日本人のこころの歌―私家版・新古今集耕読(28)
恨みの恋
百首歌たてまつりし時よめる
前大僧正慈円
わが恋は 松をしぐれの 染めかねて 真葛が原に
風さわぐなり (巻十一・恋一)
わたしの恋は、あたかもしぐれが松を染めかねて真葛が原に風が音を立てているようなもの。あの人の心を動かすことができないままに、わたしの心はつれない人を恨みがましく思って、落ち着く時とてないよ。
これも後鳥羽院主催の初度百首歌詠進歌の一首。慈円は、藤原兼実の弟で、天台座主として院の護持僧であった。「新古今集」には九十二首もの歌が採録されており、西行に次ぐ第二位である。歌中の「松」はつれない恋人の女、「しぐれ」は自分の涙の比喩、「葛の葉」は風が吹くと白っぽい葉裏が目立つところから「裏見」を「恨み」と掛けて、よく歌に詠まれている。典型的な新古今風の歌である。
歌の趣意は、自分の想いを女に伝えたいのだが、肝心の相手は心の色も変えず、自分のことをどう思っているのか一向にわからない。自分からもっと積極的に行動に表すべきであるが、それができない。それにしてもあまりに素っ気ない相手が恨めしいというのである。四度も総本山延暦寺の座主(総轄職)をつとめ、その歴史書『愚管抄』の中で、鎌倉幕府の二、三代将軍がともに無惨に殺害されるさまを克明に描き、また「承久の乱」後、わずかな近臣と侍女を連れて隠岐に旅立った院の様子を淡々と書き綴っているほどのクールな賢人にしては、なんとナイーブな感性であることか。史伝によれば、当人は巨大な鼻の持ち主であり、異性に対してはコンプレックスがあったのかもしれない。
さはさりながら、この歌は、全体が暗示によって表現されており、切ない男の心情を軽妙洒脱なタッチで表現したいい歌になっている。
恨みの恋
百首歌たてまつりし時よめる
前大僧正慈円
わが恋は 松をしぐれの 染めかねて 真葛が原に
風さわぐなり (巻十一・恋一)
わたしの恋は、あたかもしぐれが松を染めかねて真葛が原に風が音を立てているようなもの。あの人の心を動かすことができないままに、わたしの心はつれない人を恨みがましく思って、落ち着く時とてないよ。
これも後鳥羽院主催の初度百首歌詠進歌の一首。慈円は、藤原兼実の弟で、天台座主として院の護持僧であった。「新古今集」には九十二首もの歌が採録されており、西行に次ぐ第二位である。歌中の「松」はつれない恋人の女、「しぐれ」は自分の涙の比喩、「葛の葉」は風が吹くと白っぽい葉裏が目立つところから「裏見」を「恨み」と掛けて、よく歌に詠まれている。典型的な新古今風の歌である。
歌の趣意は、自分の想いを女に伝えたいのだが、肝心の相手は心の色も変えず、自分のことをどう思っているのか一向にわからない。自分からもっと積極的に行動に表すべきであるが、それができない。それにしてもあまりに素っ気ない相手が恨めしいというのである。四度も総本山延暦寺の座主(総轄職)をつとめ、その歴史書『愚管抄』の中で、鎌倉幕府の二、三代将軍がともに無惨に殺害されるさまを克明に描き、また「承久の乱」後、わずかな近臣と侍女を連れて隠岐に旅立った院の様子を淡々と書き綴っているほどのクールな賢人にしては、なんとナイーブな感性であることか。史伝によれば、当人は巨大な鼻の持ち主であり、異性に対してはコンプレックスがあったのかもしれない。
さはさりながら、この歌は、全体が暗示によって表現されており、切ない男の心情を軽妙洒脱なタッチで表現したいい歌になっている。