日本人のこころの歌
―続「古今集」耕読・むかし、男の歌(9)
老いらくの道
堀河大臣の四十の賀、九條の家にてしける
ときによめる
在原業平朝臣
桜花 散りかひくもれ 老いらくの
来むといふなる 道まがふがに (巻七賀歌)
桜の花よ、散り乱れて、ここかしこの区別もつかぬまで曇らしてくれ。老いのやってくるという道が、わからなくなるように。
(伊勢物語百一段参照)
村上天皇の外祖父として、史上初めて人臣摂政となり、藤原氏による摂関政治の道を拓いた藤原良房が亡くなり、その養子・基経が独裁的な政権を確立していった。この時期、業平は晩年期にあって遅ればせながら平穏な官途をたどっていた。掘河殿を本邸としていた基経は、四十歳を迎え、九條の家で賀宴が催された。その時伺候していた業平の賀歌である。
この歌については、大岡信氏も指摘しているように、祝賀の歌で「桜花 散りかふくもれ」と詠い出すのは異様である。さらに続く三句の「老いらく(老年)」という語は忌詞である。座にある人々は息をつめて、耳をそばだてた違いない。それが結句で一転して長寿を願う賀の歌となり、一同は安堵し拍手喝采したに違いない。業平が得意とする気のきいた「いけずごころ」である。
「伊勢物語」の四、五、六段は、業平と高子(後の二条后)との道ならぬ恋が、高子の兄の国経、基経(良房の養子)に邪魔され、その後、業平の係累は藤原氏によって排除されることになったという、いかにも実説らしい話を仕立て上げている。
おそらく、業平の実像は、そんなに無鉄砲で単細胞ではなく、あくまで文化人として、時に、このような皮肉や風刺を利かせた歌を披露していたのであろう。
「伊勢物語」の百一段には、行平(業平の兄)の家で、甕にさした見事な藤の花を歌題として、業平が詠んだとされる「咲く花の したにかくるる 人おほみ ありしにまさる 藤のかげかも」と藤原氏にへつらう人たちへの皮肉ともとれる讃歌も、この手法によるものであろう。
―続「古今集」耕読・むかし、男の歌(9)
老いらくの道
堀河大臣の四十の賀、九條の家にてしける
ときによめる
在原業平朝臣
桜花 散りかひくもれ 老いらくの
来むといふなる 道まがふがに (巻七賀歌)
桜の花よ、散り乱れて、ここかしこの区別もつかぬまで曇らしてくれ。老いのやってくるという道が、わからなくなるように。
(伊勢物語百一段参照)
村上天皇の外祖父として、史上初めて人臣摂政となり、藤原氏による摂関政治の道を拓いた藤原良房が亡くなり、その養子・基経が独裁的な政権を確立していった。この時期、業平は晩年期にあって遅ればせながら平穏な官途をたどっていた。掘河殿を本邸としていた基経は、四十歳を迎え、九條の家で賀宴が催された。その時伺候していた業平の賀歌である。
この歌については、大岡信氏も指摘しているように、祝賀の歌で「桜花 散りかふくもれ」と詠い出すのは異様である。さらに続く三句の「老いらく(老年)」という語は忌詞である。座にある人々は息をつめて、耳をそばだてた違いない。それが結句で一転して長寿を願う賀の歌となり、一同は安堵し拍手喝采したに違いない。業平が得意とする気のきいた「いけずごころ」である。
「伊勢物語」の四、五、六段は、業平と高子(後の二条后)との道ならぬ恋が、高子の兄の国経、基経(良房の養子)に邪魔され、その後、業平の係累は藤原氏によって排除されることになったという、いかにも実説らしい話を仕立て上げている。
おそらく、業平の実像は、そんなに無鉄砲で単細胞ではなく、あくまで文化人として、時に、このような皮肉や風刺を利かせた歌を披露していたのであろう。
「伊勢物語」の百一段には、行平(業平の兄)の家で、甕にさした見事な藤の花を歌題として、業平が詠んだとされる「咲く花の したにかくるる 人おほみ ありしにまさる 藤のかげかも」と藤原氏にへつらう人たちへの皮肉ともとれる讃歌も、この手法によるものであろう。