇の第一皇子ながら藤原腹でなかったため皇位に着けず出家した)の別荘である。親王の生母と縁続きの家柄の業平は、常々親王と親交があり、この桜狩りにも同行していた。この歌についても、桜は暗に藤原氏を喩えたものとして、反藤原氏の気分を詠ったものとする説もある。だが、これは古典文学を歴史社会学的に解読しようとする人達のうがちすぎであろう。
 桜の花は、咲く前から散ってしまうまでいつも気にかかる。それほどに執着する自分の耽美的なこころを持てあましているのである。業平は、紀貫之が仮名序でノミネートした六歌仙の一人で、古今集の選者の時代よりおよそ半世紀以前の歌人である。上三句の知的な表現は、万葉歌にはない新味が感じられるが、その真率な感受性には、強く豊かなものがある。
 
 民俗学の池田彌三郎は、「在原業平という人物は、実在したことは疑うべくもないが、その実在の業平の周囲には、多くの『業平とおぼしき人物としての業平』が囲繞しており、さらにその外周には、読者の心意の上に揺曳しているいわば『幻影の人としての業平』も存在している。」とし、古代文学史上の人物では、柿本人麻呂や小野小町も似たような傾向があると述べている。
 歴史小説家の川口松太郎は、「私は歴史の陰にうずもれている不幸な人間を探り出す仕事が好きで、業平もその一つだ。世にときめいて幸福だった人物は描く気がせず、詩心を持たない英雄なども好きでない。天性の美貌と豊かな歌才に恵まれながら藤原政治に圧し潰されて栄達を阻まれ不遇のままに死んだ在五中将は、私の最も好きな人物だ」として、『在五中将在原業平』という長編小説を書いた。若い頃の私は、その多彩な女性遍歴と官能的な描写に随分興奮させられた。
         

京都の河畔に銀座の柳

2010-04-21 09:10:15 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・古今集耕読
京都の河畔に銀座の柳     (3)

 歌たてまつれとおほせられし時、
 よみて奉れる        貫之
青柳の 糸よりかくる 春しもぞ
 乱れて花の ほころびにける
あざやかに芽ぶいた柳の枝が、糸のように見える春には、ちょうど蕾がわれて花がひらく。

 これも紀貫之の歌。立春の歌と違って、これは都大路の柳と桜を眼前に見ての作であるが、単に写生的に描こうとせず、技巧的、抽象的に構成している。
 春になって芽ぶいた青柳の枝が、都大路を吹きわたる春風になびいて、糸をよりかけているように見える。その一方では桜の花の蕾がほころんで咲いているという情景である。糸で着物を織っているというイメージと着物が綻びるというイメージを対照的に想起させながら華やかな春の気分を知的に表現している。これは漢詩特有の構成的方法を和歌に導入し、その文学的水準を高めようとしたもので、いかにも貫之らしい意欲的な秀歌である。

 私は以前、今市町の高瀬川沿いに住まいしていた。その南側の自転車道路には川柳が植えられ、春にはすがすがしい色合いをみせていた。当時は今市境町の観音寺橋あたりで柳並木は途絶えていたが、ご存じであろうか、かつて東京都に出雲の椿を贈った返礼として、「銀座の柳」が届き、その数本が旧宅の前あたりまで植えられた。
 少し川上のパラオ前の親水公園付近には、派手好みの前市長の肝入りで桜が植えられ、中心市街地の町内会の皆さん(最近はシャーネ・エレーテというオシャレなネーミングのNPOで活動されている)を中心に「ひな人形流し」がにぎにぎしく行われている。
 「高瀬川」という名前は、鴨川から取水し、伏見を過ぎ淀川に通じる京都の運河の名前に肖(あやか)ったものに違いないが、今市ではそればかりか「京町」「二京町」「三京下」など京都ごかしの優雅な町名まで拝借している。しかしながら紀貫之の流れを汲む著名な在住歌人の名前はいまだ聞かない。
         

寛容なこころね

2010-04-14 09:07:06 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・古今集耕読
 寛容なこころね       (2)

 二條后の春のはじめの御歌
雪のうちに 春は来にけり 鶯の こほれる涙 今やとくらむ    (春上・四)
 雪が残って景色はまだ冬のままなのに、暦の上では春になった。山深く冬に堪えていた鶯の涙は寒さに凍っていたが、今はそれもとけて、まもなく美しい声で鳴きはじめることだろう。

 前回と同様、この歌も立春の東風が氷を溶かすという暦上の知識をもとにして作られている。三、四句の「鶯のこほれる涙」という表現は新鮮で印象的である。一、二句の眼前の実景から山奥の谷間で寒さに耐えながら春の訪れを待っている鶯を空想し、大胆に誇張した美しい表現である。
 二條后(藤原長良の娘高子)は、清和天皇の皇后であり陽成天皇の生母でもある。「古典集成」によると、古今集が編まれた延喜時代には、(東光寺の僧との密通事件が原因で)后位が停止されていた。不思議なことに、古今集は勅撰集でありながら皇族の歌はほとんど見あたらない。それなのに、この后だけは勅勘の身でありながら、この歌が採られているばかりか、他の歌の詞書の中にも三度も記述されている。
 実は、古今集と同時代に成立した「伊勢物語」の「芥川」や「業平の東下り」の段の中で、禁断の恋のヒロインとしてこの后が介在していたらしいことは、昔から読者の暗黙の了解事項となっている。
 「古今集」にせよ、「伊勢物語」にせよ、摂関政治に不満を抱く文人貴族のアンチ藤原氏の思惑が働いているとする解釈がある。ことさら政治的に捉えなくても、大岡信は「日本文学では、二條后のようなスキャンダラスなプライバシーのある人でも、文学的価値の高いものがあると、逆にパブリックなものにして抱き込んでしまう。」と指摘している。

 お説ごもっとも。わたしが好きな坂上郎女も和泉式部も西行も白秋もその例にもれない。日本最初の勅撰集にして、このように寛容な「こころね」が伺えるのはうれしいことである。
         

古今集の復活

2010-04-07 09:18:28 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・古今集耕読
 古今集の復活        (1)

 春立ちける日よめる    紀 貫之
袖ひちて むすびし水の 凍れるを
春たつ今日の 風やとくらむ(春上・二)
 袖の濡れるのもいとわず手で掬った、あの水は、冬の間は凍ってしまっていた。しかしそれも、立春の今日の風が解かしてくれているだろう。
 (原歌と口語訳は、すべて奥村恒哉校注「新潮日本古典集成古今和歌集」による)

 延喜五年(905)醍醐天皇の勅命により編纂された、日本最初の勅撰集「古今和歌集」の開巻第二首目の歌である。作者の紀貫之は、古今集選者の代表格で、「仮名序」(仮名書きの序文)の執筆者でもある。晩年には女性に仮託して、仮名書きの「土佐日記」も書いているが、当時はまだ三十代の若さであった。
 中国では「立春になると東風が吹き始め、氷をとかす」と言われており、その知識を踏まえて作った歌である。上三句で、去年の夏から冬に至るまでの水の状態をイメージして、年間を通しての季節の推移に思いを巡らせているところが主眼である。
 「万葉集」では、例えば「石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも」(志貴皇子)の歌のように、景物を直に写すことで春の到来の感動を表現した。古今集では、このように過去の記憶の中に閉じ込めていたイメージをいくつか重ねあわせて、立春の今日の喜びを一気に解き放っているのである。
 
明治の文化的革命児・正岡子規は、「貫之は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集にこれあり候」と徹底的に批判し、否定した。これに対して詩人の大岡信は「一つの経験が別の経験と重なりあい融けあって、ある情緒のかたまりを作る。こういうものの感じ方が古今集には非常に多い。」とし、「古来、多くの日本人は季節の巡りによって無意識に支配されており、古今集の形づくったモデルに従ってものを考えてきた。」と古今集の見直しを提唱している。はたしてどうか。
 正岡子規の煽動に乗って、ほとんどの近代歌人が見捨ててきた「古今集」の歌を、この際今一度復活させて、私なりに「耕読」してみたいと思う。