「源氏物語」(1) 恋の苦悩と煩悶
『源氏物語』は、「紫式部が豊かな想像力で、男女の織りなす恋、栄華、策略、嫉妬、罪責、絶望、死の世界を、時間とともに進みゆく壮大な物語に仕立て上げたものである。」
その構想については、「藤裏葉」までを第一部、「幻」までを第二部、残りを第三部とするのが通説となっている。主人公・光源氏のふるまいは、常軌を逸したものであるが、作者は、細部を丁寧に追う迫真の叙述によって、「王朝文学の新しい地平」を切り拓いている。
『源氏物語』は、『伊勢物語』と同様に、即物的な性描写を避けて、「雅びの美学」が踏まえられているが、恋の物語に対する気構えは両物語では根本的に違う。恋の苦悩と煩悶を追求しようとする『源氏物語』は、雅びの世界を超えた暗さと奥深さを持っている。恋を、男女の苦悩・煩悶・悔恨と大きく重ね合わせてとらえることによって、人間の真実の生きるすがたを追求する作品となった。「上流貴族といえども、また、上流貴族に愛されて一見仕合わせなように見える女たちといえども、その内面に錘鉛を下ろしてみれば、そこには苦渋・苦悶・悲哀・悲痛がうごめいていると考えるのが紫式部の人生観だった。そういう人生観は、雅びな恋物語を「人間の普遍性の文学的探究」へと押し上げる力をもっていた。
第一部の後半の「須磨」「明石」以降も、再び栄達の道を歩む源氏の明るい日々が描かれないで、むしろ癒されることのない恋ごころの悲哀と苦悩が追求されている。貴族社会にあっては、男女の結びつきと世俗的な栄華とは切っても切れない関係にあるが、紫式部はそこに目を向けず、相手の言動によって微細に揺れ動く内面的心情に価値があるものとして表現した。栄耀栄華の政治生活の内側には、悩み、苦しみの多い、緊張と危機をはらんだ、主体的は恋愛生活がある。それが、紫式部のとらえた王朝貴族の現世での実相であった。