竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

『ひとりごつ』(49)  哲学者が捉えた「王朝文学のこころ」④ 『源氏物語』(1)恋の苦悩と煩悶

2016-05-31 09:27:46 | 日記

  「源氏物語」(1) 恋の苦悩と煩悶

 『源氏物語』は、「紫式部が豊かな想像力で、男女の織りなす恋、栄華、策略、嫉妬、罪責、絶望、死の世界を、時間とともに進みゆく壮大な物語に仕立て上げたものである。」

 その構想については、「藤裏葉」までを第一部、「幻」までを第二部、残りを第三部とするのが通説となっている。主人公・光源氏のふるまいは、常軌を逸したものであるが、作者は、細部を丁寧に追う迫真の叙述によって、「王朝文学の新しい地平」を切り拓いている。

 『源氏物語』は、『伊勢物語』と同様に、即物的な性描写を避けて、「雅びの美学」が踏まえられているが、恋の物語に対する気構えは両物語では根本的に違う。恋の苦悩と煩悶を追求しようとする『源氏物語』は、雅びの世界を超えた暗さと奥深さを持っている。恋を、男女の苦悩・煩悶・悔恨と大きく重ね合わせてとらえることによって、人間の真実の生きるすがたを追求する作品となった。「上流貴族といえども、また、上流貴族に愛されて一見仕合わせなように見える女たちといえども、その内面に錘鉛を下ろしてみれば、そこには苦渋・苦悶・悲哀・悲痛がうごめいていると考えるのが紫式部の人生観だった。そういう人生観は、雅びな恋物語を「人間の普遍性の文学的探究」へと押し上げる力をもっていた。

 第一部の後半の「須磨」「明石」以降も、再び栄達の道を歩む源氏の明るい日々が描かれないで、むしろ癒されることのない恋ごころの悲哀と苦悩が追求されている。貴族社会にあっては、男女の結びつきと世俗的な栄華とは切っても切れない関係にあるが、紫式部はそこに目を向けず、相手の言動によって微細に揺れ動く内面的心情に価値があるものとして表現した。栄耀栄華の政治生活の内側には、悩み、苦しみの多い、緊張と危機をはらんだ、主体的は恋愛生活がある。それが、紫式部のとらえた王朝貴族の現世での実相であった。


『ひとりごつ』(48) 哲学者が捉えた「王朝文学のこころ」③  『枕草子』ーーみんなの文学

2016-05-26 15:14:26 | 日記

  「枕草子」――みんなの文学 

 「枕草子」は、清少納言の見聞・経験・感想を「連想」によって、書き綴ったもので、決してまとまりのいい書物ではない。筆者の連想は、「類想と随想と回想」の三つに類別できる。彼女は、「若いときから旺盛な好奇心と冷静な観察眼を持っていた。」彼女の捉えたものに自在な連想を加えながら、「随想」という文学形式にふさわしい「転調の妙」を会得していった。しかも、各段は宮仕えする女性たちの共同意識をしっかり踏まえて書きつづられている。

 「身近に一定の教養と美意識を具えた女房集団があり、その外に雅な貴族社会が拡がっている。清少納言にとって、そういう場こそ生きるに値する場であり、目を凝らして観察し、文字に書き記すに値する場だった。」

『枕草子』が書かれ読まれる貴族社会には『古今和歌集』や『伊勢物語』をつらぬく雅びの美学が伝統として生きていた。その伝統を踏まえつつ、それをさらに広い表現世界へと解き放つのが『枕草子』の歴史的な役回りだった。雅びの美意識を三十一文字の和歌に表現したのが『古今和歌集』であり、色好みを主題とする歌物語に表現したのが、『伊勢物語』だとすれば、それを四季の変化や社会の実相や人間心理の襞を映し出す類想的・随想的・回想的な散文表現へと拡大し、細密化していったのが、『枕草子』だということができようか。」

 「枕草子」には、時には下層階級の人々を蔑視するような文言が垣間見られる。しかしながら、「下層民の境遇には、共感も同情も持たないのが、当時の女房集団や貴族社会の共同意識のありようだった。そして、その共同意識を正直に映し出している点でも、『枕草子』は「みんなの文学」であったとも言えるのである。


『ひとりごつ』(47)哲学者が捉えた「王朝文学のこころ」② 『伊勢物語』の雅び男

2016-05-19 13:08:19 | 日記

  「伊勢物語」の雅び男

 「古今集」の撰者より前代に活躍した、いわゆる「六歌仙」と称された歌人の中で、「古今集」に採択された歌数が圧倒的に多いのは、在原業平である。その歌は、「伊勢物語」では、大抵「むかし、男」が詠んだ歌とされている。「伊勢物語」は、「古今集」の歌人たちの「貴族的な社交の雰囲気やもの憂さの気分をなどを引き継ぐように作られた歌物語である。」

 第一段は、成人になったばかりの男(業平)が、奈良の春日の里で、鄙には稀な美しい姉妹を見かけ、自分の着ていた狩衣の裾を切り、古歌を踏まえた即興の恋歌を贈ったという逸話である。「貴族たるもの、おとなの仲間入りをしたその日から、異性の美しさに敏感に反応することがよしとされるが、そこに都会風の洗練された趣向が具わっていなければならない」。つまり「色好みと歌心の二つが『雅び』の基軸をなすこと」なのである。

 第四段に至って、その美意識ないし文学思想がさらに際立ってくる。稀代のプレーボーイ業平は、二条后(?)を不本意ながら深く恋してしまう。ところが、宮は突然居所を移してしまい、もはや逢う術もない。そこで、「雅びの画竜点睛として、「月やあらぬ 春やむかしの 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして」の名歌を口ずさむのである。そこに歌われているのは月であり、春である。月や春が歌われることで、恋の苦しさが自然のなかへと溶かしこまれ、美しい情景へと昇華される。」つまり、「男の雅びなふるまいは歌を詠むという行為によって完結した像を結んでいる。」

 「『伊勢物語』の色好みは、摂関家藤原氏と他氏族との抗争に(あえて)背をむけるようにして、恋の優雅な美しさを追求する」のである。

 第八十三段は、他の逸話と違って、男(業平)が「馬頭」として登場し、惟喬皇子との男同士のこまやかな友情を確認させるものである。「女性との交情のうちに、世俗的な関係や価値意識や倫理観を抜け出した、生きる喜びと美しい情感を感じとる男は、男性との友情のうちにも同質の歓びと美しさを味わうことができる」のである。彼等はともに花月を愛し、雅やかな歌語を駆使して、政治の世界とは別世界に遊んでいた。

 文学表現においては「一定の人格を持つ人物像の形成という点では、散文による物語の記述という形式が決定的な意味をもつものである。」「古今集」随一の雅び男・在原業平の人物像が出来上がるには、「伊勢物語」の記述が欠かせないものであった。

 


『ひとりごつ』(46)哲学者が捉えた「王朝文学のこころ」① 『古今集』の共同意識

2016-05-15 09:46:11 | 日記

  「古今和歌集」の共同意識

 以前、このブログで、哲学者・長谷川宏著の『日本精神史』について紹介した。この大著には、随所に哲学者らしいユニークな認識が示されていて、私も首肯できることが多かった。浅学非才で老齢の元高校国語教師風情のわたしなどが、論評する余地はないが、「日本の王朝文学」に関する部分に限定して、長谷川氏が指摘する見解の一部を要約しておきたい。 

 明治の文化的革命児・正岡子規は、「貫之は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集にてこれあり候」と徹底的に批判した。これに対して、現代の文化的権威・大岡信は「古来、多くの日本人は、季節の巡りによって無意識に支配されていたように、古今集の形づくったモデルに従ってものを考えてきた。」として、古今集の再評価を提唱している。

 周知のように、「古今集」以前の日本のすべての思想や文学は、中国伝来の漢字・漢文により記述していた。10世紀初めに、最初に漢字仮名交じりの日本語表記にしたのが「古今和歌集」であった。長谷川氏は、その「古今集」の歌は強い共同感覚と共同意識に支えられていると指摘している。例えば、在原行平の「立ちわかれ いなばの山の 峰におふる 松としきかば 今かへりこむ」の個人的な離別の歌にせよ、機知の表現によって、お互いの辛さを和らげようとする配慮があるという。

 歌集全体の3分の1を占める恋の歌では、恋する気持ちに疑いや不安や悲しみが交じるものが多い。恋ごころの不安定さは、決して近代人の自我意識に結びつく情感ではなく、「古今集」の歌人たちも広く共有していたものであった。

 また、宮廷周辺に住む彼らは、地方の田や稲を縁遠いものに感じていた。産業の基盤をなす農作業は、「もの憂さ」の気分や「はかなさ」の情調を生活感情とする都会人には、全く無縁の、想像もできない世界であった。

 また、「古今集」では、「万葉集」の「挽歌」にあたる「哀傷歌」が少ない。死の悲しみは、遊興や社交の歌作りの境地とは相いれないものであり、都びと特有の優柔なあいまいさは、「挽歌」のモチーフである死に向き合い、思いをはっきりさせる「果断」とは、異質のものだったからである。


『ひとりごつ』(45)花海棠の散り敷く夕べ   ④終(つい)の棲家  

2016-05-08 10:25:35 | 日記

  ④ 終(つい)の棲家

 平成12年3月、わたしは母校の校長を最後に定年退職の日を迎えた。その間には、何度か、容易に解決の方途が見いだせそうにない事態に出くわし、たじろぐことはあったが、終わってみれば概ね平穏順調な教師生活であった。

 共稼ぎ世帯の父親としての任務とされる家事、育児についても、子どもに手のかかるころは、まだ母が健在で、「男子、厨房に入るべからず」の家訓が生きていた。子どもの世話はもとより、家族のあらゆる相談の窓口は、専ら妻であった。私の日曜日のほとんどは、業者の模擬試験の監督か、部活動の指導でつぶされた。決してわたしだけが特殊なのではない。それが、大規模普通高校教員一般の日常であった。

 退職の前の年に、長男は石見部や僻地勤務の人事異動のノルマを満了し、地元の高校に転勤できることになっていたので、孫の世話の都合を考えて、この際、二世帯が同居できる新居を建てることになった。わたしは、現役最後の殺人的な慌ただしさの渦中にあり、すでに数年前に辞職していた妻にすべての実権を委ねて、町はずれの転用農地に「終(つい)の棲家」を建てることにした。妻の孤軍奮闘のおかげで、建ち上がったのは、わたしたち親夫婦の棲む母屋と息子一家の過ごす対の屋とを「馬道(めどう)」(取り外しができる渡り廊下)で繋ぐ「寝殿造り」風の二世帯同居住宅であった。

  もとより、あの光源氏が、多くの女君たちと過ごした「六条院」にはとても及ばないが、それでもわたしの「数寄ごころ」から、家の周りを囲む四方の庭に、日本文学によく取り上げられる草木を植え、玄関先の春の庭には、件の花海棠を移植した。退職後16年目のこの春も、樹下一面が薄紅色の絨毯となり、その上に夕影がうっすらと射している。

                              了