竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

恨みの恋

2011-04-29 13:02:15 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・新古今集耕読(28)

 恨みの恋

    百首歌たてまつりし時よめる 
前大僧正慈円
わが恋は 松をしぐれの 染めかねて 真葛が原に 
風さわぐなり       (巻十一・恋一)

 わたしの恋は、あたかもしぐれが松を染めかねて真葛が原に風が音を立てているようなもの。あの人の心を動かすことができないままに、わたしの心はつれない人を恨みがましく思って、落ち着く時とてないよ。
 
 これも後鳥羽院主催の初度百首歌詠進歌の一首。慈円は、藤原兼実の弟で、天台座主として院の護持僧であった。「新古今集」には九十二首もの歌が採録されており、西行に次ぐ第二位である。歌中の「松」はつれない恋人の女、「しぐれ」は自分の涙の比喩、「葛の葉」は風が吹くと白っぽい葉裏が目立つところから「裏見」を「恨み」と掛けて、よく歌に詠まれている。典型的な新古今風の歌である。
 歌の趣意は、自分の想いを女に伝えたいのだが、肝心の相手は心の色も変えず、自分のことをどう思っているのか一向にわからない。自分からもっと積極的に行動に表すべきであるが、それができない。それにしてもあまりに素っ気ない相手が恨めしいというのである。四度も総本山延暦寺の座主(総轄職)をつとめ、その歴史書『愚管抄』の中で、鎌倉幕府の二、三代将軍がともに無惨に殺害されるさまを克明に描き、また「承久の乱」後、わずかな近臣と侍女を連れて隠岐に旅立った院の様子を淡々と書き綴っているほどのクールな賢人にしては、なんとナイーブな感性であることか。史伝によれば、当人は巨大な鼻の持ち主であり、異性に対してはコンプレックスがあったのかもしれない。

 さはさりながら、この歌は、全体が暗示によって表現されており、切ない男の心情を軽妙洒脱なタッチで表現したいい歌になっている。

至上の暮春の景

2011-04-22 09:18:01 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・新古今集耕読(27)

至上の暮春の景

    五十首歌たてまつりし時     
寂蓮法師
暮れてゆく 春のみなとは しらねども
霞に落つる 宇治の柴舟 (巻二・春下)

 暮れてゆく春の湊がどこかはわからないが、宇治川を流れ下る柴舟は、一面の霞の中に落ちこんでいった。春の湊はあのあたりだろうか。

 寂蓮法師は藤原俊成の甥で、その養子に迎えられたが、実子の定家が生まれたので、その後に出家した。後鳥羽院から「新古今集」の撰者「寄人」に任命されながら、その心労のため勅撰集の成立を待たずに没した。
 「春のみなと」は、本歌の「年ごとにもみぢ葉流す立田川みなとや秋のとまりなるらむ」(「古今集」紀貫之)に基づいた表現である。「春の行きつく場所」の謂である。「宇治川」は、琵琶湖に発し、宇治市を流れて淀川に合流する、流れの速いことで有名な大河である。

 日本人は、伝統的な和歌はもとより近代になってからも、例えば藤村にせよ晶子にせよ、白秋にせよ、幾多の浪漫詩人が「ゆく春」の季節感を好んで放吟している。
「時は夕暮れ近いころ、夕霞のうっすりとかかった宇治川は、暮れゆく春を悲しむごとく、川音もしずかに流れているのであるが、その夕霞の中を、ちょうどうす墨でかいた墨絵のようにしずかに流れ下ってゆく柴舟がある。そのしずかな姿、ぼうっとかすんだ姿、物思うがごとく、悲しむがごとく、思い出にふけるがごとく、すすり泣く女のごとく、かえりみがちにくだってゆく姿、作者はその柴舟にゆく春を見た。ゆく春のもつあらゆるさびしさや哀しさを見た。花を流してゆく都の川、恋文を焼く若い宮女房、そういうものに、ゆく春を感じるのは容易である。しかし、突如として宇治の夕暮れを描き出して、その柴舟にゆく春を感じることは、決して容易なことではない。」(石田吉貞)
ここまで書かれてしまうと、付け加える言葉はなにもない。

錦繍に包んだ悲しみ

2011-04-15 09:10:33 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・新古今集耕読(26)

錦繍につつんだ悲しみ

    摂政太政大臣家に五首歌よみ侍りける
               皇太后宮大夫俊成
またや見む 交野(かたの)のみ野の さくらがり 
花の雪散る 春のあけぼの  (巻二・春下)

 再び見ることがあろうか。交野の御狩場の桜狩りで、花が雪と散り乱れるこの春の曙を。   

 俊成が八十歳の年、太政大臣藤原良経の家で催された歌会の席で詠んだ五首歌の一首。「交野のみ野」は、大阪枚方市あたりにあった皇室の狩場。「伊勢物語」に、業平がこの地で惟喬親王と桜狩した話がある。駒を進めながら、一夜桜花を尋ね歩いた折の歌。上三句に、老齢の俊成が「この世での見納め」と、桜花の散乱を眺めた感慨が吐露されていて、下二句の華麗な表現に実感をこめている。
 「二年前に最愛の妻をうしない、哀傷の歌に老の涙をしぼっている八十二歳の俊成に、このような、一点のかげもない、豊満艶麗の歌があるのは、思えば不思議である。(しかし、実は)若い日、西行と袂をわかって自分の歌に踏みきったとき、俊成の歌にこのような歌があることは、すでに決せられたのである。おしよせる中世的な暗澹たる精神に反抗して、伝統的な王朝美をあくまでかかげようとする、俊成の基本的な態度、悲しみを艶によって現わし、悲しみが深ければ深いほど、艶を濃く花やかにしようとする頽唐的傾向が決せられたのである。」(石田吉貞)

 1203年、鎌倉では源頼家が修禅寺に幽閉され、優れた歌人でもあった源実朝が擁立された。その翌年には外祖父・北条時政が執権政治を始めた。激しい時代の変革期に、当代歌壇の元老とでも言うべき俊成は、後鳥羽院、摂政良経、天台座主慈円をはじめ並み居る宮廷歌人こぞって九十賀を祝われ、「新古今集」の完成を目前にしながら、天寿を全うして大往生を遂げたのである。


あてやかな春の夜の夢

2011-04-08 09:23:33 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・新古今集耕読(25)

あてやかな春の夜の夢

守覚法親王、五十首歌よませ侍りけるに
               藤原定家朝臣
春の夜の 夢の浮橋 とだえして 
峯にわかるる 横雲の空(巻一春上)

 春の夜の美しい夢がふっつりととだえ、さながら神女が後朝(きぬぎぬ)の別れを告げるように、峯から別れて横雲の立ち昇ってゆく明け方の空よ

 「守覚法親王」は、後白河天皇の第三皇子で式子内親王の同母弟。「春の夜の夢の浮橋」は、はかない男女の逢瀬のなまめかしい夢を暗示する表現である。上句と下句の間に短い間があり、夢から目覚めていく微妙な時間的経過を感じさせる。「夢の浮橋」は、もとより『源氏物語・宇治十帖』の最後の巻名であり、「物語的な悲恋」を連想させる。
 藤原定家の歌には、このように隠喩(あるいは引喩)による虚構表現のものが多く、フランスのボードレールなどの象徴詩に近いものがある。
 「春はあけぼのーと言われた王朝的あけぼのが、定家的妖艶に染められて、どこともなく駘蕩の香りがうずいている。夢の中の世界と現実の東雲(しののめ)の空との幻想的な交錯、情緒的なものと官能的なものとの渾然とした融合、多くの年月のあいだ、定家がねらいつづけて得られなかったものが、ようやくここに具現したのである。開眼の句というものが芭蕉にあるならば、これはまさしく定家の開眼の歌であるといってよいであろう。」(石田吉貞)

 大岡信は、『折々のうた』のなかで、この歌と対比して『芭蕉七部集・曠野(あらの)』所収の連句から次の二句を取り上げ、「後朝(きぬぎぬ)の別れ」の例示としている。
きぬぎぬや あまりかぼそく あてやかに  芭蕉
 かぜひきたまふ 声のうつくし       越人
「王朝男女のきぬぎぬの景を二句の連なりによって作っている。男を送り出す姫君の消え入らんばかりのはじらい。風邪声なのがまたひときわ魅力的で。」
この解説がまた、憎らしいほどいい。

妖艶の美

2011-04-01 07:28:38 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・新古今集耕読(24)

妖艶の美

   千五百番歌合に    
皇太后宮大夫俊成女
風かよふ ねざめの袖の 花の香に 
かをる枕の 春の夜のゆめ   (巻二・春下)

 やわらかい風が吹き通う春の夜、ふと寝ざめたわたしの袖は花の香に薫り、先ほどまで美しい夢を見ていた枕も薫って、わたしはまだ夢心地です。

 俊成女の実母は、藤原俊成の娘・八条院三条であるが、祖父俊成の養女となったので女房名としてこう呼ばれている。叔父・定家とともに御子左家を代表する歌人として活躍、数々の歌合せに出詠し、注目された。
 「花の香」は、梅か桜か意見が分かれているが、「新古今集」では、この歌の前後に落花する桜の香を詠んだ歌を配列しており、撰者たちは桜と解したかったのであろう。「なまめかしい女の、寝室、春の夜、花の香を吹き送る風、恋の夢、美しい女の寝覚めの姿、寝みだれた袖や枕、その袖にも枕にもしみている花の香り、悩ましいばかりの官能美がある。」(石田吉貞)
 この歌を詠んだころ、俊成女は、夫・源通具の愛を失って悶々とした日々を過ごしており、その実生活での寂しさがこの歌に投影されているとみる向きも多いが、いかがであろうか。

俊成女は、新古今時代の女房歌人として、前回取り上げた宮内卿と対比されることが多い。鴨長明の『無名抄』によると、二人はその生涯も歌に向かう姿勢も対照的であったようだ。それはともかく、宮内卿は可憐な未通女であり、男女の情愛とは無縁なところで、非凡な機知とレトリックを駆使して、並み居る公達のヤング・アイドルとしてもてはやされた。もとより宮内卿は、俊成女のような、概念のあいまいな語句と曲折ある構文とを駆使して、妖艶な情趣のある「耽美小説的世界」を詠みあげる術は持ち合わせていなかったに違いない。