竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

老いらくの道

2014-04-30 11:16:49 | 日記
日本人のこころの歌
 ―続「古今集」耕読・むかし、男の歌(9)

老いらくの道

  堀河大臣の四十の賀、九條の家にてしける
  ときによめる
                  在原業平朝臣
桜花 散りかひくもれ 老いらくの 
   来むといふなる 道まがふがに (巻七賀歌)
 桜の花よ、散り乱れて、ここかしこの区別もつかぬまで曇らしてくれ。老いのやってくるという道が、わからなくなるように。
              (伊勢物語百一段参照)
 村上天皇の外祖父として、史上初めて人臣摂政となり、藤原氏による摂関政治の道を拓いた藤原良房が亡くなり、その養子・基経が独裁的な政権を確立していった。この時期、業平は晩年期にあって遅ればせながら平穏な官途をたどっていた。掘河殿を本邸としていた基経は、四十歳を迎え、九條の家で賀宴が催された。その時伺候していた業平の賀歌である。
 この歌については、大岡信氏も指摘しているように、祝賀の歌で「桜花 散りかふくもれ」と詠い出すのは異様である。さらに続く三句の「老いらく(老年)」という語は忌詞である。座にある人々は息をつめて、耳をそばだてた違いない。それが結句で一転して長寿を願う賀の歌となり、一同は安堵し拍手喝采したに違いない。業平が得意とする気のきいた「いけずごころ」である。

 「伊勢物語」の四、五、六段は、業平と高子(後の二条后)との道ならぬ恋が、高子の兄の国経、基経(良房の養子)に邪魔され、その後、業平の係累は藤原氏によって排除されることになったという、いかにも実説らしい話を仕立て上げている。
 おそらく、業平の実像は、そんなに無鉄砲で単細胞ではなく、あくまで文化人として、時に、このような皮肉や風刺を利かせた歌を披露していたのであろう。
 「伊勢物語」の百一段には、行平(業平の兄)の家で、甕にさした見事な藤の花を歌題として、業平が詠んだとされる「咲く花の したにかくるる 人おほみ ありしにまさる 藤のかげかも」と藤原氏にへつらう人たちへの皮肉ともとれる讃歌も、この手法によるものであろう。

業平と小町

2014-04-24 09:00:51 | 日記
日本人のこころの歌
  ―続「古今集」耕読・むかし、男の歌(8)

業平と小町
                     業平朝臣
秋の野に 笹わけし朝の 袖よりも 
     逢はで来し夜ぞ ひちまさりける   
 名残を惜しみつつ笹をかき分けて帰った朝は、つめたい秋の野の露で袖がびっしょり濡れたけれど、訪れたのに逢へないで、空しく引き返した夜の涙のほうが、袖をよけいに濡らすものだ
                     小野小町
海松布(みるめ)なき 我が身を浦と 知らねばや 
かれなで海人(あま)の 足たゆく来る      (巻十三恋歌三)
 海松布の生えない浦だとも知らず、愚かな漁師はしきりに足を運んで来る。あなたもまったく同じこと。あなたを見る目など持ち合わさぬ私とご存じないのか。相も変わらず足しげく通っていらっしゃいます。                

 巻十三には、二人の歌が並んで掲載されている。前の歌は、逢えず空しく帰った翌朝、業平が女に贈った怨歌である。契沖は、この歌について「上句には露といはで露あり、下句には涙といはねで涙あり」と的確に指摘している。
 後の小町の歌の「みるめ」は、「海松布(海藻)」と「見る目」の掛詞であり、「逢う気のない私のところに、愚かな男は足しげく通ってくることよ。」とすげなく拒絶しているのである。

 この二首は、本来は独自に詠んだものであるが、「伊勢物語」では、この二首を組み合わせて、ストーリーを作っている。そこでは、「むかし、男」が、いざとなると逢おうとしない女に恨みの歌を贈ったところ、「色ごのみなる女」が、すげない返歌を寄越してきたことになっている。匿名の物語としているが、男はともかく、女は、小野小町を意識して作られたものであろう。小町については、時代を越えて日本の各地に、出生、死去に関わる伝承があるが、「謡曲」にも、深草少将の求愛を非情にも拒否した「通(かよい)小町」や鱎慢の末、零落して年老いた「卒塔婆(そとば)小町」などの詞章がある。
 業平にせよ、小町にせよ、時代が下るとともに「色好み」の典型的人物としてイメージ化されていったのであろう。    

業平と小町

2014-04-11 09:11:16 | 日記
日本人のこころの歌
  ―続「古今集」耕読・むかし、男の歌(7)

  夢うつつの逢瀬     

 業平朝臣の伊勢国にまかりたりける時、斎宮なり
 ける人に、いとみそかに逢ひて、又の朝に、人や
 るすべなくて、思ひをりけるあひだに、女のもと
 よりおこせたりける        よみ人しらず
君や来し われや行きけむ おもほえず
     夢かうつつか 寝てか覚めてか   
 昨夜はあなたが来て下さったのか、私がうかがったのか、よくわかりません。あれは夢だったのでしょうか、実際のことだったのでしょうか。眠っているうちのことでしょうか、覚めている間のことでしょうか。
  返し              業平朝臣  
かきくらす 心の闇に まどひにき
     夢うつつとは 世人(よひと)さだめよ
  (巻十三恋歌三)
 真っ暗な心の闇に、あなたもろとも私もまどってしまいました。夢かまことの出来事か、定めよというなら誰か他人にさだめてもらいましょう。(伊勢物語 六十九段参照)

前の歌の作者は、「よみ人しらず」となっているが、詞書にあるように「伊勢の斎宮」(天皇の名代として、神に仕える未婚の内親王)であり、神ならぬ人間と情交を結ぶことはタブーとされていた女性である。この話は、まさに、神をも恐れぬ業平の大胆な言動として評判となり、後に、この歌物語に「伊勢物語」というタイトルがつけられたとも言われている。因みに、この時の斎宮は、惟喬親王の妹・恬子(やすこ)内親王であった。
 「狩の使(諸国に遣わされた鳥獣監察使?)」として伊勢に出張していた業平が、タブーを犯して関係を結んだ翌朝、斎宮の方から先に「後朝の歌」をよこしてきたのでる。斎宮にとっては、昨夜のことは思いもよらぬハプニングであり、惑乱・動転していたのであろう。
 それに対する業平の返歌は、さすがに「その道のエキスパート」の本領を窺わせるものであった。自分も同じように困惑の渦中にあるとしながら、夢かうつつかは「世人さだめよ」というのである。ただ、この解釈では今一つしっくりしない気がする。「世」は男女の仲を意味する語であるから、「世人」は、当人同士と解していいのではないか。現に「伊勢物語」では「今宵さだめよ」となっている。「今宵もう一度逢って、二人で夢かうつつかを決めましょう」というのであろう。心乱されている女性の贈歌に対して、いかにもその道の権威らしい力強い返歌である。

身をしる雨

2014-04-04 07:53:06 | 日記
日本人のこころの歌
   ―続「古今集」耕読・むかし、男の歌(6)

  身をしる雨

  藤原敏行朝臣の、業平朝臣の家なりける女をあひしりて、文
つかはせりける言葉に、「今まうで来、雨の降りけるをなむ、
見煩ひはべる」と言へりけるを聞きて、かの女にかはりて
よめりける        在原業平朝臣

かずかずに おもひ思はず 問ひがたみ
  身をしる雨は 降りぞまされる(巻十四恋歌四)
 あなたが私を思って下さっているのかいないのか、あれこれ問いただしたいとは思うのですが、お訪ねがなくてはそれもできず、私の身のほどを知っている涙の雨が、ますます降ってきます。
             (伊勢物語百七段参照)

 前回に、その経緯を記述した求婚の贈答歌のやりとりが実を結んで、藤原敏行は、めでたく業平の妻の妹と結婚したようである。それでも、しばらくすると、敏行は女の許に通うのがおっくうになって「もうすぐお訪ねします。あいにく雨になって様子を見ています。」と、文をよこしてきたので、今や義兄となった業平が、苦虫を噛みつぶしながら代わって歌を返したのである。
 いかにも新妻らしく、哀切を極めた恨みがましい歌になっているが、ようやく歌人として認められてきた敏行には、それが業平の代作であることはお見通しのことであったのであろう。この際、歌人の大先輩の機嫌を損ねるわけにはいかない。「伊勢物語」では、この後、敏行は「蓑(みの)も笠もとりあへで、しとどにぬれてまどひきにけり。(あわただしく、びしょぬれになってやってきた)」ということになっている。

 因みに、藤原敏行は、その後、「寛平の帝(宇多天皇)」に寵愛され、歌人の中では格段に高い官位に達した。「百人一首」には、「住(すみ)の江の 岸による波 夜さへや 夢の通ひ路 人めよくらん(住の江の岸に寄る波、その夜の夢の中で往き来する時までも、あなたは人目をさけて、私と逢ってくださらないのであろうか)」という技巧を駆使した歌が採られている。歌人敏行の歌の上達ぶりには、業平の感化が大きかったのかもしれない。